毎週日曜日は礼拝の日
仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜日 朝の礼拝
- 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 水曜日 祈祷会
- 14時00分から15時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。
終末のしるしは マルコ13:14-26
エルサレム神殿は、金箔におおわれ、山の上に建つ見事な姿であったといわれます。それゆえ神殿を出る時弟子が「何とすばらしい建物でしょう」と感嘆したところ、イエが神殿の崩壊を予告しました。
神殿崩壊を世の終わりと結びつける習慣があり、弟子が「そのことがすべて実現するときには、どんなしるしがあるのですか」と問うたことで、終末に関する大切な教えがイエスの口から語られました。
その一つが終末の前兆としてのしるしの問題です。聖書学に通じていた元東京恩寵教会牧師榊原康夫先生は、若い時と考えを変えたことの一つが終末のしるしについてであると語っておられます。今日の箇所でイエスは終末のしるしを教えたのではなく、しるしがあることを否定した、と考えを変えました(『第2回高松講座 終末と私たち』1999年)。わたしもイエスはしるしを否定したと理解します。
解釈の規準は「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」(13:32)です。その時は誰にもわからないというのですから、終末の前兆としてのしるしはありえません。
「どんなしるしがありますか」との質問に答えたのだからしるしを教えたに違いないと思い込むと、読み間違えます。
わたしの名を名乗る者や戦争は「起こるに決まっているが、まだ終わりではない」(7)。終わりのしるしではないのです。
「方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは生みの苦しみの始まりである」(8)。始まりなのですから、終わりではありません。日本では昔も今も方々で地震が起こりますが終末は来ていません。地震は終わりではなく、苦しみが始まるしるしです。
地震により神殿が崩壊するのですが、この地震とはイエス・キリストの死と復活による旧約宗教を揺るがす巨大地震であるといえます。旧約預言を超えるみ子の死により、神殿は不要になって崩壊し、復活のイエスがまことの礼拝をささげる霊的神殿となりました。
「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(10)。苦しみの始まりとは、キリストの死と復活の後に始まる福音宣教にともなう苦難の始まりを意味します。終末はその後です。それゆえ、地震(キリストの死と復活)は終わりのしるしではなく、苦しみが始まるしるしです。
13章は黙示文学であり、大げさな言葉づかいが続くので、解釈規準を見つけることが大切です。それがわかると、内容は単純です。