毎週日曜日は礼拝の日
仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜日 朝の礼拝
- 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 水曜日 祈祷会
- 14時00分から15時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。
今日の箇所でガリラヤ伝道の段落が終わります。
舟上でのイエスと弟子たちのやり取りは3度目ですが、いずれも弟子たちの失態がきびしく描かれています(4:35-41、6:45-52)。今日の箇所では、イエスがファリサイ派とヘロデのパン種に気をつけるようにと語ったところ、弟子たちはパンを1つしか持っていなので注意されたのだとトンチンカンな理解をしたため「まだ分からないのか。・・・心がかたくなになっているのか。・・・」(17)と叱責されています。
食べるためのパンなら1つあれば十分であることは、5千人、4千人の給食を思い起こせばわかる、とイエスは続けました。
ただし、ファリサイ派とヘロデのパン種とは何かについて、今日の聖書箇所には明示されていません。実は、明示されていないことに意味があるのであり、これまでのマルコの記事から読者自身が読み解くようにという、いわば宿題、あるいはクイズであるということができます。
ファリサイ派については、8:11-13、7:1-23他多数、ヘロデについては6:14-29にヨハネ斬首事件が記されています。これらをご自分で読み、イエスを否定・見失わせる悪しきパン種とは何かについて、考えていただきたいと願います。少量で全体を膨らませるパン種のごとく、ファリサイ派的な何かがその人の中で膨らむと、イエスを見失います。
ヘロデのパン種についてのわたしの理解は、ヘロデはヨハネの正しさに気づき、殺すことにためらいを感じつつも、客の手前、義娘の願いを退けなかったことから、善・正義よりも体面を選び取る態度、また命を軽視する判断です。他者の命の軽視は自分の命の軽視にも通じます。
ベトサイダは、6:45で弟子たちを行かせようとした場所であり、やっとたどり着いたということです。ここで、イエスは盲人の目を段階的に治療し、はっきり見えるようにしました。
これは、弟子たちの霊的盲目もイエスによって徐々に開かれることを暗示するものです。今分かっていることはわずかでも、イエスによって目が開かれて、神の救いがはっきり見える時が必ずきます。