わたしはつまずかない

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わたしはつまずかない

神の救いはイエスの十字架の前にわたしたちを立たせることです。イエスの十字架は、ペトロをはじめとする弟子たちの自信をくじき、自分たちの無力さを思い知らされることになりました。しかし、それによって、復活のイエスに従う弟子になれたといえます。

わたしはつまずかない        マルコ14:27-31

  今日の箇所は、弟子たちが逃げ去ることについてのイエスの予告です。イエスは十字架を前にして、何もわからない弟子たちに対し、ご自身が復活した後に、すべてが神からでた救いのできごとであることを理解できるようにと振る舞っています。

 イエスは、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と旧約聖書ゼカリア書13:7を引いて、弟子たちが逃げ去ることを予告しました。「わたし」とは神のこと、「羊飼い」とはイエス、「羊」は弟子たちのことです。神がイエスを打ったのであり、実際にイエスを十字架につけたユダヤ当局は神の道具でしかない、という事前の解き明かしです。このことが分かれば、一度散ったとしても、では神の意図は何であるかと問うことで、キリストのもとに立ち返ることができます。

 「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く。」(14:27)との言葉は、復活の朝、おびえる女弟子に天使が告げた言葉とつながります。「弟子とペトロに告げなさい『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。・・・そこでお目にかかれる』」(16:7)。これは、弟子たちは散らされて終わるのではなく、再びわたしの後に従う者になるとの宣言です。他の福音書でも言葉は違っても、弟子たちの回復について語っています。ガリラヤは弟子たちの出発地ですから、そのガリラヤにてイエスと再会し、再出発することを示唆するものです。

 ただし、この時の弟子たちは自信満々であり、ペテロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(14:29)、「死ななければならなくなっても・・・」(31)と反論しました。ペテロの言葉には、①過信と慢心、②他の弟子との競争心、③イエスの言葉の軽視と否定、を読み取ることができます。他の弟子たちもペトロと同じです。

 神の救いはイエスの十字架の前にわたしたちを立たせることです。イエスの十字架は、ペトロをはじめとする弟子たちの自信をくじき、自分たちの無力さを思い知らされることになりました。しかし、それによって、復活のイエスに従う弟子になれたといえます。

毎週日曜日は礼拝の日

仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜日 朝の礼拝
午前10時30分~12時00分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
水曜日 祈祷会
14時00分から15時30分
こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。

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