毎週日曜日は礼拝の日
仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜日 朝の礼拝
- 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 水曜日 祈祷会
- 14時00分から15時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。
「主よ人の望みの喜びよ」(J.S.バッハ)を弾くオルガンの響きと歌声は、聴く者の心に喜びの調べを届けてくれました
「生きた」音楽を通して、目には見えないけれど、確かにおられる神様のいのちの輝きを、心から感じさせていただきました
牧師によるメッセージ
今日のコンサートの一番はじめの曲に「主よ、人の望みの喜びよ」という曲がありました。「主よ、人の望みの喜びよ」が生まれましたのは1723年、バッハが38歳のときです。一般的にバッハは音楽家として有名ですが、キリスト教会におきましては、プロテスタント教会の信者で、礼拝で演奏をするオルガニストとしてもよく知られます。バッハが作りました曲の大部分は、キリスト教会で毎週行われている礼拝で使うために作られた音楽、つまり典礼音楽です。ラテン語で「カンタータ」と言われます。バッハは、カンタータを編曲し、礼拝の中で、これを演奏していました。
「主よ、人の望みの喜びよ」は、ドイツの東の方にありますライプツィヒの聖トーマス教会において行われた特別礼拝、「聖母の訪問の祝日」のために編まれた曲です。この時生まれたカンタータは10曲にもおよび、その中の一部に、「主よ、人の望みの喜び
よ」が入っています。このカンタータは全曲いたしますと、このコンサートでは到底おさまりきれなくなってしまいます。それほどに長いです。
「主よ、人の望みの喜びよ」という曲は、もともとはドイツ語で、これを英語にしますと"Jesu, joy of man's desiring" 直訳しますと「イエスを有する私の喜び」という名前になります。名前からわかりますように、バッハはイエスが与えられていることの喜びを基にして、この曲を編曲しました。
さきほどソプラのノ中澤さんに歌っていただいた歌詞の日本語訳がホームページに掲載されていましたので、紹介いたします。歌詞をみますと、バッハがどういう思いで「主よ、人の望みの喜びよ」を作曲したかが、よくわかります。
「イエスは私の喜び, 私の心の慰める力, イエスは全ての悲しみを妨げる, 私の命の力, 私の目の喜びそして太陽, わたしの魂の宝そして喜び だから私はイエスを離さない 私の心と視界から。私は幸せ あなたがいるから 悲しい時には あなたが慰め 私を愛して 代わりに苦しむ あなたを離さない どんな時にも 変わらぬ喜び 潤う心 あなたに守られ 私は生きる お日さまのような 宝石のような あなたを離さない どんな時にも」
この歌詞の中に込められているのは、バッハの祈り。別のいい方をしますなら、バッハという一人の人間の魂のささやき、ともいうことができます。それは、命を与え、生きている意味を与えておられる、目には見えない神という存在に、生涯を見出し、ゆだねていく、そんな人間の心の奥深くから生まれてくる声とでもいいましょうか。
さきほどオルガニストの戸田さんが演奏してくださった曲を聴きながら、私は自分自身がまるで深い深い海の底にいて、そこに上から光がすっと差し込んでくるような、そして青く美しい、光景が目の前に広がっていくような、そんなイメージが湧いてきました。そのように、心の深いところに、上からの光が与えられ、慰めや輝きが与えられていることを、バッハは伝えたかったのかもしれません。そんなバッハが大切にしていた聖書の御言葉があります。
「主において常に喜びなさい。重ねていいます、喜びなさい。・・主はすぐ近くにおられます。」(フィリピ4:4)
主において、とありました。主において、は聖書の中でたびたび出てくる大切な言葉です。主において、というのは、主イエスに包みこまれている、そんな状態をあらわします。ちょうど母の腕の中で子どもが抱かれるように、主イエスの腕の中で抱かれている、そういう状態とでもいいましょうか。
主において喜びなさい、といいますのは、子どもが母の腕の中に自分自身を安心してゆだねるように、主イエスの御腕の中に身をゆだね、その中で喜びなさい、喜びを見出しなさい、ということです。
私たちには人生にいろいろな喜びがあります。さびしいときに、誰かが一緒にいてくれたら、または自分を大切にできないときに、誰からかやさしい言葉をかけてもらったら、またはずっと願ってやまなかったものが与えられたら、私たちは喜びます。そのほかにもいろんな喜びがあります。
しかし私たちの人生には喜びもあれば、悲しみもあります。喜びたくても喜ぶことができないことがあります。病の中で、喜びが見えなくなることがあります。試練の中で、喜びが見えなくなることがあります。大切なものを失い、嘆かずにはいられないことがあります。そんなとき私たちは必死に喜びを探します。探しても探しても喜びが見つからず、涙にくれることもあります。
主において喜びなさい、この言葉はそんな私たちにとって慰めに満ちた言葉です。なぜなら、その喜びは、主における喜び、主イエスの腕の中にある喜び、だからです。
これは私たちが必死に探さなくても、無理やりにしぼりださなくてもよい、私たちのすぐ近くにある喜びです。私たちが喜んでいるときも、喜んでいないときも、悲しいときも、うれしいときも、いつも、共にある喜び、それを聖書は、主における喜びと語るのです。
子供がやってくれば母はその子を腕にしっかりと抱きよせるように、主イエスは私たちを、たとえ涙にくれるときも、うれしいときも、しっかりと抱いてくださる、私たちの心の奥深くを慰めで満たしてくださる。
バッハが作曲しました、「主よ人の望みの喜びよ」という曲は、この主における喜びを基にして生まれました。バッハが伝えた喜び、上からやってくる喜びは、私たちを裏切ることはありません。そしてたとえ時間が経とうとも、決して消え去ることはありません。永遠に残り続けるのです。教会は、主イエスが与えてくださる永遠の喜びに出会うことのゆるされるところです。
どうかキリストが中心におられるチャペルに集われるみなさまに、安らぎと、慰めと、喜びが豊かに注がれますように。