2021年04月11日「もう疑わなくてもいい」
問い合わせ
もう疑わなくてもいい
- 日付
- 説教
- 橋谷英徳 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 28章11節~20節
音声ファイル
聖書の言葉
11婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。 12そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、 13言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。 14もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」 15兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。
弟子たちを派遣する
16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
© Executive Committee of the Common Bible Translation 共同訳聖書実行委員会 1987,1988
© Japan Bible Society 日本聖書協会1987, 1988
マタイによる福音書 28章11節~20節
メッセージ
2017年の12月のはじめから、日曜日のこの朝の礼拝で、マタイによる福音書を読み始めて、本日、読み終えることになりました。マタイによる福音書二八章は、主イエスの復活の出来事を語っています。しかし、復活の出来事と言いましても、主イエスの遺体が息を吹き返して起きがった、というようなことが語られているわけではありません。そうではなくて出会いということ、主イエスがいく人かの人たちと出会ってくださったということが語られています。二八章のはじめには、はじめのイースターの日に主の復活の知らせを天使から聞かされ、仲間の弟子たちのもとにも知らせるために走り出した女の弟子たちに、復活の主が出会ってくださったことが語られていました。今日の箇所には、その後のことが語られています。
11節から15節までには主イエスの墓の見張りをしていた番兵たちのことが語られています。彼らは、見たことを祭司長たちに報告します。すると祭司長や長老たちは相談をし、主イエスの遺体を弟子たちが盗んでいったことにしようと決め、番兵たちに口封じのためのお金を渡し、彼らはその通りにしたとあります。そして、「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」とあります。この話というのは、主イエスの遺体を弟子たちが墓から盗みだしたということで教会はイエス・キリストの復活を宣べ伝え続けた。けれども、人々は信じなかった。「復活?そんなことがあるわけがない。弟子たちが遺体を墓から盗み出したんだ」と言っていた。人間にとって復活はこれほどにないほどに喜ばしい知らせのはずです。しかし、一方で人間にとって復活は聞きたくないこと、なかったことにしたい、認めたくない、そういうことがあるのかもしれません。復活ということがあるなら、今までの生き方を変えるほかないからです。実際、彼らは復活のことを聞いても、ここでそれをなかったことにし、今まで通りの生き方をしています。目立たない箇所ですけれども、そういう人間の姿がここに描かれているように思われます。
さらに16節以下には、復活なさった主イエスが今度は、弟子たちに出会ってくださったことが語られています。一一人の弟子たちはガリラヤへ行き、主イエスが指示されていた山に登り、そこで主イエスと会ったのです。それは、主イエスご自身が女性たちを通して、彼らに「ガリラヤに行け、そこでわたしに会うことになる」とお伝えになったからです。ただ主イエスに会いたかったからではありません。主イエスの方がまず彼らを招いてくださったのです。そうでなければどうにもならなかった。ここには「一一人」とあります。本当は一二人でした。ユダが裏切って、自ら命を絶ってしまったために一一人になっています。残りの一一人もまた主イエスが十字架にかかられる前に、「見捨てて逃げてしまった」のです。どの面さげて、主イエスの前に出れるでしょう。しかし、主イエスは、この一一人、ぼろぼろの一一人を弟子として見ていてくださり、ガリラヤで迎えられるのです。
彼らがガリラヤに着き、その山に登ると、そこに主イエスはおられ、彼らを待っていてくださいました。そして、「イエスに会い、ひれ伏した」。「ひれ伏す」という言葉は、礼拝するという意味の言葉です。主イエスが招いてくださった山で礼拝している一一人の弟子たち。そこに見るのは教会の姿です。招いてくださっているのは復活されたキリストです。そのお方によって弟子に全く相応しくない者が、礼拝に招かれている。これが教会、教会の礼拝です。
しかし、同時に、ここに短くこう書き添えられています。「しかし、疑う者もいた」と。ここを読みますと、一一人の弟子たちの中には何人か信じた者もいたけれども、何人かは疑う者もいたと読めます。「一体何人くらい疑ったのだろう?」などと思ってしまいます。もう一つの翻訳もできます。「彼らはイエスに会い、ひれした。けれども、疑った」。つまり、礼拝しながら、全員かが幾ばくかの不信仰をなお持っていたと読むことができます。信仰と不信仰(疑い)、それは相反するものです。しかし、これを同時にかかえている、こういうところがあるのです。ちょうど二八章八節にも、婦人たちが主イエスと会った時に「恐れながらも、大いに喜び」とあります。これが私たちではないでしょうか。信仰があり、同時に、不信仰がある。信じるということと疑うということがある。これが私たちの礼拝です。しかし、キリストは、その不信仰のゆえに、彼らを遠ざけられたかというと、そうではありません。「イエスは近寄って来て言われた」(一八節)とあります。主イエスは、この彼らに近づかれるのです。不信仰のあるところに近づかれるのです。弟子たちは、主を裏切り、見捨てたことへの罪の意識と自責の思いから、主イエスから少し離れたところでひれ伏していたのです。しかし、主イエスはその彼らに主は近づかれます。そして、彼らの疑いと不信仰について語られるのではありません。ご自分について語られました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と。そして、最後にこう言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(二〇節)。「いつも」という言葉は、「すべての日々」という言葉です。「わたしはすべての日々にあなたたたちと共にいる」。昨日も今日も、明日も明後日もということです。嬉しい日も悲しい日も。いつまでか、「世の終わりまで」です。これがこの私たちへの復活の主のあまりある恵みです。主が一切の権能を持ち、共におられ、この方が共にいてくださる、だから信仰と不信仰という複雑さを抱える弟子たちでも大丈夫なのです。大切なのは「わたし」と言われるキリストご自身なのです。
この「わたしは」で始まる恵みの言葉に挟まれるようにして、主が命じられた言葉が語られています。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(一九、二〇節)。弟子たちを礼拝に招いてくださった主は、ここから弟子たちを派遣されます。「あなたたちは行きなさい」と言われます。何のために?「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と。このことが中心です。主イエスは、すべての民が、ご自分の弟子になることを望んでおられるのです。その具体的な内容は「洗礼を授けること」と「教えること」です。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。主イエスは、教会が洗礼を授けることを命じておられます。
洗礼、それは教会にとって、とても大切なものです。ちょうど、先週の礼拝でひとりの姉妹の洗礼式が行われました。洗礼が大切なのは、主イエスがそうしなさいと命じておられることだからです。わたしはかつて求道していた頃、洗礼を受けたくないと言っていたことがあります。その時、一人の人からこう言われました。「あなたはそんなに強い人ですか」と。その人は、私たちは弱い人間、だから洗礼ということを教会に主イエスは命じられたと言われたわけです。
主イエスはここで、ただ洗礼を授けなさいと言われた、「父と子と聖霊の名によって」と言われました。この言葉は、「父と子と聖霊の名に入れる洗礼」と訳すことができます。父と子と聖霊、それは三位一体の神のみ名です。この三位一体の神は、愛の交わりを持っておられます。「神は愛」なのです。洗礼において「父と子と聖霊の名に入れられる」ということ、それはこの神の愛の交わりに入れられるということです。この神の愛に、何があっても徹底的に守られるのです。辛いことにも会う、悲しいことにもあう、でもこの神の愛が守るのです。先例を受けた弟子は、敵にも会うかもしれない、でもその敵は、実は弟子に敵対するだけではない、神を敵にするのです。それぐらい守られるのです。
洗礼は新しく生まれることでもあります。神の命、神の愛の交わりに入れられて新しくされるのです。パウロは、洗礼において古い人が死んで新しい人が生まれると言いました。この世において新しい命が生まれたら、その子がこの世に生きていくことができるように、生活の仕方を教えるでしょう。その子は、この世での新しい生活の仕方をまぶでしょう。同じように霊的に新しく生まれた者もまた、新しい生活の仕方、主イエスが見せてくださった天の父との新しい生活の仕方、神の子として生きる、神の愛の中に生きる弟子として生きる生活の仕方を学ばねばなりません。実はそれが書いてあるのが、このマタイによる福音書です。例えば、この福音書の五章以下には、山上の説教が語られていました。山の上で主イエスが語られた説教、それもまたその新しい生き方を示す言葉なのです。そして、この時、弟子たちが復活の主イエスと出会った山、その山がこの山上の説教が語られた山であったかもしれません。
最後にもう一度、一七節の「疑い」のことに戻りたいと思います。
弟子たちはみんな復活のイエスと会い、拝んだ、けれども、疑った」。みんな復活のイエスと会って、その前にひれ伏しつつ疑った。何を疑ったのでしょうか。主イエスが本当に復活したのか、目の前にいるのは本当に主イエスなのかという疑いでしょうか。確かにそういうこともあったでしょう。しかし、それだけのことでしょうか。私たちは何を疑うでしょうか。信仰者として歩みつつ、持つ疑いがあるわけです。主イエスは本当に復活したのか、そういう疑いもあるでしょう。しかし、私たちの抱くもっとも根深い疑いというものがあります。それは、神の愛についての疑いではないでしょうか。人生の歩美の中で私たちは色んな苦しみや悲しみに遭います。その中で神の愛を疑います。神が愛なのになぜ、こんな目にあうのかと問います。また罪を犯します。赦しなどない、もう自分のような者は神から見捨てられるほかないのではと思ってしまう。そんな疑いに陥る私たちに復活された主イエスは近寄って来られ、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われる。「あなたの人生を、そこに起こるすべてのことを支配しているのは、悪魔の力、死の力じゃない。わたしである。神の愛である」。また「わたしがあなたの罪を十字架ですべて負った。神に見捨てられた死をわたしが死んだ。だからもうあなたは何があっても神から見捨てられることはない。あなたは神から愛されている」。「もう疑わなくてもいい、神の愛を疑わなくてもいい」そう言ってくださる。そして、「わたしはすべての日々にあなたがたと共にいる」と堅く約束してくださいます。繰り返し、疑いに陥ってしまう私たちです。しかし、その度に、礼拝で私たちは、洗礼の恵みに、神の愛に立ち戻ることが許されています。今日もその礼拝の時です。このような礼拝の場に全べての人を復活の主は招かれるのです。