毎週日曜は礼拝の日
日本キリスト改革派 仙台カナン教会は、毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで都合のつかない方は、水曜日の祈祷会(お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 毎週日曜日 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会
- 毎週水曜日 14時00分から15時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。
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一粒の麦が死ねば ヨハネ12:20-36
イエスが十字架にかかる過越の祭が迫っています。その祭りに参加するためにエルサレムに来ていたギリシア人がイエスに合わせてほしいと弟子に頼みにきました。
イエスはこれを聞くと、「人の子が栄光を受ける時が来た。・・・」と語りはじめました(12:23)。わたしの時はまだ来ていないとこれまで繰り返していた(2:4、7:6)のとは違います。ギリシア人がイエスに会いに来たことは、ユダヤ人の枠を超えて、自分を信じるすべての者を救うために十字架に架かるというメシアの使命に一致しています。自分を求めるギリシア人の姿を見て、イエスは自分が十字架に架かる時が来た、すなわち栄光を受ける時が来たことを再確認したのです。それで、弟子たちにわかるように「はっきり言っておく。(アーメン、アーメン)」と強調し、「わたしの時が来た」と明言したのです。
ただし、わたしの時とは一粒の麦が地に落ちて死ぬときのことであり、イエスが十字架にかけられ、死んで葬られることを意味します。それは「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」(27)とイエスが語るとおり、イエスにとって困難で、できることなら避けたいこと、逃げ出したいことでした。このイエスの葛藤は、マルコ14:32以下にあるゲッセマネにおけるイエスの苦悩に満ちた祈りと同じものです。
イエスがこの苦悩に満ちたメシアの道を歩むのは、イエスが十字架で「死ねば、多くの実を結ぶ」(24)ことを知っているからであり、それが神の子が人となって世に現れた理由であるからです。「多くの実」とは、ユダヤ人とギリシア人の区別なく、すべての人が救われるという実りです。これこそ、このときのユダヤ人には想像もつかない神のまことの救いです。
この救いの実現こそがイエスの栄光ですが、ユダヤ人をはじめ弟子たちでさえ、十字架の死と一体であることは分かりませんでした。