毎週日曜日は礼拝の日
仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜日 朝の礼拝
- 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 水曜日 祈祷会
- 14時00分から15時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。
イエスが処刑場に引かれていき、十字架につけられる箇所です。
泣いている婦人たちとイエスのやり取りがあります。この婦人たちは処刑をあおりたてる泣き女です。本当の悲惨はイエスの十字架の死ではなく、イエスを拒否して神の前で裁かれるあなたがたにある、ということをイエスが彼女たちに指摘したのがこのやり取りです。
イエスは二人の犯罪人にはさまれて十字架につけられました。これは罪のないイエスが罪人の一人となり、罪人の身代わりとなって裁かれることをあらわしています。
この救いの奥義が分からない者たち(民衆・議員・ローマ兵・犯罪人の一人)は、メシアなら自分を救えとあざ笑いました。これは、ここに居合わせた者だけでなく、イエスを受け入れない人たちが持つ一般的な態度であるといえます。
しかし、イエスが救い主である意味は、先週ハイデルベルク信仰問答問13で確認したとおり、人が決してできないことを行うことでわたしたちを救うことにあります。すなわち、わたしたちを罪と死の支配から救い出すことです。そのためにイエスは罪を償う犠牲としてご自分を父なる神にささげたのです。
犯罪人の1人はイエスをののしり、もう1人は「『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」(23:42-43)。
十字架の上でイエスが犯罪人を救ったことは驚きです。けれど、十字架のイエスが救い主であることをわたしたちは受け入れ、信じているのですから、文字どおり十字架の上で罪人に、わたしのいるところにあなたを連れて行くぞ、と語った姿ほどイエスの救いの意味を明らかにするものはないといえます。
十字架からおりなかったからこそ、わたしの救い主であると信じる者に、イエスの言葉「わたしと一緒に楽園にいる」があります。