2024年9月1日(日) 日曜礼拝「わたしは心騒ぐ」

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2024年9月1日(日) 日曜礼拝「わたしは心騒ぐ」

下記をクリックすると説教動画を見ることができます。 https://youtu.be/kAGaoRnCj70



自分の命を憎む ヨハネ12:20-36

 イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た」(12:23)と語って、十字架の死こそ自分にとっての栄光の時であることを示しました。

 続けて「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と語りました。直接的には、自分の十字架の死が多くの人を救うという結果(実り)をもたらすことになることを暗示しています。

 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(12:25)は、イエスらしい逆説的な言い方です。ここでの愛するとは利己的愛のことです。憎むとは執着しないで捨てる覚悟があるということです。この「愛する」、「憎む」の対比は、27節のイエスの葛藤に当てはまります。イエスにとって、自分の命を愛するとは十字架の死から逃れること、憎むとはその死を受け入れることでした。死を受け入れたことで、イエスは永遠の命を勝ち取ることになりました。

 またイエスは、大切なところで「この世」に言及しています。25節では「この世で自分の命を憎む人は」、31節では「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される。」この世とは、人間社会、あるいは世間のことだと考えてください。

 人間社会・世間は、人が作った価値や評価基準に満ちています。成功、幸福、満足、失敗、失格、善悪などの基準が満載で、それで人を計って、位置づけたり、価値づけたり、いじめたりします。それがうわさ話しや、昇進や昇給、選挙の落選・当選としてあらわれてきます。

「この世で自分の命を憎む」とは、この世の尺度で自分の人生(命)を評価しないということです。「今、この世が裁かれる時」とは、イエスの救いの前では、世の評価や価値観は無価値になるということです。

「わたしに仕えようとする者は、」(26)とは、世の価値観ではなく、十字架の死がもたらす新しい生き方を受け入れる者のことです。その者は、イエスが勝ち取った永遠の命に至ります。

毎週日曜は礼拝の日

日本キリスト改革派 仙台カナン教会は、毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで都合のつかない方は、水曜日の祈祷会(お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
毎週日曜日 午前10時30分~12時00分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会
毎週水曜日 14時00分から15時30分
こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。

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