毎週日曜日は礼拝の日
仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜日 朝の礼拝
- 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 水曜日 祈祷会
- 14時00分から15時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。
異邦の地ティルスにて、ギリシア人の母親の願いに応えて娘を救った後、イエスはデカポリスに来ました。デカポリスはギリシアの植民都市であり、やはり異邦の地です。
「人々は耳が聞こえず、舌の回らない人を連れて来て」(7:32)、救ってほしいと頼みました。イエスはその人を群衆から連れ出し、指を両耳にいれ、唾をつけた指で舌を触って「エッファタ(開け)」と語ったところ、耳が聞こえ、話せるようになりました。
このできごとには、異邦人の救いに関する象徴的な意味が込められています。耳が聞こえないとは、神の救いから遠く、救いのことばを聞くことができなかった異邦人の境遇を表しています。また、赤子はことばを聞いてマネすることで少しずつ話ができるようになるのですから、神の声を聞くことができないなら、神を讃えたり祈ったりすることができない、すなわち神に対して舌が回らないのも当然のことです。
このできごとは、単なる個人に対してではなく、異邦人の耳が開かれて福音を聞くことができるようになり、神をたたえる舌・ことばが与えられることを暗示しています。
新約聖書において、ユダヤ人と異邦人の区別はありません。キリストの十字架において両者は一つとされ、キリストをかしらとする一人の人のようになりました(エフェソ2:14-18)。また、キリストのものという意味で「キリスト者」との呼び方がはじまりました(使徒11:26)。
今日の箇所は、人々が驚き「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」(37)と言ったと書いて終わっています。
これはイザヤ書35章5、6節「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。/そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。/口のきけなかった人が喜び歌う。」の引用であり、神の最終的な救いを歌うこの預言がイエスにおいて成就したことがわかります。
異邦人の救いにおいてイザヤ書の救いの預言が成就したことは、異邦人とユダヤ人の救いに区別がないことを教えており、とても重要です。