神の不思議な御業

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神の不思議な御業

 神の救いは、人が見るところ、考えるところとは全く異なります。そこに腹を立てるか、希望を見出すか、運命の分かれ道です。

神の不思議な御業 マルコ12:1-12

先週、「何の権威、誰からの権威」で神殿を荒らすのかと祭司長たちが問うたところ、イエスは「言わない」と答えたところを読みました。

今日の箇所は「たとえで彼らに話した」とあります。「彼ら」とは祭司長たちのことであり、イエスはたとえを使って答えを与えようとしています。また、このたとえはユダヤ教とたもとを分かった初代キリスト教の主張を反映しています。

たとえの登場人物には次のような意味があります。
ブドウ園の「主人」は父なる神。
「ブドウ園」はイスラエル民族。
ブドウ園を任された「農夫」は祭司長たち。
「主人がつかわす僕」は預言者たち、あるいは洗礼者ヨハネ。
「愛する一人息子」はイエス。

農夫たちは、主人から委託されただけのブドウ園を自分のものであるかのように振る舞い、最後は主人の愛する一人息子を殺してしまいます。殺せば相続財産が自分たちのものになると勝手に考えたからです。しかし、主人は農夫たちを殺し、ブドウ園は他の者にまかせることになる、というたとえ話しです。

このたとえにおける祭司たちの誤りは以下にあります。
① 神の民は主のものであることを忘れ
② 預言者を遣わした主の考えを無視し
③ 息子を送る主の忍耐深さを理解できず
④ 主の物のすべてを奪い取ろうとする欲深さ

 祭司長たちによるイエス殺害については、詩118:22,23にある、大工が使えないと判断して捨てた石が、家が出来上がってみると、最も重要な位置に置かれていた、との聖句がイエスにおいて実現するできごとであると教えます。目利きの悪い大工とは祭司長たちのことです。

 神の救いは、人が見るところ、考えるところとは全く異なります。そこに腹を立てるか、希望を見出すか、運命の分かれ道です。

毎週日曜日は礼拝の日

仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜日 朝の礼拝
午前10時30分~12時00分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
水曜日 祈祷会
14時00分から15時30分
こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。

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