信仰と希望

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信仰と希望

キリストを信じるとは、キリストの死と復活という過去の出来事にわたしたちを救う神の愛を認めることです。また、キリスト復活にあずかって今自分が生きていることに、神の恵みを認めることです。 過去と現在に神の深い愛を知る者はまことの希望を持つことができます。希望とは過去と現在を手掛かりにして将来を望み見るものだからです。神の愛が将来わたしたちを裏切ることはありません。

信仰と希望   ロマ5:1-11

本日は「信仰と希望」との説教題ですが、キリストへの信仰がまことの希望にいたることを考えます。

 今日の聖書箇所の冒頭5:1に「信仰によって義とされたのだから」とあります。この意味はロマ書の4章全体が説明し、プロテスタント教会が「信仰義認」と呼んでいることです。

 「義とされる」、すなわち義認とは、正しい者に作り変えられて良い人になるという意味ではありません。善人ではなく、罪人を神がキリストのゆえに正しい人とみなし、受け入れるということです。

受け入れるとは、親が子を丸ごと受け入れるように、その人全体を我が子、すなわち神の子として受け入れるということです。この場合には、個々の言動、個々の罪は問題にはならなくなります。このように、神がキリストのゆえに罪人を受け入れることを「義とする」、義と認めるといいます。特殊な聖書用語です。

では、何によって人は義と認められるのか。キリストを救い主と認めて神を信じるという一点によります。正しい人・善人・立派であるから受け入れるというのではありません。

善人であるゆえに救われるのであれば、自分が善人に思えた時には安心し、そう思えない時には不安になります。これでは生涯安心と不安の繰り返しであり、救われたという喜びは持てません。

キリストを信じることで、神がわたしを受け入れてくださるのであれば、救いの根拠は自分の側ではなく、神の懐の広さという愛にあることになります。

キリストを信じるとは、キリストの死と復活という過去の出来事にわたしたちを救う神の愛を認めることです。また、キリスト復活にあずかって今自分が生きていることに、神の恵みを認めることです。

過去と現在に神の深い愛を知る者はまことの希望を持つことができます。希望とは過去と現在を手掛かりにして将来を望み見るものだからです。神の愛が将来わたしたちを裏切ることはありません。

毎週日曜日は礼拝の日

仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜日 朝の礼拝
午前10時30分~12時00分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
水曜日 祈祷会
14時00分から15時30分
こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。

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