2021年02月07日「剣を取る者は剣で滅びる」

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剣を取る者は剣で滅びる

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マタイによる福音書 26章47節~56節

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聖書の言葉

47イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 48イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。 49ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。 50イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。 51そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。 52そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 53わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 54しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」 55またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。 56このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
© Japan Bible Society 日本聖書協会 1987, 1988
マタイによる福音書 26章47節~56節

メッセージ

たった今、お読みしました聖書の箇所は、受難週の木曜日の夜、主イエスが逮捕された場面です。今日の箇所の一番、はじめには、「イエスがまだ話しておられると」とあります。これは、四五、四六節のことを指しています。主イエスは、ゲツセマネの園でお祈りになっておられました。そこで、捕らえられ、十字架につけて殺されるという苦しみにに備え、その痛みと悲しみ、恐れと闘っておられました。そして、「わたしの思いではなく、あなたの御心が行われますように」と祈られて、今やはっきりと父なる神様の御心に従って十字架への道に進まれる決心をなさいました。しかし、主イエスがお祈りをんさっている間、共に目を覚まして祈っていて欲しいと願われていた弟子たちは、繰り返し、眠り込んでしまっていました。ゲツセマネのいのりの最後に、眠っていた弟子たちに、主イエスは語りかけられました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう、わたしを裏切る者が来た」。「裏切る」という言葉は、「引き渡す」という言葉です。「わたしを引き渡す者が来た」、まだ、この言葉を語っておられる間にということです。主イエスを裏切る者、引き渡す者というのは、「一二人の一人であるユダ」です。最後の晩餐の後、姿を消したユダが祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆を引き連れて、やってきました。

彼らは、「剣や棒を持って」やってきました。主イエスとその弟子たちは、人数的にも少なかったし、武装していたわけでもありません。そのような者たちに対して、大勢の者たちが、剣や棒を持ってやってきたというのです。大げさ、あまりにも過剰な反応と言えます。主イエスご自身が、五五節で群衆たちに、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえにきたのか」とおっしゃっています。どうしてでしょうか。答えはっきりしていると思います。いうまでもなく怖かった、恐ろしかったからです。私たち人間が剣や棒をとるのはいつも恐ろしい時です。昔、夜中に寝ていますと、教会で何か大きな物音がした。責任があるので、見に行かなければならない、思わず懐中電灯と、ホウキを手に持って見回りに行きました。怖かったので棒を手に取ったわけです。結局、何もなかったのですが…。

 またある人は、ここに出てくる人々の恐れの姿は、内面のやましさを物語っていると分析しています。やましいことがある時、人はビクビクし、恐れるものです。

 さらにもう少し突っ込んで考えることもできるかもしれません。どうして恐れたのか。主イエスが病人を癒されたり死人を生き返らされたりする、力を持っておられるということを知っていたからかもしれません。主イエスという方、この方は神が共にいてくださるお方だということをこのような人たちも感じ取っていたからかもしれません。しかし、「まるで強盗に向かうように」あなたたちはわたしを捕まえにきたと言われて、訝っておられます。あなたたちはわたしのことを強盗だと思っている。強盗と言うのは何をするかわからない。だから警察官は、武装します。言い換えますと、ここで人々は、主イエスをこの強盗のように恐れたのです。主イエスの力に、強盗の力、人間を無理強いする、暴力的な力しか見ようとしていないのです。そう言う力しか知らないのです。それはまた、自分も、そのような力に頼って生きていることを表しているかもしれません。主イエスは、自分立ちよりももっと大きな暴力を持っているのではないかと考えて、恐れたのであります。

 では、主イエスを裏切ったユダはどうでしょうか。彼は、「わたしが接吻するのがその人だ、それを捕まえろ」と前もって合図を決めておいて、「先生、こんばんは」と言って、主イエスに接吻したとあります。ユダだけはどうも堂々としている、微動だにしていないように見える。 ユダはこのことの前に策を練って、謀をしています。祭司長たちと主イエスを捕らえるための周到な準備をしました。

 だから、彼は動じることはなかったのでしょうか。恐れることはなかったのでしょうか。ここにはユダの内面を表す言葉はユダの口からは何も語られていません。すべては隠されています。しかし、ユダは、ここで主イエスに対して、あくまでも裏切り者としてではなく、弟子として接しています。正面きって堂々とではないのです。なぜでしょうか。主イエスを騙すためでしょうか。でも、裏切りは見え見えだったでしょう。ユダは、主イエスに真向かうことができなかったのです。このことはユダの恐れのあらわれではないでしょうか。ユダは、剣を手には取っていません。けれども、彼もまた違う仕方で、剣を抜いているとも言えましょう。

 では弟子たちはどうでしょうか。彼らもまた恐れておりました。五一節には、主イエスが捕らえられた、「そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした」とあります。弟子たちの中の一人とあります。名前は明かされていません。ただヨハネ福音書には、この剣を抜いて切りかかったのは、ペトロであったと書かれています。ペトロがやりそうなことであります。彼は、主イエスに「自分のいのちを捨てても、あなたに従います」と先に誓っていました。彼は勇気のない人ではなかった。自分の言葉の真実をその通りここで証ししたと言えるかもしれません。しかし、その一方で、どうして、この時、剣を抜いたのか、剣を抜いて切りかかったのか。それはやっぱり怖かったから、恐ろしかったからでしょう。剣を抜いて、勇ましそうに一見、見えますが、そのうちにはやはり怖れがあるのです。

 

 こう見えてみると、主イエスの周りにいた人たちは、みんな恐れのなかにあったのです。この時、主イエスは恐れの中に取り囲まれておりました。主イエスを捕らえにきた祭司長たち、群衆たちも、ユダも、弟子たちもみんな恐れていました。では主エスはどうでしょうか。

 先には、主イエスはゲツセマネの園で、苦しみ悶えてお祈りになっておられました。「わたしは死ぬばかりに悲しい」「もういっそのこと死んでしまいたい」とさえ言われました。恐れの中におられました。しかし、今は違います。主イエスだけがしっかり立っておられます。

 祈り終えられた主イエスは「裏切る者が来た」と言われて、逃げ出さされたのではありません。「さあ、行こう」と言われて、自ら歩みを進められるのです。裏切られるということなのですが、受け身ではありません。自ら進みゆかれ、ユダの接吻もお受けになって、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われたと五〇節でいわれています。実はこの言葉の意味ははっきりしいてないのです。解読不能と言われます。以前の口語訳聖書は、「友よ、なんのために来たのか」と疑問文に訳されていました。いろんな訳の可能性があるのですが、主イエスはユダが何のためにやってきたのかということはよく承知しておられました。その上で、やはり、すべてを承知の上で、ご自分から

引き受けておられるのです。友よ、あなたがしようとしていることをするがよい。その意味では、主イエスは、ユダの行為そのものをここでご自身のうちに捕らえ込んでおられるのです。ユダは、主イエスと真向かうことができずにいます。しかし、主イエスは、このユダとも真向かわれる。このユダをも、「友よ」となお呼びかけられる。主イエスにはもはや恐れがないのです。そして、この主は、弟子の一人が、剣を抜いて、切り掛かって片耳を切り落とした時、こう言われたのです。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は剣で滅びる」。

 主イエス、この方だけが恐れることなく立っておられます。

 

 恐れに取り憑かれて、剣や棒を握り締めたり、剣を振り回している、ここに出てくる人間の姿、それはまさしく私たちの姿であります。特別なときだけではありません。いつの間にか、そのように生きてしまっています。この恐れの問題と言うのは、非常に根深いのです。聖書は、神様は、私たちの姿をよくご存知なのです。どうすればよいのでしょうか。今日の聖書の箇所は、そのことを私たちに示してくれています。そのことを時間の許すところでご一緒に考えてみたいと思います。

 そのための鍵となる言葉の一つは、 「剣を取る者は剣で滅びる」と言う主のお語りになった御言葉です。この御言葉を通して、主イエスを見つめることです。

聖書の中でも広く知られている言葉の一つです。武力や、暴力について語られますときときに主イエスが語られた言葉だということも忘れられたまま口にされることもあります。剣を取るものは例外なく剣のゆえに亡びる、剣を取ることは愚かなことだ。国の軍備の話、戦争と平和の問題でそういう議論がされることがあります。けれども、どうも主はそういう一般的な話をなさったわけではないのですね。実際、こういう原則が成り立たないことは少し考えれば明らかです。剣を取ったものが剣で死ぬとは限りません。ある人は、アレクサンドロス大王は、剣によっていきた人ですが風邪で死んだ、ナポレオンも、布団の上で死んだ、剣で死んだわけではない。逆に、ほかの多くの人たちは、剣を取ることのないままに剣で死んだ。のちの主の弟子たちもそうだというのです。ですからあまり、ここに書かれている以上のことを読み込まない方が良いというのです。ペトロも他の弟子たちも、ここで剣を取ってはならないのです。そうではないと彼らは、剣によって滅びるのです。

 宗教改革者のカルヴァンは弟子の一人が剣を抜いて、打ち掛かったことについてこう言っています。「この男は一見、自分の弱さを忘れて、主イエスを身を持って守り、仕えているように見えるけれども、彼がここで選んだのは滅びでしかなかった」。

 そうでしょう。もし、ペトロがここで剣を抜いて、それが見事に、命中し、目の前の人を殺してしまったらどうでしょうか。たちまちにして、この場にいた全員が、滅ぼされてしまったでしょう。そうはならなかったのです。なぜなら、神がおられるからです。ここでなされているのは神の御業、神のご計画であるからです。そうであるが故に、この一撃は逸れた、片耳を切り落とすだけで終わったのです。私たちが忘れてはならないことがあります。この世では悪が力を振るっています。欲しいままに、しているかのように見えます。そこで私たちは苛立ち、また恐れます。しかし、恐れることはありません。また正義のためなら剣を抜いても良いということにはならないのです。悪もまた深い神の御手の中にあります。本題に戻りましょう。いずれにしても、ここで大切なことは主イエスが剣を取られなかったということです。「剣を取る者は、皆剣で滅びる」という宣言は、実は何よりも、主イエスご自身が剣を抜かれない。剣を持ってその御業を行わないということです。神の子であるわたしは、剣を取って正義を貫かない。そこでは救いはならないと言われたのです。主イエスがじっと見ておられるのは救いです。神の救いの御業です。

 主イエスは、弟子たちに、剣を鞘に納めるようにお命じになって、その理由を語られています。それが五三節です。そこには主イエスが、もし父なる神様にお願いすれば、今すぐに、12軍団以上の天使の大群を送ってもらい、主イエスを捕らえようとする者たちを蹴散らすことができると語られています。つまり勝ち目がないから、剣を抜くなということではないのです。

 そして、続いて、こう言われます。「しかし、それでは必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」。必ずこうなると書かれている聖書の言葉とは、神様がすでに旧約聖書においてお示しになっておられる神様の救いのご意志の、ご計画のことです。主イエスが今、捕らえられ、十字架に書かられるのは、この神様の御意志、ご計画によることです。その神様の御心を知るが故に、今、こうして捉えられようとしているのです。

 だからここで主イエスだけが、お一人が剣を捨てられるのです。

十字架に書かられる救い主だからです。主イエスの十字架とは何か、それは私たちが絶えず尋ね求めることです。もうわかったなんて言えないのです。十字架は、神様が剣をお捨てになることです。神様はわたしたち、人間をその罪の故に剣を振るって、滅ぼすことのおできになる方です。しかし、そうなさらなかった。このみ子、イエス・キリストにおいて、剣を取られなかった。そのかわりに御子が剣を古川れるのです。そしてそのいのちを捧げられるのです。神様は、剣を御子にふるわれたのです。

 このときは、神さまの一撃は逸れることがなかったのです。私たちが滅ぼされるのではなく、御子が剣を振るわれて、殺されたのです。そのことが起こらなければならなかった、だから、ここで、主イエスは捕らえられたのです。

 私たちはこの主イエスの十字架の死によって救われました。この主イエスの救いの恵みの中で生きる時に、私たちは、剣を取る生き方から解放されて、真の平和の道を歩み出すことができるのです。

 ピーターソンというアメリカの牧師がこの聖書の箇所についての短い黙想を書いています。

 こんな黙想です。「ローマ帝国と宗教が結託してイエスを捕らえ、差し押さえたのですが、ご自身はどんな邪悪なものをも恐れたりなさいませんでした。イエスは神の軍勢を強く信頼していたので、どんな剣や棒をも、きっぱり退けさせたのでした。この群衆の中で、あなたはどこにいると思われますか」。

そして、こんな短い祈りが書き記されてもいます。

 「イエス様、あなたは剣によってではなく、預言者によって書かれた聖書によって生きられました。しかし、わたしは正しいことをしようとする時でさえ、暴力を行使したりするのです。聖書によって生きる生き方や目標について、もちろん、その具体的な方法も教えてください」。

この祈りの言葉は大切なことを教えてくれているように思います。剣を取らないで生きる恐れないで生きる具体的な方法を教えてください。逆にいうと、ここに教えられているのではないでしょうか。

 ここで主イエスはこのように恐れないで生きる前にゲツセマネのそので祈られています。また聖書の言葉に立っておられます。私たちが、恐れないで生きるために、聖書と祈りが恵みの手段として与えられているのです。それなしに、私たちは立てません。そして、この聖書と祈りはどこに神様の御心があるのかをさししめしてくれます。この礼拝です。

 弟子たちはここで主イエスを見捨てて、皆、逃げ出してしまいました。教会は一度ここで亡くなったのです。しかし、彼らは主イエスが十字架にかかられ、復活された後、戻って来ました。それからは彼は剣を取ることは一度もなかったのです。平和の道を歩み始めたのであります。御言葉と祈りによって十字架にかかられた主イエスを仰ぎましょう。その時、私たちは恐れなく、剣をふるうことなく生きるのです。