毎週日曜日は礼拝の日
仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜日 朝の礼拝
- 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 水曜日 祈祷会
- 14時00分から15時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。
子供と神の国 マルコ10:13-22
「時は満ち、神の国は近づいた」(1:15)と語って、イエスは福音宣教を始めました。この神の国は誰のもので、どのようにしてそこに入るのか。これが今日の聖書箇所のテーマです。
人々がイエスのもとに子供たちを連れてきたところ、弟子たちがこの人々を叱りました。すると「イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである』」(10:14)。憤ったとは、激しく怒ったということです。
弟子たちが誰がいちばん偉いかと競い合ったとき、イエスは弟子たちに、すべての人に仕え、わたしの名のゆえに子供を受け入れよと語りました(9:33-)。にもかかわらず、子供を排除したこと、しかもイエスのところに連れてこられた子供たちであったからです。
自分は神の国の一員である、と弟子たちは考えていたかもしれません。しかし、イエスは憤って、神の国は彼らが排除した子供たちのものだと語りました。神の国にふさわしい者とは誰かについて、人の思い込みや尺度が役立たないことがわかります。人に排除されるほど無価値と思われる者が神の国にふさわしいということです。一般的には立派な人が救われると思われがちですが、その反対です。
「はっきり言っておく」(15)とは、「アーメン、アーメン」の訳であり、大切なことを語るときの前置きです。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(15)。
子供のように受け入れることの意味は何でしょうか。17節以下に何をすれば救われる(神の国に入れる)のかとイエスに真剣に問う人が登場します。律法を守ってもまだ救われた気がしないのです。この金持ちの求道者のようにではなく、子供のように神の国を受け入れよ、というのがイエスの教えです。
キリスト者は「神の子」と呼ばれます。神を父と呼んで、神の救いに信頼することが神の国を受け入れるということです。