2021年01月24日「つまずき倒れても、まだ先がある」
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つまずき倒れても、まだ先がある
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- 橋谷英徳 牧師
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マタイによる福音書 26章26節~35節
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聖書の言葉
26一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 27また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 28これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 29言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」 30一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。31そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。
『わたしは羊飼いを打つ。
すると、羊の群れは散ってしまう』
と書いてあるからだ。
32しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」 33するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。 34イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 35ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
© Japan Bible Society 日本聖書協会 1987, 1988
マタイによる福音書 26章26節~35節
メッセージ
たった今、お読みしました聖書の箇所は、二つの部分・段落に分けることができます。ちょうど私たちが用いております新共同訳聖書では読みやすいように「主の晩餐」、「ペトロの離反を予告する」という小見出しがつけられています。
二六節から三〇節の「主の晩餐」の箇所は、いわゆる最後の晩餐と呼ばれる有名な箇所です。この食事の後、オリーブ山という場所に主と弟子たちは向かい、そこで主イエスは捕らえられ十字架にかかって死なれます。この食事は、弟子たちとの地上の歩みでの最後の食事でした。教会は、その歴史が始まって以来、この箇所の出来事を重んじ続けてきました。それは、ただ単に聖書を読み、それを学び心に留めるということだけのことではありません。教会は聖餐式を行って、ここに記されていることを、繰り返し、行ってきました。私たちは、聖餐にあずかるときに、パンとぶどう酒を用意しまして、ここでキリストの「取って食べよ」というみ言葉を聞いて、その通り、取って食べ、「皆、この杯から飲め」というみ言葉を聞いて、その通りにします。
そして、この食事の後に、主と弟子たちは、オリーブ山に向かわれたと三〇節にございます。このオリーブ山で、しばらく祈りの時を過ごされた後に、主は捕らえられ、引き渡されてしまいます。主と弟子たちは、その時、離れ離れになってしまいます。そして、主イエスは十字架におかかりになられます。
そのオリーブ山に向かう途中に、主イエスは弟子たちに語りかけられました。そのことが、後半の三一節から三五節に語られています。「ペトロの離反を予告する」と小見出しにはあります。主は確かにペトロと言葉を交わされます。しかし、主はここでペトロだけに語られたのではありません。ペトロは弟子たちの代表者です。ですから、一番、最後にこうあります。「弟子たちも皆、同じように言った」。
三一節にも、こうあります。
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。
「今夜、あなたがたは皆、わたしにつまずく。
『わたしは羊飼いを打つ。
すると羊の群れは散ってしまう』
と書いてあるからだ。」
旧約聖書のゼカリヤ書の言葉を引いて、ここで主は弟子たち全員の
離反を告げられたのです。すでに前の箇所では、一二人の一人が裏切ることが明らかにされました。けれども、ここでは弟子たちの皆、すべてが散り散りになってしまうということが告げられます。それは、なぜか、どうしてなのか。それは羊飼いが打たれるためです。
「羊飼い」それは主イエスのことです。神が羊飼いを打たれるとは、殺される、撃ち殺されることを意味します。羊は、羊飼いがいなければ生きることができません。羊飼いが一緒にいてはじめて生きれるのです。羊飼いがいなければ、散り散りになる以外にはありません。そういうことを主イエスはここで十字架を前にしてお語りになられました。
「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」。
実際、この通りのことが起こりました。この後の五六節にはこうあります。「このとき、弟子たちは、皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」。
皆さんは、この出来事をどう思いますか。ペトロが、また弟子たちの全てが、このように主を見捨ててしまうということを。私たちは、この出来事を忘れることはできません。このキリストの言葉を聞いた時に、ペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいたとしても
わたしはつまずきません」と語りました。「あなたと一緒に死んでもいい」とも言いました。死すら恐れないと言い、「あなたのことを知らないなどとは決して言わない」と断言しました。他の弟子たちも皆、同じように言ったのです。これは嘘を言ったというわけではありません。彼らは、心の底から、本心から、そう思っていたのです。ここまで主イエスと一緒に歩んできた。主イエスを慕い、愛し、敬っていた。この主から離れるなどということは、考えられないことでした。しかし、この彼らが、わずか数時間の後に、主を見捨ててしまったのです。この出来事は、私たち人間の弱さ、脆さを教えています。私たちは、自分で思っているよりも、はるかに脆い、弱い存在なのです。私たちはしばしば、そのことを忘れて生きています。聖書の中にこんな言葉があります。「立っていると思っている者は、倒れないように気をつけるがよい」(1コリ一〇・一三)。
しかし、ある人が、きょうのこの聖書の箇所について、こういうことを語っておられます。
「この弟子たちが散らされる、それは弟子たちの弱さを示す出来事であったかもしれないけれども、何と言っても、彼らが主の羊であることを示す出来事であった。羊飼いが倒れればたちまち途方に暮れる羊のように、彼らの存在がどれほど深く、羊飼いに依存しているか。そのことを知らないのは弟子たち自身であった」。
とても深い言葉だと思います。
この人が言っていることはもう少し説明が必要かもしれません。ここに私たちが、弟子たちの弱さ、私たち人間の弱さを見ること、それ自身は間違っていない、その通り。でもそれだけじゃない。ここには、弟子たちが主の羊であることが示されている、この弟子たちは主のもの、主によって深いところで生かされてる。これが弟子たちであり、私たちなのだというのです。
実際、主イエスはここで、「今夜、あなたがたは皆、わたしにつまずく」と言われました。「つまずいちゃ絶対、いけない」とは言われません。「あなたがたは必ずつまずく」。どうしてか。「あなたがたは、わたしの羊だから」。「あなたがは散り散りになってはいけない」と言われたのでもありません。「あなたがたは散り散りになってしまう」。それは、なぜか、羊飼いを主が打たれるからです。弟子たちは、この羊飼いのもの、主の羊だからです。ところがこの弟子たちは、そのことがわからない。だから、言うのです。「わたしはつまずきません」と。
自分の弱さ、もろさを知らないからだけではないのです。何よりも、主がわたしの羊飼いであることが見えていなかった。自分がわからなかった。それは自分の弱さが、罪深さがわかっていなかったということにとどまりません。むしろ、何よりも、この自分が主の羊であることがわからなかったのです。弟子たちは主が語られることがわかっていないのです。御言葉がわからないのです。
翻って私たちはどうでしょうか。主がここで語られていることがわかるでしょうか。自分が何者かということを自分はよく知っていると言えるでしょうか。主がわたしの羊飼いであること、自分が主の羊、主のものであることを自分はもうよくわかっていると言えるでしょうか。もっというならば、自分が主がどれほど深く愛されているか、大切にされているかということを知っているでしょうか。
私たちが今、この社会を生きているとどうでしょうか。私たちは、自分の価値がわからなくなるのです。自分はいてもいなくてもいいものに思えるのではないでしょうか。しかし、御言葉は、聖書は、「断じてそうではない」と言うのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」。イザヤ四三章七節にはこうあります。これは聖書の全体のメッセージです。それが、ここでも語られています。
きょうの聖書の箇所をこのようにして、読んでいきます時に、どうしても思い起こされる聖書の箇所があります。 詩篇二三篇です。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」
わたしは、きょうの聖書の箇所と詩篇二三篇は、重なっていると思います。「主は羊飼い」、冒頭の言葉は、原文では、「主はわたしの羊飼い」という言葉です。イエス・キリスト、この方こそ、わたしの羊飼いです。信仰を持って生きるということは、主の羊としてこの羊飼いによって生かされることです。救われて生きることです。
実際、きょうの聖書の箇所には、この羊飼いである主のお姿が初めから示されています。
主は最後の晩餐の席で、ご自身の死を前にして、パンとぶどう酒を分かち与えられます。そしてこう言われました。
「取って食べなさい。これはわたしの体である」。
「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。
詩篇二三篇三節以下を読みます。
「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れません。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」
そして、五節にはこうあります。
「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」。
どう重なるのか、簡単にはいうことはできません。しかし、明らかに重なっていることはわかります。主の頭に香油が注がれ、そして、食卓が備えられています。
主の晩餐の食卓、きょうの聖書の箇所は、主こそがわたしの羊飼いであり、私たちは主の羊であることを語っています。
この羊飼いである主こそが、私たちをお救いになるのです。そして、この私たちを救うために、今、主は十字架に向かわれるのです。この主の晩餐は、そのことを示します。
ヨハネに福音書にはこんなキリストの言葉が語られています。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」
パンとぶどう酒、これは、当時の人々の生活の中で、もっとも日常的なものでした。なぜこのような日常の品を用いられたのでしょうか。
このことは、私たちのなんということはない日常の営みが、主から救われていることを意味するのです。私たちが三度の食事を食べ、働き、寝る、そういう人生の1日1日が、主の救いの中にあるのです。しかし、私たちはそのことを忘れて生きているかもしれません。当たり前のように思っているかもしれません。けれども、それもまた、主の十字架のゆえ、救いのゆえにあるのです。そして、主は羊飼いとして、私たちに肉の糧を与えられるだけではありません。霊の糧もまた日々に与えてくださいます。信仰がなくならないように、恵みを与えて支えてくださっています。きょう、私たちが信仰によって、ここで祈って、聖書に耳を傾けていることもまた主の恵みの言えです。
また私たちは試練にあいます。また心や体を病んだりします。死の陰の谷を歩むこともあります。しかし、私たちはそこでも「災いを恐れない」と言うことができます。それはただ一つの理由でいうことができることです。主がわたしの羊飼いであり、わたしと一緒にいてくださる方だからです。きょうの聖書の箇所でも主は弟子たちの離反を予告しつつ、こう言われています。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(三二節)。二九節にもこうあります。「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」。
羊飼いである主は、羊のために命を捨てます。しかし、この方は死を打ち破って復活されるのです。この方は、私たちの罪を贖い、赦し、そしてあらゆえう試練から守ってくださり、さらには死からも救ってくださるのです。永遠のみ国に導かれます。詩篇二三篇の終わりにもこう語られています。
「命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り、
生涯、そこにとどまるであろう」
私たちは主の羊です。主は、この羊であるわたしたちを大切に守り、養い、支えていてくださいます。罪からも死からも救ってくださいます。
この時の主の弟子たちは、このことが見えなくなっていました。わからなくなっていました。しかし、そんな弟子たちを、主は愛し、大切にして、導いておられる、そのことをここに見ます。主ご自身が弟子たちを、ご自身のもの、羊として見続けておられるのを私たちはここに見出すことができます。この主の眼差しは、私たちにも注がれています。
先週、神戸の神学校に講義を行うために訪ねました。集中講義を二日間、行いました。とても疲れました、けれども良い時間が与えられました。もう20年近く続けていることになります。どうしても、昔のことを思い出します。校舎は建て替わったのですが、名残があって神学校を訪ねるといろんなことを思い出します。
信仰が分からなくなったこともあります。揺り動かされてどうにもならなくなったことがあります。そんなときに、一つの言葉と出会いました。手にとった本の中にこういう言葉を見出したのです。
「あなたはあなた自身が思うよりも、もっと深く、大きく救われている」。こういう内容のことだったと思います。キリストの救いとはどんなものなのかをよく表していると思っています。弟子たちは、このとき、自分が主の羊であることが見えていなかった。わたしもこのとき、自分が主の羊でああることが見えていなかったのだと今にして思います。
今朝、私たちは主から語りかけられています。
「わたしはあなたの羊飼いだ。私はあなたを救う。そのために命を捨てる。十字架にかかって、そして復活する。私があなたを養い、育て、あなたを救う。永遠のみ国に入る、その日まであなたを導く」と。
羊飼いである主に感謝し、主のみ名をたたえましょう。