2021年01月31日「目を覚まして祈ろう」
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目を覚まして祈ろう
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- 橋谷英徳 牧師
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マタイによる福音書 26章36節~46節
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聖書の言葉
36それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 37ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。 38そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 39少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 40それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 41誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 42更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」 43再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。 44そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。 45それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 46立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
© Japan Bible Society 日本聖書協会 1987, 1988
マタイによる福音書 26章36節~46節
メッセージ
主イエスのみ苦しみ、受難を伝えるマタイによる福音書の聖書の箇所を私たちは今、読んでおります。主イエスの受難には大きな二つの山がありました。最大の山は、十字架であります。主イエスのみ苦しみの頂点は十字架です。けれども、その十字架の直前にもう一つ、大きな山がありました。それが今朝、お読みしましたゲツセマネの園での祈りの時であります。
主イエスは最後の晩餐のときを弟子たちと一緒にもたれた後、オリーブ山のゲツセマネのいう場所に行かれました。そのとき、主は弟子たちのうちペトロとぜべダイの子ヤコブとヨハネの三人をお連れになられましたが、その三人からも少し離れたところに行って、祈られました。主イエスは捕らえられ、十字架にかけられ処刑されることを強く感じ取っておられ、祈りの時をもたれたのです。この十字架にかけられる前夜の祈りが「ゲツセマネの園の祈り」です。
「その時、悲しみもだえられ始められた」とあります。悲しみもだえるというのは一体、どんな、どれほどの悲しみなのでしょうか。私たちは到底想像もできません。また主イエスご自身が「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃっておられます。この言葉は、「あまりに強い悲しみのためにもういっそのことわたしは死んでしまいたい」というような意味の言葉だとも言われます。つまり「もう死んでしまいたい」、主イエスが自殺願望の言葉を口になさったと言ってもいい。大変な言葉、途方もない言葉です。「もういっそのこと死んでしまいたい」、主イエスが、神の子であるイエスさまがこんなことばをひどい悲しみゆえに口になさった。
皆さんは、どんな感想をお持ちになるでしょうか。すでに、この箇所が読まれるのをお聞きになってそれぞれに色んな思いをもたれているでしょう。
そして主イエスは、ひどい悲しみを言い表される中で、同時に、弟子たちに、何度も繰り返して、「目を覚ましていなさい」とおっしゃっておられます。目を覚ますということは、目を開けていることです。そうであるなら、目を覚ましていなさいということは「目を開いて見るべきものを見なさい」ということです。しかし、弟子たちは何を見るのでしょうか。それは主イエスご自身であります。主イエスは、弟子たちにご自身のこの苦しみ、悲しみを見るようにと求めておられるのです。キリストは、今日、私たちにも目を覚ましているようにと求めておられます。私たちも、今日、目を開いて
、このイエス・キリストを見つめたいのであります。
ある人がこの聖書の箇所について「ここには、紛れもなく本当にあったことが記されている。これは決して、人間が作った話ではない、事実としか考えられない」と言っておられます。わたしもここを読んで、そのように思うのです。繊細に、臨場感をもって言葉が語られています。それに、こんな話を弟子たちが作ろうはずがありません。神の子、救い主である方が、ひどい悲しみを表され、「もういっそのことわたしは死にたい」などと言われた。そんな話を作ることなど考えられないのです。こんな話をして、得する話では決してない。得するどころではない、むしろ損する。そんな話を作るなんてことはまず考えられない。だから、ここ書かれていることは紛れもない事実だ、そう言われるのです。実際、多くの人たちがこのことに躓いてきました。これが、神の子、救い主なのか?。その最後はこんなものだったのか。こんな神はわたしはとても信じられない、そんな人たちが生まれてきました。つい先週も、ある方が、家族から「十字架につけられたイエスなど信じられない」と言われたと話してくださいました。それと同じことです。
このゲッセマネのことで、主イエスと比較して昔から思い起こされるのはギリシャの哲学者ソクラテスの死のさまです。ソクラテスは牢獄に捕らえられ、堂々と毒の杯を飲んで、死んだと言われます。しかし、この主イエスはどうだと言われるのです。怯え、悲しんで、死んで言っている、なんということだと言われるのです。最期の様子というのはその人を表す大切なこと、それが見事であったかどうかが問われます。私たちたちだって、みっともない死に方をしたくないと思うでしょう。しかし、主イエスは自らの死を前にして、それを感じ取られて、ひどく悲しまれ、もう死にたいと言われる、その意味では、実にみっともない、惨めな最期ということになります。
しかし、どうでしょうか。もしそういうことであるなら、弟子たち目を覚ましていなさいと言われたでしょうか。こんなみっともない姿はお前たちには見せたくない。どうか見ないでくれと言われたのではないでしょうか。そうではなく、主イエスは、弟子たちに、私たちに目を開いてよく見るように求められるのです。ここでの主イエスのひどい悲しみ、悲惨は、お一人のためのものではありませんでした。すべての人間のための苦しみでした。弟子たちに、このひどい悲しみを見せられたのもそのためでした。この主イエスの祈りの姿は、私たちの模範というようなものではありません。誰もこのときの主イエスのような悲しみを味わうことはできません。主イエスだけが負うことがおできになった悲しみであり痛みです。主イエスしかできないのです。
すべての人の罪を担うことなど私たちのうちの一体誰ができるでしょうか。私たちは自分の罪だけでせいっぱいで、人の罪を負うこと、誰か一人の罪を背負うことすらできません。私たちは罪を増やすはできてもそれを贖うことはできません。それがおできになるのは、ただ主イエスだけです。申し上げたいのは、聖書は、神の子、救い主なのに悲しまれたと言っているのではなく、全く逆に、神の子、救い主だからこそ、このように悲しむことがおできになったと語っていると言うことです。主イエスが神だからこそ、苦しむことができた、悲しむことができたのです。神でなければ、こんな悲しみを表わすことはできなかったのです。私たちは神さまのご存在を、神さまの力をどこに見るでしょうか。聖書は、神を悲しみの中に苦しみの中に見い出します。
私たちは、悲しみや苦しみの中には神はおられないと思っています。
しかし、聖書は、そうではない、思いがけないところにまことの神がおられることをいつも語っています。
しかし、なぜ、どうして、こんなにも、御子は、怯え、悲しみ、苦しまれているのでしょうか。それは、私たちの罪のゆえであります。
宗教改革者のルターは、ゲツセマネで祈る主イエスを見つめながらこう言いました。「主イエスほどに死を怖れた人はいなかった」。私たちは死ぬのが怖いと思うことがある、死を怖れることがある。しかし、どんなに私たちが死を怖れても主イエスほどではないのだと言うのです。罪の支払う報酬は死であると聖書にあります。人が死ぬと言うことは、罪の結果です。罪と切り離されること、分離されることです。主イエスこそ、主イエスだけがそのことの苦しみ、悲しみを見つめることがおできになったのです。このことに目を向けるとき、初めて、私たちは、私たちの罪がどれほど恐ろしいものであるのかをも知るのです。
ここで主イエスは、悲しみの中で三度、祈られたとあります。最初に、「父よ、できることなら、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。二回目には、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と祈ったとあり、三度目にも同じ言葉で祈られたとあります。三度、祈ったと言うのは聖書の中の特別な表現で、祈った回数が三回であったと言うことではありません。主イエスが、神さまに心を強く確かに向けられて、持続的に祈られたと言うことです。すべての存在をかけて、生涯の祈りとして、このゲツセマネで祈られた。そして祈られていく中で神様の御心、すべての人の罪を背負って、十字架にかかって死ぬと言うことを覚悟されて行かれたのです。それは私たちのためでありました。
主イエスは、この三度の祈りの間、繰り返し、弟子たちに、目を覚ましているようにと求められました。しかし、三度とも弟子たちは眠っていたとあります。弟子たちは、目を開けていることができ買った。主イエスがこのような格闘し、悲しんでおられる間に、うとうとと眠ってしまっていたのです。
ある聖書にはこの弟子たちの眠りについて、こんな注がつけられていました。「何せ昼間の活動でクタクタだった上に、過ぎ越しのご馳走を腹いっぱい食べ、葡萄酒をタップリ飲み、大道一里の夜道を歩いてきたので、酒は全身に回り、睡魔に逆らうことなど無理であった」。なるほど、そうだったのだろうなあと思います。その通りでしょう。しかし、それだけかとも思います。この弟子たちの眠りを「霊的な眠り」「魂の眠り」と呼んでいます。私たちは、ただ起きていれば眠っていないということにはならない。起きていて、活発に活動していても、眠っているということがあるのです。
ある牧師から、牧師たちの学びの場所でこんな言葉を聞かされたことがあります。「牧師をしていると聖書を読むと眠くなる、聖書を眠り薬にするなんて、言われることがある。けれども、到底、それには私は納得できない。聖書を読むと、寝ていられなくなる。眠れなくなる。あなたたち牧師が、説教するときも、教会の中には、疲れていて今日はどうにもならない眠くてしょうがないと思って、礼拝堂に来ている人が必ずいる。説教者はそういういう人にも、御言葉を語る。聖書の言葉を語る。疲れていても、眠くっても、ここで目を覚ますということがある。眠っていて当然なんて思うな」と。よく思い出します。その先生はまたこんなことも言われました。「私たちはどんなときに目を覚ますか。それは決まっている。それが自分の話だということがわかると目を覚ます。自分の話がされているなら、眠っている場合じゃなくなる。聖書、聖書を語る説教、それが他人事ではなく、自分のことだということを語るのだ。それに気づくように語らなければらない」と。
こう考えると、ここでの弟子たちが眠った理由もわかってきます。それは、このとき、弟子たちは、この主イエスの苦しみ、悲しみがわがためだったということがわからないのです。ただ単に肉体が疲れて眠かったという話ではないのです。翻って私たちはどうでしょうか。
この弟子たちの魂の眠りと同じことがあるのではないでしょうか。三度どこから、何度も何度もここまでの歩みの中でその魂が眠ってしまったのではないでしょうか。でも主イエスは、こここでもそうなさっているように、何度も何度も、眠っている私たちのもとに来られて、声をかけられるのです。今日もそうであります。霊において、魂において目覚めよと語られるのです。そのためにもご自身の苦しみ、悲しみが私たちのためであったことをよく見るようにと語られるのです。見つめたいと思うのです。この主のお姿を。それは私の救いのためになさっていることであります。
「心は燃えても肉体は弱い」、四一節の言葉は大変よく知られています。この主イエスの言葉は、しばしば、弟子たちは、心は燃えていたけれども、体が疲れていて、弱くてそのために眠ってしまった。そのことを主イエスは、指摘されていると読まれてきました。でもどうでしょうか。そうじゃないのですね。弟子たちの心は燃えていたでしょうか。そうではないのですね。この四一節の言葉は、「霊は燃えていても、肉は弱い」とも訳されます。霊は聖霊です。聖霊としますと、今日の箇所には、父なる神さま(祈りの対象)と子なるイエスそして、聖霊と三位一体の神さまがその姿を表しておられることになります。
それだけ大切な箇所だということになります。聖霊は燃える炎に例えられてきました。愛の炎です。聖霊は熱い。しかし、肉、この場合の肉は、肉体のことではなく、弱さをもった私たち人間の存在のことです。聖霊は燃えているのです。でもその炎が私たち人間にはなかなかうつらないのです。冷めたいまま、眠ったままなのです。そういう主イエスのうめきの言葉です。弟子たちは、この言葉を忘れることはできずに何度も思い起こしたのではないでしょうか。聖霊が燃えているというのは、私たちにとって、慰めです。三位一体の神様は生きて働いておられます。私たちがどんな中にあっても、だから目を覚ましていなさいということです。
このゲツセマネの祈りは、ほかの福音書、マルコによる福音書にも、ルカによる福音書にも、記されております。ほぼ同じように記されていますが、違いがいくつかあります。特に、このマタイによる福音書にしか語られていない言葉がございます。
三六節には、「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネというところに来て」とあります。さらに三八節でも、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。四〇節にもこうあります。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」。
「一緒に」「共に」というのは同じ言葉です。このことが三度、繰り返されています。主イエスは、弟子たちと共にいることを願われておられる。マタイによる福音書だけが記していることです。。そして、この「共にいる」「一緒にいる」ということは、このマタイによる福音書においては主題です。
マタイによる福音書の最初のページ一章二八節には、主イエスの誕生のことが語られる中で、「神は我々と共におられる、インマヌエル」ということが語られていました。そして、一番、最後のページにもこうあります。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと一緒にいる」。
このインマヌエルということが、この福音書が伝えていることです。そして、ここでは主イエスが、「目を覚まして、一緒にいて欲しい」と願われるのです。これはこの時、ゲツセマネの出来事です。けれども、私はこう思います。私たちは、今も主イエスは、私たちに願っておらられるのではないかと。私たちは主イエスにこちらの方が何かを願うということばかり考えているかもしれません。けれども、聖書を呼んでみると、実はそうではなく主イエスの方が私たちに願われる、主の願いということが語られていることがわかって来ます。
私たちも、苦難、悲しみを経験します。人生の悲しみを経験することがあります。人間は、生老病死というような苦しみを経験するのではないでしょうか。「もういっそのこと死んでしまいたい」と思うこともあるかもしれません。個々人の人生というだけではなく、社会そのものが世界そのものが苦難を受けることがあります。今私たちは、コロナ・ウィルスの感染症を経験しています。神は一体どこにおられるのか、そう思うこともあるかもしれません。しかし、今日、主イエスは言われます。インマヌエルであるかたが言われます。「私はあなたがたと一緒にいる、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。祈っていなさい」。そう言われるのです。
主イエスは、このゲツセマネで祈りをささげて、神の御心を知らされ、十字架に向かわれました。そして最後にこう言われています。
「立て、行こう。わたしを裏切る者が来た」。
主イエスは倒れておられました。しかし、ここで立ち上がられます。そしてもう一つの大きな山に向かって、歩みを進めてゆかれます。私たちのために。この主イエスが一緒にいてくださる。そしてそのことを私たちにこう言われます。「目を覚ましていなさい。一緒に祈ってほしい」と。