2021年10月10日「光は闇の中に」
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光は闇の中に
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- 橋谷英徳 牧師
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ヨハネによる福音書 1章1節~13節
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聖書の言葉
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は、初めに神と共にあった。 3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
© Executive Committee of the Common Bible Translation 共同訳聖書実行委員会 1987,1988
© Japan Bible Society 日本聖書協会 1987, 1988ヨハネによる福音書 1章1節~13節
メッセージ
日曜日の朝の礼拝で本日からヨハネによる福音書から御言葉に聞いていきます。聖書の中に福音書と呼ばれる書物は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四つあり、四つ目ですので第4福音書とも言われます。この第四の福音書は、ほかの三つの福音書とはいろんな意味で、違ったものになっています。そのような違いの一つが、このヨハネ福音書には、ほかの三つの福音書にはない、長い導入の言葉がはじめに記されていることです。それが今日、読んだ聖書の箇所です。ほかの福音書では主イエスの歴史的なことが初めから記されていますが、このヨハネ福音書だけはどうも違う、独特な特徴を持っています。マタイ福音書では、主イエスの系図がはじめに紹介されます。マルコ福音書では、主イエスの道備えをしました洗礼者ヨハネの働きがはじめから語られています。ルカでは、短いテオピロへの献呈の辞が記されてそれから洗礼者ヨハネ、主イエスの誕生が語られていきます。それに対してこのヨハネによる福音書は「はじめに言があった。言は神と共にあった」と云う具合に語り出されています。この語り出しはやはり、特別であり、異様とも言えますし、謎めいてもいます。一体、なんだろう、どういう意味なのかと誰もがどこかで思うのではないでしょうか。ヨハネ福音書にはここだけではなく、そのままではよくわからない独特な言葉遣いが全体的になされています。謎めいた言葉がたくさん出てくるわけです。この謎めいた言葉遣いで、主イエスのご生涯の深い意味や、神の御心を証ししているのがヨハネ福音書です。この謎のよう言葉を読み解いていかねばなりません。これは大変なことで、骨の折れることかもしれません。けれども、同時に謎解きをするようにして苦労して読んでいくことによって、神の恵みの深淵、主イエス・キリストの救いの恵みの深いところに触れさせていただけるように思います。
今朝お読みしました聖書の箇所も、謎のような言葉ですけれども、ゆっくり何度も読んでいきますと、霧が晴れていくように少しづつ見えてくるように思います。もう一度、一節から三節をもう一度読んでみましょう。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」。
「言」、「命」、「光」、「暗闇」、本当に独特な言葉です。一番、謎に思えるのは「言」と云う言葉ではないかと思います。でもずっと読み進めていきますと、この「言」とは何かと云うことがわかってきます。一四節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。
この一四節から、「言」とは主イエスのことなのだと云うことがわかります。「神の子」「人の子」、「救い主」、「主」、聖書の中で主イエスはいろんな呼び名で呼ばれていますから、その呼び名の一つと考えることはできます。しかし、不思議なことですが、この呼び名を用いているのは、ヨハネだけ、しかも、この1章だけなのです。なぜでしょうか。また、どうして、主イエスのことを「言」と云うようにこんな呼び方をするのでしょうか。学者たちの間ではいろんなことが言われています。わからないこともたくさんあります。ただはっきりしていることがあります。「言」と云うのは、ナザレのイエスの呼び名にとてもふさわしいということです。一八節に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とあります。ここにイエスが言と呼ばれている理由があります。イエスが唯一の神をあらわされた方、啓示された方、神の奥義の啓示者だからです。だから、「言」と呼ばれるのは、ふさわしいわけです。 そして、この1節から3節では、「言」であるイエスについて大変に大切なことが語られています。その第1に、「はじめに言があった」とあることです。ここを読みますと創世記の語り出し「はじめに神は天と地を創造された」を思い出します。その天地創造の時に、既に言があった、存在していたということです。天地創造の際に言が創造されのではなく、その時に、もう言は存在していたというのです。このことはここだけではなく、コロサイ一章一五節でも、イエスは、「すべてのが造られる前に生まれた方です」と言われています。
さらにヨハネは、「言は神と共にあった」と言います。言は神との深い信頼関係の中にあったということでしょう。それと共に神とは区別されるということです。そのように言った上で、さらに「言は神であった」と言いいます。言が神であったたと申しましても、造り主なる神、父なる神と同一の方ではないのです。「神と共にあった」と言われてい多様に、区別される。でも「言は神であった」というのです。主イエスとはだれかを表す大変に大切な証しの言葉です。
続いて四節、五節です。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。ここでの「命」は単に生物学的な命のことではありません。神の命、永遠の命のことです。永遠の命と云うのは、この地上の命がいつまでも続くと云うことではなくて、神から来た、神のものである、神の命のことです。この命を与えてくださるのが主イエスなのです。ですから、「言の内に命があった」と言われます。そして、さらに続けて、「命は人間を照らす光であった」と言われます。このような言、命また光が人間の世界に来たわけです。それを人間が喜んだと云うのが筋書きとして想像できるわけですが、現実は全く違うことになってしまったのです。九節〜一一節にはこうあります。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。主イエスの地上のご生涯がここに短い言で要約されていると言えます。主イエスは歓迎されたのかと云うとそうではなかった、十字架に付けられて殺されたのです。ですからこの部分は、「もっとも短いイエス伝」と呼ばれることもあるそうです。しかし、主イエスが十字架にかけられてそれですべてが終わったわけではありません。そのこともここですでに見つめられています。十字架にかけられたイエスは、復活されたのです。そして今も生きておられるのです。主イエスを信じる者は、起こされ続けます。そのことが一二節から「しかし、」と言って語り出されています。 「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」。
そのことを踏まえて五節ではこう語られています。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
「光は暗闇の中で輝いている」。ここだけ現在形なのです。他は全部、今日の箇所は過去形何です。でもこの言葉だけは現在形です。このことはとても大切なことと思うのです。
この世界には暗闇があるのです。なぜ、この世が暗闇なのかについては何も語られてはいません。真っ暗な暗闇は今もある、しかし、暗闇の中に光が輝いている。光がある、そのことは言えるのです。二宮幸雄引退長老が召される少し前に、この箇所から奨励をしてくださいました。病状も優れない状態で心配もしていましたが、やっていたただきました。その時に長老は、やはりこの現在形に触れられました。「光は暗闇の中に輝いている」。このことを聞いて心が震えたのを今でも覚えています。
そして、今のこの瞬間、今もそうなのですね。この世に闇がある、世にと云うだけではなく何よりも、わたしたち自身の中にも暗闇がある。しかし、光は暗闇の中で輝いている。どんなに闇が深まっても、この光を消すことはできない。闇が深くなればなるほど光は増すのです。ここで語られていますことは、わたしたちの生活とはかけ離れた抽象的、思弁的なことではないのです。
六節から八節では突然、語調が変わっています。ここまで「言」であるイエスについて語られていたのに、洗礼者ヨハネについて語られます。そして、また九節から「言」であるイエスについて語っています。つまり、この六〜八節は後から差し込まれたようになっています。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネで。ある。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」。
なぜこのように挿入する形でこの部分が加えられたのでしょうか。
このヨハネによる福音書は、主イエスの弟子のひとりであったヨハネが書いたと言われてヨハネ福音書と呼ばれてきました。けれども、実はその証拠はどこにもないのですね。ヨハネが書いたとは書かれていないので確かなことは言えないのです。しかし、はっきりしいていること、こういうことは言えるのではないかと云うことがあります。ヨハネ福音書の著者は、洗礼者ヨハネのことを、大変に大切に思っていた、自分と重ねていたと云うことです。この福音書をこれから読み進めていく上で大切になるのが、二〇章三一節です。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名により命を受けるためである」。
こうあります。このことを覚えながら、読んでいく必要があるわけです。そしてですね、今日の六節から八節でもヨハネは光ではなく光を証ししている、そして、それはすべての人が信じるようになるためにだと言っています。この福音書が書かれた目的とも重なるわけです。ですから、最初にこういう形で、こういう言葉が語られているのです。
そして、再び9節以下では言であるイエスについて語られ始めます。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」。
ここでは五節の「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と非常にシンプルに語られていたことが、より詳しく語られています。民は、言であるイエス、この方が命であり、光である受け入れず、退けたのです。十字架につけてしまったと云うことです。しかし、それで終わったのではないのです。万事休す、もうすべてこれで終わりと云うはずのところで終わらなかったのです。信じる人たち受け入れる人たちが、が起こされたと云うのです。これは当たり前のこと、自然的なことではないのです。異常なこと、奇跡的なことです。その人たちは、自分の力で自分の知恵で見出したのでも信じて、受け入れたのでもありません。暗闇は理解しなかったのですから。でも、神はこのような絶望的な中にもなおもお働きになり。闇の中に光をもたらされたのです。天地創造の時のように、神は「光あれ」と言われ、光をもたらされたのです。全くの無から創造され、信じる者、神の子たちを生じさせられたのです。それがわたしたちなのです。この箇所は先ほども少し触れましたが創世記と重なっています。この福音書は、言である、神の子イエスの救いの出来事は、天地創造の出来事並ぶ、大きな大きな神の御業であると語っているのではないでしょうか。今日の箇所は初代教会の賛美歌であったとも言われます。確かに、ここで神が、言であるイエスが賛美されています。わたしたしたちも救いを覚えて、賛美することにきょう招かれています。