毎週日曜日は礼拝の日
仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜日 朝の礼拝
- 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 水曜日 祈祷会
- 14時00分から15時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。
「ポンテオ・ピラトのもと」は、イエスの裁判を指しています。四つの福音書が強調していることは、裁判官ピラトがイエスには罪がないことを認めたことです。このことは、イエスが罪なき神の小羊であったことを意味しています。また、神のみ子であるイエスが、人による裁判に服して死刑判決を受け入れるほどに、身を低くし、救い主として人に仕えたことを表しています。
同時に、無罪と知りつつ死刑判決を下す人間の罪深さがピラトの裁判においてえぐり出されています。
「苦しみを受け」は、単なる苦しみではなく、イエスご自身が「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」(ルカ14:26)と解説されたとおり、メシアゆえの特別な苦しみです。すなわち、全人類の罪に対する神の裁きを、身代わりに受けた苦しみです。この苦しみは、肉体的な痛みである以上に、神に裁かれて捨てられたゆえの魂における霊的な痛みであり苦悩でした。
また、単に十字架の苦しみだけでなく、人の世において、生涯にわたって、メシアとして受けた苦しみも意味しています。イエスは、罪を別にして人間としての弱さをわたしたちと同じく持っていました。それゆえ、人として数々の試練を受け、それと闘って苦悩しつつ、神様の戒めを完全に守り、罪なき神の小羊となられたのです。全生涯がメシアとしての苦しみであったということもできます。
「十字架につけられ」たことには特別な意味があります。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(ガラ3:13) とあるとおり、十字架の死は、神にのろわれた死であるからです。
十字架につけたのは、直接はユダヤ人とローマの兵士です。それ以上に、罪人であるわたしたちがイエスを十字架にのぼらせたのです。しかし、本当の意味で、神の愛がこの救いの出来事をおこしました。