毎週日曜は礼拝の日
日本キリスト改革派 仙台カナン教会は、毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで都合のつかない方は、水曜日の祈祷会(お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 毎週日曜日 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会
- 毎週水曜日 14時00分から15時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。
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信仰のない時代 マルコ9:14-29
本日の聖書箇所は、イエスと弟子たちが山から下りてきた直後のできごとです。
山の上では、栄光に満ちたイエスの姿があらわれ、イエス、モーセ、エリヤが協議し、「これはわたしの愛する子。これに聞け」(7)との神の声が響きました。これらはイエスのもとに神の救いがあることを示すものであり、モーセが登ったシナイ山でのできごとと重なります。
下りてきたイエスは、弟子の失敗を知って、「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」(19)と嘆きます。これも、山から下りてきて民の背信を見たモーセが烈火のごとく怒って、十戒の刻まれた石の板を砕いてしまったこと(出32:19)に似ています。山の上と下界との落差、すなわちキリストにある神の救いの提供とその奥義をゆだねられる弟子たちとの落差があまりに大きいのです。
弟子たちの失敗は信仰の問題です。また我が子の救いを求めてきた父親にも「信じる者には何でもできる」と語って、信仰を問うています。
キリストにある救いは、提供する側(弟子・教会)にも、受け取る側にも信仰が必要であることを教えたいのが今日の聖書箇所のテーマであるといえます。
その信仰とは、「これはわたしの愛する子。これに聞け」とあるとおり、イエス・キリストへの信仰です。ただし「イエスはキリスト」と語るだけ、イエスの弟子であるというだけでは、子どもを救うことに失敗したとおり、役に立ちません。弟子の中で「誰がいちばん偉いか」と競い合っているようでは(34)、救いの奥義によって隣人を罪と死の縄目から解放することはできません。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8:34)。これを行うイエスへの信頼が弟子・教会の資格です。
「祈りによらなければ」とイエスが弟子たちに失敗の理由を明らかにしています。律法学者と激しく議論はしても、祈りがなければ、「何と信仰のない時代なのか」ということになるのです。