2020年05月17日「神はわたしたちの避けどころ」
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神はわたしたちの避けどころ
- 日付
- 説教
- 橋谷英徳 牧師
- 聖書
詩編 46章1節~12節
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聖書の言葉
【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】
神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
わたしたちは決して恐れない
地が姿を変え
山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶるさまに山々が震えるとも。
大河とその流れは、神の都に喜びを与える
いと高き神のいます聖所に。
神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。
夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。
神が御声を出されると、地は溶け去る。
万軍の主はわたしたちと共にいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
主はこの地を圧倒される。
地の果てまで、戦いを断ち
弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
「力を捨てよ、知れ
わたしは神。
国々にあがめられ、この地であがめられる。」
万軍の主はわたしたちと共にいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
日本聖書協会 新共同訳聖書詩編 46章1節~12節
メッセージ
久しぶりに共に礼拝堂に集まることが許されました。共に集まることができた恵みを心から感謝しております。しかし、事態はまだ終息したわけではないことも覚えております。この国や世界に、この病のために多くの苦難の中に置かれている人たちがおられます。この日曜日にも、共に集まることができない教会もまだ数多くございます。またわたしたちのこの教会に属する方々の中にも、なおご自宅で過ごしておられる方々もおられます。感染症が、これ以上、広がることなく終息していくことを祈りつつ、わたしたちはここで神を礼拝しています。
「神はわたしたちの避けどころ。わたしたちの砦」。
今日の御言葉はこのような言葉で始まっています。詩篇の中でも広く知られる代表的な詩篇の一つです。この詩篇では、神への信頼が歌われていることがお分かりになると思います。
人は皆、安心できる場所、安全地帯を求めております。それはどこでしょうか。家庭でしょうか。職場や学校でしょうか。あるいは、もっと広く、故郷、地域や国のようなものを考えることもできるかもしれません。この詩篇の御言葉は、こう語ります。
「神がわたしたちの避けどころ。わたしたちの砦」。
神こそが、わたしたちの避けどころだというのです。
この詩篇を宗教改革者のマルチン・ルターは、愛唱していました。この詩篇から賛美歌を作詞・作曲までしました。賛美歌を作ったのです。ルターはこの歌を自らも口ずさみながら、この詩篇四六篇を思い起こしながら、その歩みを続けたのでしょう。この賛美歌が、この後で共に歌います三七七番です。「神はわが砦。わが強き盾」。
四六篇の要となっていますところが、この「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」。この言葉であります。七節にも「万軍の主は私たちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」とあり、さらに一二節にももう一回、「万軍の主は私たちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」とございます。二節、八節、一二節、このように三回、はじめと、真ん中と結びに、このみ言葉が語られており、このことがこの詩篇の中心になっていることがわかります。
どうして、このように語られているのか、その背景や状況については、よくわかりません。ただこの詩篇の詩人は知っています。わたしたちの人生や、世界には、様々な危険があり苦難があるということを。彼は今、この時、危険、苦難の只中にいます。それだけではなく、これからの先のこと、未来にも、目を向けてます。これから先何が起こってもということまで目据えております。「地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」(三〜四節)。世界が揺れ動いて、混乱し、天地創造の前のような混沌(カオス)の状態になっても、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」。神のお造りになられた世界、この自然のことです。それが不安定なものであることを詩人は知っています。
さらに、自然の世界の乱れ、混乱の状態のことを語るだけではなく、歴史的な世界の動乱のことも語られます。「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ」。自然破壊や異常気象、政治の乱れ、混乱、それは現代の世界の話だけではどうもないのです。聖書の時代から存在する。人間が生きる自然、この世界には、危険や混乱がある、非常に不安定なものであることを、聖書の時代の人たちはよく知っているのです。
その中で今日のこの詩篇は、「神の都」のことを語ります。「大河とその流れは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる」。
神の都とはエルサレムのことです。そこには神殿がありました。しかし、今日のこの御言葉、この詩篇は、神の都であるエルサレム、あるいはエルサレムの神殿に信頼しよう、エルサレムの神殿が「わたしたちの避けどころ」と言ったのではありません。実際、歴史上のエルサレムは何度も戦いに敗れ、神殿も破壊されているのです。大切なのはエルサレムでも神殿でもなく、「神」そのものなのです。その中に神がいます、その時に、そのことによって、都は揺らがないのです。
旧約聖書のエレミヤ書には、こんな言葉が語られています。「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」(七章四節)。混乱の時代の中で、エルサレムの都や神殿そのものを讃えて、それにしがみついて生きようとした人たちがいたのです。それに対して、エレミヤは、それはむなしい言葉だと語りました。たいせつなのは「神」、「神」ご自身に信頼することだと言ったのです。詩篇四六篇も、「神」への信頼を語ります。神の都、エルサレムが避けどころとは一言も語りません。神こそが「わたしたちの避けどころ、砦」。
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」と共に繰り返されているのが、「万軍の主はわたしたちと共にいます」という信仰の告白の言葉です。八節、一二節で同じ言葉が繰り返されています。二節でも「必ずそこにいまして」とあります。「万軍の」というのは、力に満ちているということ、頼りになるということです。「共にいます」とはインマヌエルです。神がおられる、この神がわたしたちと共にいますということが、人生と世界の危険と混乱の中で、また先行き見えない不安の中で、わたしたちの避けどころ、わたしたちの砦となるのです。その時、「わたしたちは決して恐れない」(三節)と語流音ができるようになります。
わたしたちの人生にも、いろんな危険や混乱が起こってきます。現在だけではなく、未来にも不安を抱えながら、わたしたちは生きなければなりません。個人の人生というだけではなく、これからの日本の社会にも世界がどうなるのかについても、わたしたちは悩んでいます。新型コロナウィルス のこともそうです。地球の環境、自然も傷ついてしまっています。「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ」。まさにこういう現実が今、わたしたちの目の前にございます。
しかし、そこで御言葉は、万軍の主である神は「苦難のとき、必ずそこにいて助けてくださる」と語ります。この神が「わたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」。「だから決して私たちは恐れない」とわたしたちは信じ、告白します。それが信仰者です。信仰者はそれ自身、度胸があるのではありません。特別強いわけでもありません。信仰者が依り頼む「神」は避けどころであり、砦なのです。この神が共にいてくださいます。
しかし、いったい、私たちは、このことを、神が共にいますということを、どこに見出すことができるのでしょうか。この現実をどのように知り、生きることができるのでしょうか。詩篇四六篇は、神が共にいます場所があるということを語っています。「神はその中にいまし、都は揺らぐことがない」と語られています。神はある場所におられます。この神は、超越者であり、天地の造り主です。すべてのものをお造りになられ、統べ治められています。あらゆるものは神の中に存在します。この神を私たちは一定の場所に閉じ込めることなどできません。しかし、この神が、ある一定の場所にいてくださると云うのです。そうです。神様は高くいますだけではなく低くい所にいることがおできになります。身を低くして、その中にいてくださるのです。「万軍の主はわたしたちと共にいます」、「苦難のとき、必ずそこにいまし助けてくださる」。神は、こういう方なのです。聖書の神のことを「低きにいます神」と呼んでいる人もいます。つまり神の都であるエルサレムにいてくださると云うこと、それ自身、全くの恵み、憐みとして与えられることです。
そして、この詩篇の書かれた時代の人たちよりも私たちは、この神様のことを、そのような方として知り、信じることができます。それは、神のひとり子であるイエス・キリストによってです。この方は、馬小屋の飼い葉桶の中にお生まれになられ、人となってくださいました。そして、地上の歩みを罪びとたちと共に歩まれて、十字架にかかって死んでくださいました。そして、三日の後に復活してくださいました。このイエス・キリストにおいて神さまは、私たちの罪を赦し、永遠の命を与えてくださいました。そして、この方によってインマヌエル、神が私たちと共にいますということが、現実になったのです。主イエス・キリスト、この方につながることによって、私たちもまたこの信頼の歌を歌うことができます。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる」。
私たちは貧しく、小さく弱い者です。罪ある者です。苦難や危険にあえばすぐにおじ惑い、恐れてしまう。未来のことも不安になる。しかし、そんな私たちを赦し、愛し、共にいてくださる。万軍の主がそうしてくださる。
ルターは、その賛美歌で、「打ち勝つ力は、我らには無し。力ある人を神は立てたもう。その人は主キリスト、万軍の君、我と共にたたかう主なり」。
そして、この神が共にいます場所、イエス・キリストにおいて、神が共にいてくださる場所というのは、根本的には個々人のことではありません。この詩篇では、「わたしたち」と一人称複数形で語られます
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」。わたしたちなのです。主イエスも、弟子たちにこう約束されました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と。
過ぎました四回の礼拝でわたしたちは特別な経験をしました。説教原稿や、インターネットを主として、礼拝をささげてきました。このような形でできてよかったと思います。けれども一方で、やはりずっと今日のように再び、顔を合わせて、共に日曜日にこの教会堂に集まることができることを願っていました。インターネットがあるから、もう集まらなくていいだろう、というようにはわたしにはどうしても思えませんでした。何か欠けている、そう感じてきました。やはり、身体を持ってここに共にあること大切さ、恵みというものに改めて気づかされています。御言葉が語られ、聖礼典がなされ、そこに神が共にいてくださる。わたしたちは貧しい小さな群れですがそこに、神が一緒にいてくださるということを、ここで、この日曜日の礼拝の場所でこそ、覚えることができるのではないでしょうか。そして、ここで、この日、わたしたちは、「神をわたしたちの避けどころ、わたしたちたちの砦。苦難の時、必ずそこにいて助けてくださる」。「万軍の主が、わたしたちと共にいてくださる」。この現実を、ここで信仰の目を開かれて見ることができる。確認することができる。だからこそ、ここで「わたしたちは決して恐れない」ということもできるのです。
共にいてくださる神は、御声を発せられます。すると地は溶け去ると七節にはあります。主は、この地を圧倒し、地の果てまで戦いを断ち、弓を砕き、槍を折り、盾を焼き払われるとあります。そして、このように語られてから、一一節ではこう言われます。
「力を捨てよ、知れ
わたしは神。
国々にあがめられ、この地であがめられる」。
どういうことでしょうか。
この11節のみ言葉ですが、ある人はこう翻訳しています。
「すべてをやめて、知りなさい。
わたしが 神であることを。」
この翻訳の言葉でハッとさせられました。神様は、わたしたちのやめさせられる神様なんですね。神様というと、わたしたちにあれこれのことをなさせられるお方であるとわたしたちは思うところがあります。けれども、やめさせられるお方なのですね。このすべてを止めると云うことが、力をしてると云うことになるわけです。人生や世界が混乱し、危機的な状況になるとき、わたしたちは動揺し、あれをしてこれをしてと思い右往左往します。否、苦難や危機は今回のこともそうであるように、何もできなくなる。その前にわたしたちは自分の力や知恵やそういう人間のわざばかりに注目し、神様を締め出して生きていた。しかし、そうはいかなくなった、世界そものものがストップさせられた、それが今のこの時です。しかし、そこで神様はわたしたちにお語りくださいます
「すべてをやめて知りなさい。わたしが神であることを」
全てというのは、人間の知恵や力であります。それが、戦い、争いであり、弓であり、槍ではないでしょうか。でもそんなものは頼りにならないのですね。この人生を生きていく時に、混乱した世界を生きていく時に。
今日の箇所は、神様こそが究極的に平和をもたらしてくださるという終末の救いの完成の日のことも語っています。
天地創造から、インマヌエルであるイエス・キリスト、終末の救いの完成というように、聖書の福音のたいせつなことがこうして語られている。まさに詩篇の中の詩篇と言えます。
この神さまこそが、私たちに希望を与えてくださいます。わたしたちと共にいてくださり、避けどころとなって、救いを完成してくださいます。だから、人生のことでも、世界のことでも、神が、「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と信じ、やがて平和の時が到来する、そのように信じて、元気を与えられて、周りの人たちにも「希望がある」と証しをしながら、生きてゆきたいです。お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしたちの避けどころ、わたしたちの砦である神さま。この日曜日に共に召し集められて、聖霊の導きの中で、御言葉を聞くことを許されました。わたしたちは、人生やこの世界の混乱や危険の中で右往左往し、動揺してしまうものであります。不信仰を懺悔します。そのようなわたしたちですが、あなたを見上げ、キリストの十字架を見上げて、あなたが共にいてくださる、まことの平安の中に立ち返ることができますように。わたしたちがこの御言葉の約束する恵みによって、様々な苦難、先の見えない不安な現実の中でも、主と共に歩む信仰の歩みを続けることができますように。あなたによって希望を与えられて生きるわたしたちの存在が周りの人たちにも良き証となることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン。