2021年03月14日「もう見捨てられない」
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もう見捨てられない
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- 橋谷英徳 牧師
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マタイによる福音書 27章45節~56節
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聖書の言葉
45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 55またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。 56その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
© Executive Committee of the Common Bible Translation 共同訳聖書実行委員会 1987,1988
© Japan Bible Society 日本聖書協会1987, 1988
マタイによる福音書 27章45節~56節
メッセージ
日曜日ごとに長い間、マタイによる福音書を読み続けまして、終わりに近づいています。今日、お読みしましたのは、主イエスが十字架にかけられて、息を引き取られたことを伝える聖書の箇所です。ああ、ついにここに来た、という思いがあります。
けれども、この十字架、主イエス・キリストが十字架にかかって死なれたということは一体どういうことなのでしょうか。
十字架、この礼拝堂にも掲げられております。教会の屋根にまで掲げられています。これはとても不思議なことです。そもそも一つの見方をすれば、この出来事はこの世界の片隅で起こったことです。忘れられても当然のことです。しかし、そうはならなかった。2千年の時が過ぎ、遠く離れた、この日本で、この街の教会に十字架が掲げられ、この方の十字架が覚えられている。この方の十字架の死を覚えて礼拝がささげられている。これはどういうことでしょうか。
あの日、あの時、一体、何が起こったでしょうか。十字架とは何なのでしょうか。ここに聖書があります。この一冊の書物は、そのどこでも、このことを問題にしています。そして、それは今日の箇所でも同じです。
ここには、今日のわたしたちにはすぐには意味のわからないことも語られています。昼の一二時に全地が真っ暗になった。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた、地震が起こって墓が開き、死者が生き返ったとも言われています。
この福音書の記事を書いたマタイにはどうしても伝えたいことがありました。それは、このキリストの十字架の出来事は、神が起こされたことだということです。人間が人間に何かを行ったのではない。神がなさった。ここに特別なことが起こった。それは何なのか。そのことを今朝、御言葉から聞きたいのです。
まず最初にこうあります。「昼の一二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」。
この意味をわたしたちが受け止めるためには、旧約聖書のアモス書八章九節(p1440)の言葉を読まなければなりません。
「その日が来ると、主なる神は言われる。
わたしは真昼に太陽を沈ませ
白昼に大地を暗くする。
わたしはお前たちの祭りを悲しみに
喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え
どの腰にも粗布をまとわせ
どの頭の髪の毛も剃り落とさせ
独り子を亡くしたような悲しみを与え
その最期を苦悩に満ちた日とする。」
預言者アモスは、主なる神の言葉を語っています。
「その日が来る」。イザヤ、ヨエルも、旧約聖書の預言者たちは、「その日が来る」と同じことを繰り返し語っています。「その日」とは、主の日、神の裁きの日です。マタイは、ここで「その日が来た!」語っています。
「昼の一二時に全地が暗くなった」、真昼に太陽が沈んだ。そのことが、アモスの預言の言葉のとおり、祭りの日に、過越の祭りの日に起こった。しかし、どうでしょうか、全くアモスの語った言葉の通りになったわけではありません。祭りは悲しみに、喜びの歌は嘆きの歌に変わったでしょうか。この日は、苦悩に満ちた日になったでしょうか。 キリストが十字架にかけられたことを、周りの人間たちは悲しんだでしょうか。そんなことはありません。ここまで見てきたように、十字架につけろ、十字架につけろ、人びとは叫んでいました。この場にいた人間たちはみんな十字架のキリストを嘲笑っておりました。
けれども、ただひとりだけ、異なる方がいました。それが十字架にかけられていたイエス、この方です。この方は、叫ばれました。この時の叫びの言葉は、そのままの発音で人々に記憶されました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」。この言葉は、詩篇二二篇の最初の言葉です。詩篇二二編、それは嘆きの歌、悲しみの歌です。十字架につけられた方、この方が、この方だけが、この時、悲しみの歌っておられます。何が起こっているのでしょうか。そうです。裁きの日、神の裁きを、このひとりの方が、十字架において背負っておられます。このお方がただひとり悲しみ、苦悩しておられます。
ほかの人たちは、主の日が来ていることに気づいていません。あるひとは、「こいつはエリヤを呼んでいる」。また別の人は、「エリヤが救いに来るかどうか見ていよう」と言いました。誰も気づかなかったのです。その中で、主イエスは、ただひとり、十字架にかけられていた。
そして、その時、そこで神の裁きが、このただひとりの方に、下されたのです。この方が、すべての罪の裁きを、主の日に現れる神の裁き、それをその身に受けられたのです。この方がこの時、神に見捨てられた。この方は、罪のない方でした。罪がないのに、多くの人の罪のために十字架にかかられた。主はこの方に来られた。ここに向かっておられた。その使命をここで果たされたのです。
そして死なれました。「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」。息を引き取られたと言う言葉は、「霊を引き渡された」と訳すことができる言葉です。主イエスは、その使命をすっかりすべて果たされた、そして、ここで「その霊を神に引き渡された」。今やすべてが成し遂げられました。
そして、マタイは「そのとき」と五一節に記します。この言葉は、
直訳すると「そして、見よ」と言う言葉です。「見よ」、「見ろ」と言います。決定的なことが神様によって、キリストの十字架によってなされた。だからそこに新しいことが起こるのです。それを「見よ」と言うのです。ここで大切なことは、単に不思議なことが起こった、奇跡的な出来事が起こったと言うことではありません。そのことの奥にある意味に目を向けること、それを見ることが必要なのです。最初に言いましたように、聖書は、十字架の意味を伝えようとしているのですから。
まず語られているのは、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」ということです。「垂れ幕」とは、神殿の一番、奥にある「至聖所」と呼ばれるところにかかっている垂れ幕のことです。ここには通常は誰も入ることはできません。ただ一年に一回、大祭司が垂れ幕を通ってそこに入ることが許されました。その時、大祭司は、罪の贖いのための犠牲の血を携えて、垂れ幕を通って至聖所に入らなければならなかった。つまり、この垂れ幕は、神と罪ある人間との隔てを意味します。罪ある人間は皆、その罪のゆえに、神の前に出ることができなかった。しかし、その垂れ幕が、真っ二つに裂けた。正確には「裂かれた」と書かれています。誰が裂いたのか、それは神ご自身であります。キリストの十字架の死の故に、神と人間を隔てるものは無くなりました。罪の贖いが成し遂げられたからです。人間が、神に近づくく道、神の前に進み出る道が開かれたのです。
それに続いて起こったことがこう語られています。
「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人に現れた」(五一〜五二節)。
あまりに不思議なことです。こんなことが本当にあったのだろうかと思えるようなことです。けれども、その意味ははっきりしています。わたしたち人間の死というものは揺るぎのないものです。誰でも、皆、人生の最期に死が待っています。ヨシュアは死を前にしてこう語りました。「この世のすべての者がたどる道を行こうとしている」(ヨシュア二三・一四)と。死で終わる人生の道、ここから先は行き止まり。頑とした岩が道を塞いでいる。しかし、それが揺れ動く。そして、道を塞いでいた岩、通せんぼしていた岩が裂ける。そして墓が開いた。死の力が、キリストの十字架の死によって、打ち砕かれた、そのことを意味します。聖書は「罪の支払う報酬は死」と言います。罪と死は、深く関連している、繋がっていることです。罪の贖いが成し遂げられたなら、死が砕かれる。死の先に道が開かれた。死の力が打ち砕かれた。そのことは、本当には主イエスの復活においてこそ与えられることです。しかし、マタイは、それをすでにここで十字架の死の場面で語るのです。これは一種のフライングです。マタイもそのことはわかっていました。ですから、「イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り」というのです。マタイは、どうしてもこのことまで語らずに居れなくなった。こういうところに、喜びを伝わっています。
それが主イエスの十字架の死、贖いが成し遂げられたことによって起こされたことです。
そして、もう一つ、起こったことが五四節で語られています。
「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震や、もろもろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当にこの人は神の子だった』と言った」。
百人隊長はローマの兵隊の隊長です。彼のと彼の指揮下で、十字架の見張りをしていた人たち、つまり兵士たちが、この主イエスの死と、一連の出来事を見て、非常に恐れた。そして、「本当にこの人は神の子だった」と言った。彼らは、キリストの十字架をただ眺めていた人たちではありません。第三者ではありません。当時者です。主イエスを嘲り、罵り、侮辱し、十字架につけた人たちです。ひどいことをした人たちです。その人たちが、「本当にこの人は神の子だった」とここで語るのです。これは、信仰告白です。マタイによる福音書は、このイエス様が、神の子であるということを伝えている福音書です。その信仰の告白を十字架につけ、嘲っていた人たちがするようになるのです。これは聖書の垂れ幕が真っ二つになり、死人が生き返るのと同じような奇跡です。そういう奇跡が起こった。キリストを十字架につけたものが、キリストを崇めるようになる。信仰を言い表すようになる。
気づかされることがあります。ほかの福音書では、「本当にこの人は神の子」と信仰告白するのは、百人隊長ひとりなのですね。しかし、このマタイでは違います。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たち」と複数の人々が信仰の告白をしたというのです。ここに意味があります。主イエスを十字架につけた人たち、それはわたしたちのことでありました。その人たちがここで告白する。わたしたちも告白する。マタイは、百人隊長とそこにいた人々のことをここに書いて、教会のことを書いているというのです。つまり、マタイは、このわたしたちのことも書いているのです。
キリストを十字架につけた張本人のわたしたちが、教会に集い、「本当にこの人は神の子」と言うようになることをここに見ているのです。見よ、ここにあなたが出てくる、あなたのことが書いていあると言うのです。
わたしたちは、キリストを十字架につけた者です。第三者じゃない。とおくから眺めていた者ではありません。でもその私たちの罪のためにキリストは十字架にかかって死なれたのです。本当は、私たちが、裁かれなければならない。「エリ、エリ、レマサバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言話なければならない。そう言いながら生きて死ななければならないのです。しかし、キリストが十字架にかかって死んでくださった。私たちの身代わりに避雷針のようにして、ただひとり、神の裁きをこの時、その身に負って死んでくださったのです。つまりそのことによって、もう私たちは、神はわたしを見捨てられたと言いながら生きる必要はなくなった、そうやって死ぬ必要もなくなったのです。もう見捨てられないのです。わたしもフライングかもしれませんが、いいます。神が見捨てられないだけではない、このことによって「神がわたしたちと共にいます」、インマヌエルとなったのです。この恵みに感謝し、この方こそ神の子と今日、十字架の主を見上げて告白します。お祈りします。
父なる神よ、み子の十字架の死の贖いによって、もはや隔てなく、私たちはあなたに近づくことができます。もはや何があっても、見捨てられたと言いながら、生きることも死ぬこともありません。あなたは私たちといつも共にいてくださいます。主イエス・キリストよ。 「あなたこそ神の子」と私たちは今日新たに、信仰を告白し、感謝し、主イエスのみ名をほめたたえます。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン。