ダビデの子イエス

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ダビデの子イエス

神の国は貧しい者のためにあるのですが(ルカ6:20)、貧しさとは財産のないことではなく、バルティマイのあり方を指します。

ダビデの子イエス マルコ10:46-52

今日の聖書箇所はマルコ福音書の前半最後の部分で、次の11章からエルサレムを舞台とする受難物語になります。

エリコの町は、山の上にあるエルサレムに通じるふもとにあります。一行がこの町を出てエルサレムに向かおうとしたとき、バルティマイがイエスと気づいて「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」と叫んで救われ、イエスに従う者になりました(52)。

このバルティマイは、イエスに救われて弟子になる者の模範であり、前半の理想的な締めくくりになっています。どの点でバルティマイが模範であるかを考えることが重要です。

第一に、10:17以下に登場した財産家でまじめな求道者が哀しんでイエスから去って行ったのとは違い、バルティマイは救いを手にしてイエスに従いました。彼の中にあるべき求道の姿を見るべきです。

バルティマイは、イエスを教えを説く先生ではなく、救ってくれるメシアと信じ、人々の制止も振り切って、救ってくれと熱心に叫び続けました。イエスは、この姿勢をさして「あなたの信仰があなたを救った」(52)と語っています。

第二に、10:35節以下には「何をしてほしいのか」とイエスに問われてトンチンカンなことを願ったヤコブとヨハネが描かれていますが、バルティマイは、同じく「何をして欲しいのか」(51)とイエスに問われると、的確に答えて欲しいものを手にしました。イエスの問いかけに、これまで訓練を受けてきたはずのヤコブたちは落第し、バルティマイが合格したことは驚きです。

バルテマイは盲人の物乞いであって何も頼るものがなく、イエスだけをたよりとしました。ヤコブたちは「何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」(10:28)とは言ったのですが、「自分を捨てる」(8:34)ができず、右大臣になることを自分のあるべき姿としました。

神の国は貧しい者のためにあるのですが(ルカ6:20)、貧しさとは財産のないことではなく、バルティマイのあり方を指します。


毎週日曜日は礼拝の日

仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜日 朝の礼拝
午前10時30分~12時00分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
水曜日 祈祷会
14時00分から15時30分
こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。

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