2021年02月28日「バラバか、イエスか」
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バラバか、イエスか
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- 説教
- 橋谷英徳 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 27章11節~26節
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聖書の言葉
さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
© Executive Committee of the Common Bible Translation 共同訳聖書実行委員会 1987,1988
© Japan Bible Society 日本聖書協会 1987, 1988
マタイによる福音書 27章11節~26節
メッセージ
わたしたちは今、受難節の時を過ごしています。たった今、お読みしました聖書の箇所は、ローマ帝国の総督、ポンテオ・ピラトによる主イエス・キリストの裁判の様子を伝えています。この裁判によって、最終的に主イエスは十字架にかけられることになったのです。その意味では決定的な場面です。しかしながら、どうでしょうか。ここで主イエスはほとんど何もお語りになってはおられません。はじめに「お前がユダヤ人の王なのか」と問われて「それはあなたが言っていることです」とひと言おっしゃっただけです。あとはじっと黙っておられる、沈黙しておられる。ただただなすがままになっておられる。今日の箇所にはこの主イエスを囲こむようにして蠢いているいくつかの種類の人間の姿が描かれております。それはピラト、祭司長や長老たち、そして群衆、またバラバ・イエスという犯罪人、こうした人たちです。このことはとても不思議なことだと思います。何故なのかと思うのです。実はこのようにして、主イエスの十字架とは何なのか、わたしたちへの神の御心がどのようなものなのか、ということが明らかにされているように思われるのです。ですから、今日、わたしたちはこの主イエスを囲んでいる人間の姿、聖書が語っている人間というもの、それが一体、どういうものなのかということにまずは目を注ぐ必要があるように思います。
まずピラトですが、この人はローマ帝国の総督でした。当時ローマ帝国はユダヤを占領していて、総督はローマ帝国の皇帝の権威を代表してユダヤを治めていたのです。ユダヤでは一番、偉い人、それがこの総督ピラトでありました。ユダヤ人たちの議会はすでに主イエスに死刑の判決を下しておりましたが、彼らには死刑を執行する権限がなかったのです。ですから、彼らは主イエスをピラトのもとに連れていってさらにもう一度、裁くことにしたのです。はじめの一一節に、「さて、イエスは総督の前に立たされた」とあります。するとピラトは、「ユダヤ人の王なのか」と尋問したのです。ヘロデは「お前は、神の子、メシアなのか」と問いましたが、ピラトは「ユダヤ人の王なのか」と問うています。ピラトの役割は、皇帝に託されてユダヤを何事もなく治めることでした。自分の役割をよく弁えておりました。ピラトにとっては、メシア、神の子という信仰の問題ではなく、この目の前に立たされているイエスという人物が、自分を王としてローマに反逆をしようとしているかどうかということこそ見極めたいことであったから、「お前はユダヤ人の王なのか」と問うたのです。それに対して、主イエスは「それはあなたが言っていることです」とただ一言答えられただけでした。そして、あとはじっと黙ったままでした。この時、祭司長や長老たちは主イエスのことをいろいろと訴えたようです。ピラトは主イエスに反論するように促したのですがそれでも何も言われない。一四節には、「総督は非常に不思議に思った」とピラトの驚きが語られています。ピラトは、今までも同じような場面で何人もの囚人を見てきたのでしょう。皆、自分の無実だと様々なことを言いたてたり命乞いをしたに違いないのです。しかし、このイエスは違う。ピラトは経験から直感でわかったのではないでしょうか。この人は無罪だと。
ですから彼は、すぐに続いて、一つの提案をしました。過越の祭りの時には、特別に囚人をひとり解放することにしていたのです。恩赦です。ですから、裁判の席についたときに、そこに集まった人々に提案をしました。「評判の囚人バラバか、メシアと言われるイエスか、どちらかを釈放しよう。あなたたちが選べば良い」と。おそらくピラトは民衆は、バラバを選ぶことはないと踏んでいたのです。また、裁判の席に着いていたピラトのもとに妻からの伝言もありました。「あの正しい人に関係しないでください」。ピラトの妻は夢を見て、直感し、夫に進言したのです。この時代の人たちにとって夢はとても大事なもので意味を持つことであったと思われます。ですから、このこともピラトの思いを強くしたに違いありません。祭司長や長老たちが妬みのためにこの人を殺そうとしているそのこともわかっていたのです。驚くべきことにピラトは主イエスの無実を確信していたというのです。さらに驚くべきことは、このように主イエスの無罪を確信していたピラトが、それを貫くことができかったということです。ピラトは自分の思い、判断、意志を貫くことができませんでした。民衆はピラトの予想に反して、バラバを選びます。するとピラトは、「では、メシアといわれているイエスはどうしたらいいのか」と言う。すると人々は「十字架につけろ」と言います。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いた
というのか」と言います。すると群衆は、ますます激しく「十字架につけろ」と何度もんども叫び続けたというのです。二四節にはこのようにあります。「ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て」。
ピラト、この人はどんな人でしょうか。聖書は、ピラトをいわゆる根っからの悪人とは見ていません。地位があり、権力があり、教養もあり、良識のある人です。偉い人であります。高いところに偉そうにふんぞり変えるように立っていた。でもこの人が、実はとても弱い。強そうに見えて、どうしようもないほどの弱さを持っている。ピラトは、結局、自分でこの裁判の判決を下してもいない、否、できないのです。今日の聖書の箇所には、「死刑の判決を受ける」と小見出しがついていますがどうでしょうか。ピラトは自分の手を洗って、自分には責任はないと言って主イエスを十字架につけるために引き渡すほかなかったのですね。結局、判決は下していない。無力なのですね。ではピラトには責任はなかったのでしょうか。調べますと教会の歴史の中ではピラト、またピラトの妻は、主イエスが正しい方だということを証言した人で、要するに立派な人たちだ、それどころか聖人ではないかとまで、言われるようなこともあったようです。けれども、聖書は決してそうではありません。ピラトは、為政者であり裁判官でした。神さまから託されてその地位と責任を与えられています。彼はその責任を果たしたでしょうか。いいえ。彼は主イエスの無罪を、どんな中でも主張することができたはずですし、そうするのが役目でした。けれども、それを果たしませんでした。群衆に責任をなすりつけています。ちょうどこの箇所の前にも、罪を告白したユダに対して、祭司長たちは、「それはお前の問題だ、お前の責任だ」と言ったと六節にありますが、同じです。手を洗って、自分で自分には責任はないと言っていますが、それは誠に空しい言い逃れの姿です。このピラトの姿はわたしたちにとって何を意味しているでしょうか。聖書はここでピラトの上辺の姿をはいでいます。ピラトはローマの権威を表す、きれいな美しい立派な服を身にまとっていたでしょう。けれども、それがここで剥がされています。ピラトは裸です。私たちも、この世にあっておなじではないでしょうか。人の前には繕い、自分を正しいものに見せ強いものに見せて生きようとしているかもしれません。教養があり、良識を持っているかもしれません。しかし、実は生身の私たちは醜く、どうすることもできないもの弱いものです。自分で自分を正しいものとしていますが実は、罪人です。ここで多くの人たちが、語っていることがあります。ピラトは、裁判官の席に着いて、主イエスを裁いている。しかし、ここで実は裁かれているのは主イエスではなく、ピラトだというのです。確かにその通りではないでしょうか。主イエスを裁くということは、自分が主イエスを見極める、判断することができるということです。私たちも高いところに立って、偉そうに、主イエスを知ろうとします。しかし、そういうところに私たちの姿がよく現れているのです。
次に見たいのは、祭司長、律法学者たちです。あまり目立たないかもしれませんが、彼らはここで大切な役割をになっています。彼らは宗教者、神を信じる者です。その人たちが、主イエスを死に追いやった人たちであるというのです。この人たちが、主イエスを訴え、群衆を先導しています。そして、ここで彼らについて語られていることで大切なのは、一八節です。ここに「ねたみのため」ということが語られています。つまり、彼らが主イエスを十字架につけたのは、主イエスに人気が奪われたからだということです。しかし、彼らは、自分たちは正しいことをしていると思っていたのではないでしょうか。ねたみというものは私たち人間に深く巣食うものであります。妬みの思いほど、人間を深く捕らえこむものはありません。人は、妬む時、気づいていないこともあります。自分は正しいと思っていることも多いのではないでしょうか。私たちの間で、ねたみについて知らない人は誰もいないのではないでしょうか。妬みの思いに囚われたことのない人はいないのではないでしょうか。その妬みの思いが、ここでこの十字架の場面で語られています。
また、ここには民衆、また群衆が登場します。マタイによる福音書には、この群衆たちの姿がここまで繰り返し語られてきました。主イエスが山上の説教をなさった時、弟子たちと共に、群衆たちもそこにいました。主イエスは群衆たちに繰り返し、御言葉を語られ、共におられました。主イエスは群衆たちをご覧になって、彼らが飼うもののいない羊のようであると深く憐まれたとも語られていました。主イエスが行くところ、この群衆たちはいつもついていき、数日前にエルサレムに入城された時には「ダビデの子にホサナ」と主イエスのことを賛美していたのです。その群衆たちがここで豹変してしまうのです。「十字架につけろ」、彼らが何度も繰り返し、叫び続けたとあります。
何故なのでしょうか。祭司長や律法学者たちに操られたためであったとありますが、それにしても不思議です。でも、群衆というものはそういうところがあることもわかります。群衆心理という言葉があるように、ひとりが大きな声で言い始めると、みんながそれにつられてしまうのです。めだかは先頭のめだかについて泳ぎます。自分で考えようとしないのです。またこの時はお祭りでした。祭りの時の人間の熱狂というものは恐ろしいところがあります。空気感と言いますか、そういうものが人間を捉えてしまうのです。そのお祭り騒ぎの中で主イエスが十字架につけられたことは忘れてはなりません。個でいるよりも、集団の中にいた方が安心な気がするのではないでしょうか。自分で考えることをやめてしまうのです。そのようにして、例えば戦争が起こってきました。みんなが同じようにという時には悲劇が起こることを忘れてはならないとお思います。群衆たちは、バラバを選んで、主イエスを捨てました。バラバは、政治的に武力でローマに抵抗する熱心党の信仰を持っていた人だとも言われます。そして、ここにあるようにバラバもイエスという名前だったのです。バラバ・イエスか、メシア・イエスか、群衆は選択を迫られた時に、バラバを選んだのです。バラバの救いの方がよくわかったのです。でも、この十字架に書かられる主イエスの救いはわかりにくかった。気に入らなかったのです。一番、深いところにはこういうことがあったのではないでしょうか。
そして、もうひとりは、バラバです。この人についてミッシェル・クオストという人が「バラバ」という小説を書いています。バラバのその後について想像して書かれた小説です。バラバは、主イエスの身代わりに十字架にかからずにすみ、罪を赦された人です。彼は、まさに主イエスが代わってくださったゆえに救われた。小説では、そのことにバラバが感謝して主イエスを信じて生きたというのではありません。むしろ戸惑う。感謝もなく、好き勝手に悪の道を歩もうとするのです。しかし、彼のその後の人生に、だんだんとこのことが影響を及ぼしていくのです。忘れようと思うのだけれども、忘れられない。ついてくるのです。この方は一体誰か、そのことを問うようになる。そして、最後、彼はやはり再び、死刑になって死ぬのですけれども、最後にこう言うのです。「お前さんに任せるよ。わたしの魂を」。このような言葉でキリストに呼びかけて死んで小説は終わります。実は、私たち一人一人がこのバラバと同じなのですね。キリストがわたしの罪のために身代わりに十字架にかかって死んでくださった。そして、ここにいて生かされている。どうするか、群衆とかに紛れているのではなく、ひとりの人間、バラバとして答えなくちゃいけない、そういうことがあるわけです。
ピラト、祭司長たち、群衆、バラバと異なる人間たちの姿をここまで見てきました。最後になりましたがもう一人の人に注目したいと思います。それは主イエスです。主イエスは「それはあなたが言っていることです」、一言、言われたあとは、ここでじっと黙っておられます。主イエスは何も言われません。
何故なのでしょうか。ある人がこんなことを言っています。ここに出てくる様々な人たちの中で、たった一人、主イエスだけが本当の自由を生きておられる。そういうのです。確かにその通りではないでしょうか。ピラトもここまで見てきたように自由ではありません。すべきことがわかっていながらできませんでした。祭司長たちは妬みに囚われていましたし、群衆たちも自分を喪失してしまっています。バラバは文字通り、囚人です。みんな自由を失っています。でもこれが人間なのです。その中で、不思議にも主イエスは自由です。ご自分の意思、否、神の御意志を果たすことに生きておられます。
何故、キリストはここで沈黙されているのか、黙っているのか。私たちも神の沈黙を経験することがあります。どうして、何故なのか、わからない。答えがない。それをどう受け止めれば良いのでしょうか。
ある牧師が同じように問うて、こう言いました。
「キリストは何故、裁きの庭で沈黙を続けたのか、キリストの沈黙は神の沈黙を意味する。そして、人びとは、もう神は黙ってしまった、などと偉そうなことをいうけれども、キリストの沈黙・神の沈黙は、神の変わらない意志を示す。神の変わらない意志とは何か。それは受難への意志を示す。苦しみを受け続ける。そのことについての断固たる神の意志を示す」。
衝撃を受けた言葉です。その通りではないでしょうか。
今日のこの箇所には、私たち人間のどうすることもできない生身の姿が、様々な人たちを通して、明らかにされています。そして、そこにその真ん中にイエス・キリストがそれを引き受けて立っておられるのです。沈黙して、変わらない神の救いのご意志を表す。これが罪を負う、私たちの身代わりの死を受けて、苦しみを受ける十字架のキリストです。私たちはあなたはどなたですかと問うのではありません。「それはあなたが言うことです」「あなたが答えよ」と言われています。
主の呼びかけが聞こえてきます。