毎週日曜日は礼拝の日
仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜日 朝の礼拝
- 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 水曜日 祈祷会
- 14時00分から15時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。
人の子イエス マルコ14:53-72
大祭司はイエスに向かって「お前はほむべき方の子(神の子)、メシアなのか」(14:61)と問いました。イエスは「そうです」と答え、続けて「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲の囲まれて来るのを見る」と宣言しました。
大祭司はイエスを処刑するために審問しているのであり、イエス自身も自分の死を受け入れています。両者とも死を前提にしているのですが、イエスのことばは辞世の句ではなく、勝利の宣言です。
第一に、死によって終わるのではなく、復活することの宣言です。
第二に、自分は世界に救いの完成(終わり)をもたらす神的存在で
あるとの宣言です。「人の子が・・・天の雲に囲まれて・・・」という言い方は、「終末のしるし」を問題にした13章に出てきた黙示的表現です。そこでイエスは、エルサレム神殿の崩壊、戦争、地震、飢饉などは終末のしるしではないと語り、「人の子」こそが終末のしるしであると教えました。自分こそがこの「人の子」であることを、大祭司を前にして宣言したのです。
イエスがこれから受ける十字架の死とは、復活し、世に救いをもたらす救いのみ業です。この十字架理解はキリスト教信仰の根幹をなしています。キリストの死と復活は、人類をとりことしている罪と死を無力にするできごとであり、父なる神は、これを成し遂げたキリストに人類の救いと完成をゆだねておられます。
それゆえ、聖書はイエスを天的存在「人の子」であるとします。
大祭司によって死刑宣告を受けたイエスに対し、人々は唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴り、平手で打つなどの侮辱を加えました。
一連のできごとを前にして、ペトロはイエスと無関係であると主張して、3度イエスを否定しました。大祭司の手の内でみじめな扱いを受けるイエスの末路は明白であり、その一味と見られることが恐ろしかったのでしょう。ただし、十字架の死が救いのみ業であると分かったとき、イエスの弟子であることを誇りとする者に変わりました。