毎週日曜日は礼拝の日
仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜日 朝の礼拝
- 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 水曜日 祈祷会
- 14時00分から15時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。
今日の聖書箇所は、イエスを知らないと語るペトロとイエスの裁判の場面です。
イエスによるペトロ裏切りの予告は22:31以下に記されています。この時、」死んでもイエスに従うとペトロは断言したのですが、予告どおり3度もイエスを知らないとやはり断言してしまいます。その始まりは「ある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ」(56)とあるとおり、視線です。勇気を振るって中庭まで入ったペトロでしたが、目が合うと、自分を失ってしまいました。
その時、鶏が鳴き、イエスが振り向いてペトロを見つめました(61)。ペトロはイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いたと書かれています。ここにもイエスの視線(眼差し)があります。これはペトロを非難する眼差しでしょうか。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(32)と語ったイエスの祈りであるといえます。
女中の視線によりペトロは自分自身を見失い、イエスの眼差しがペトロを立ち直らせました。激しく泣くほどにペトロを揺さぶりましたが。
このイエスの眼差しが今もわたしたちに向けられています。わたしたちも、人の前ではなく、イエス・キリストという神の前に立つことで激しく揺さぶられ、生き方を変えられる、すなわち悔い改めを迫られるのですが、本当の意味で自分を取り戻すことができようになります。
大祭司の前でのイエスは、十字架の死を前提に、「今から後、人の子は全能の神の右に座る」(69)と語りました。これを聞いた者たちが「では、お前は神の子か」と問い、イエスが「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」(70)と答えると、神と自称したとの冒とく罪のゆえ、死ぬべき者とされました。
なぜ「わたしは神の子だ」と明言しないのか、とも思います。けれども、不思議なことにイエスは自分を神の子であるとは言いません。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り除けてください」と祈っているのですから、神の子であることはそのとおりです。自分はメシア・キリストであるともいいません。自分のことは「人の子」(69)というだけです。
神の子、メシアとは、イエスを救い主と信じる者が語ることのできる特権です。また、この時は、闇が力を振るっているときであるので、イエスが言っても信じるわけがありません(67)。それゆえ、自分では神の子と語らず、「あなたたちが言っている」と返しました。
今、わたしたちは喜びと感謝を持ってイエスに神の子、キリストと呼びかけることができます。信じた者の特権です。