毎週日曜日は礼拝の日
仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜日 朝の礼拝
- 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 水曜日 祈祷会
- 14時00分から15時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。
叱られたイエス マルコ8:27-9:1
今日の箇所は内容がもりだくさん過ぎます。ただし、個々の内容ではなく、この個所の枠組み・構成とその意味について理解することが重要であると考えます。
①キリスト・イエスを待ち受ける十字架と復活。8:31-32
②無理解のゆえに叱責されるペトロ。32-33
③弟子の覚悟(自分の十字架を背負う)と幸い。34-9:1
ここには二種類の十字架が出てきます。イエスが背負う十字架とイエスの弟子が背負う十字架です。そのあいだでペトロが無理解を厳しく叱責されている。これがこの個所の枠組み・構成です。
8:29でペトロがイエスに「あなたこそメシア(キリスト)」と告白したので、イエスはそれに応えてメシアのみ業(十字架)を明言しました。同時に、従う者に求められる覚悟も明らかにしました。
ただし、ペトロにはイエスが求めた弟子の覚悟はわからなかったでしょう。なぜなら、ペトロにはイエスを待ち受ける十字架が理解できず、おろかしいことと思えたのでイエスをいさめたはずです。であれば、なおのこと福音宣教にともなう十字架(弟子ゆえの苦難)など思いもよらないことでした。
メシアには苦難だけでなく復活があるように、その弟子にも自分の十字架を背負うことだけでなく力にあふれた神の国にあずかる(9:1)という幸いがあります。この幸いは、キリストの苦難(死)の意味を知ることなしにはあずかりえないものです。
その死は、イエスを破滅させるものではなく、わたしたちに命をもたらすためのものであり(8:35-37)、「父の栄光にかがやいて聖なる天使たちと共に来るとき」(8:38)という再臨に通じ、神の国が力にあふれて現れること(9:1)を保証するできごとです。
その死の意味を受け入れたとき、ペトロはイエスの真の弟子となりました。わたしたちもイエスの死の本当の意味を受け入れる時、自分の十字架を背負ってイエスに従うことができます。