2021年01月17日「主よ、まさかわたしのことでは」
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主よ、まさかわたしのことでは
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- 説教
- 橋谷英徳 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 26章14節~25節
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聖書の言葉
そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
マタイによる福音書 26章14節~25節
メッセージ
イスカリオテのユダは、聖書に登場する人物の中で広く知られています。教会に来られたことがない方でも、ユダの名はどこかでお聞きになっておられるかもしれません。裏切り者というとユダの事を思い起こす人は多いでしょう。イスカリオテのユダ、あまり聞きたくはない、嫌な名前であるかもしれません。しかし、一方、この人のことはどこかで気になり続けているところがあるように思います。わたしは若い日に教会に通い始めて間もない頃に遠藤周作というキリスト者の作家が、ユダについて書かれていた事を読んで、とてもこころ惹かれたことを今でも覚えています。わたしが教会で信仰者として生きていくその時にこのユダの存在は、どうでもいい存在ではなく、大切な意味を持ったのです。
聖書は、はじめの教会の人たちは、このユダについて、一体、どのように考えていたのでしょう。彼の裏切りをどのように受け止めていたのでしょうか。ユダと私たちはどのように関わっているのでしょうか。今朝は、聖書からそのことについてご一緒に考えて見たいと思います。
マタイは、きょうの箇所のはじめにユダについて短い言葉で紹介をしています。一四節にはこうあります。「一二人の一人でイスカリオテのユダという者」。ユダは「一二人の一人」と呼ばれています。主イエスの一二弟子の一人、主イエスが多くの人たちの中から特別に選んで、ご自分の側において、主イエスと寝食を共にし、その教えを受けて、主イエスに従って来た者たちの一人。このユダが主イエスを裏切ったというのです。この「一二人の一人」という呼び方は、四七節にも出てきます。このようにユダが繰り返し呼ばれている事には意味があります。当然のことながら、はじめの教会の人々は、ユダの裏切りについて、ユダが主イエスを引き渡すことによって、捕らえられ十字架につけられた事を知っていました。ユダはとんでもない事をした。偽の弟子だった。だから、彼が一二人の中の一人であるとはもう認められない、一二人の中に数えることはしない、その存在そのものを抹殺してしまう、いないことにする、そういうこともできた。教会はそのようには決して、しなかった。ユダ「一二人」の中に数え続けたのです。どうしてでしょうか。そのことは、一七節以下に記されています最後の晩餐の席でのことを見ればわかってきます。
二〇節、二一節にはこうあります。
夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
主イエスは、一二人の弟子たちと一緒に食事の席に着いておられる。そして、その一二人に向かって、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われます。その一二人の一人がユダなのですが、主イエスはユダ一人に向かってではなく、一二人全員に対して語られたのです。「あなたがたのうちの一人」は彼らの中の誰でもありえたのです。それゆえに、それを聞いた弟子たちはみんな、非常にこころを痛めて(非常に悲しんでとも訳せる)、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めたのです。この時の主イエスの御言葉は、弟子たち全員にとって、他人事としてではなく、わがこととして響いたのです。「まさか、わたしのことでは」、これは否定の答えを期待して語られている言葉です。「主よ、まさか私のことではないですよね。そうではないとどうか言ってください」。そういう思いをみんなが抱いたのです。この時、ユダを指差して、「裏切るとすればそれはお前だ」と弟子たちは誰も言わなかったのです。つまり、ユダは弟子たちの中で、特に問題のある、悪い人であったわけではないのです。そうではなく、弟子たちはみんなそれぞれに、怪しいとすればこの自分ではないかと思っていた。そうかもしれない。「でもいや、まさかそんなことは」。彼らの心はそれぞれに騒いだのです。
では、私たちはどうでしょうか。私たちも、このユダのことを他人事にすることはできません。ユダを極悪人にして、自分には何の関係もない人にすることはできません。この一二人は、弟子たちの群れであり、教会を意味します。最初の教会の人たちは、このユダを一二人の一人として数え続け、自分もまたユダでありうる、主イエスを裏切りかねないような者であることを覚えてきたのです。ユダが「一二人の一人」と呼ばれているのは、ユダは、神の家族である教会の一員、ユダは私たちの兄弟の一人である。教会に生きている者は、ユダにはならないというのではない。教会に生きている者は、みんなユダでありうるということです。
このユダについて考える時に、裏切りを愛ということと重ねて考えてみる必要があるのではないでしょうか。裏切りというのはその前提に愛がないと成り立たないのです。愛ということがなければ裏切るということはないのです。キリストの愛があった。だからその愛を裏切るということが起こったのです。ですから、神の家族である教会に生きる私たちは神に愛され、キリストに愛されるがゆえにそれを裏切ることもまた起こるのです。
では、それならば、ユダはどうして、キリストを裏切ってしまったのでしょうか。そのことについては様々なことがこれまでも考えられてきました。きょうの聖書の箇所の最初には、ユダが、祭司長たちのところに行って、主イエスを銀貨三〇枚で引き渡したことが語られています。ですから、ユダは金銭に目が眩んだのだという人がいます。金銭欲というのはいつも人間に付き纏うものです。しかし、それにしても、銀貨三〇枚というのは、当時のお金では、3デナリオン、3万円くらいではないかと言われ、あまりに小額です。旧約聖書によると奴隷に損害を与えた時の補償の金額が銀貨三〇枚とされています。ですからこの銀貨三〇枚は象徴的な意味が込められていると考えられます。この箇所に記されている香油を主イエスに注いだ女は、300デナリオンの香油を注ぎかけたのです。それとの対比があるとも言われます。銀貨30枚は、ちょうど100分の1なのです。キリストの命を、ユダは僅かなお金と引き換えにしたのです。それは金銭目当てと言うよりもユダの痛烈な思いが込められているかもしれません。
伝統的には、ユダは、主イエスがダビデのような英雄と考えていた。ローマ帝国の支配からユダヤ人を解放し、イスラエルの国を再興してくれると期待していた。しかし、どうもそうではないことが次第にわかってきた。香油を注いだ女の件が決定的なことになった。そこで主イエスとたもとを分つことにしたと言う説があります。
ただ実際には聖書には発揮としたことは書かれていませんからわかりません。いずれにしても、ユダは、主イエスに不満を抱いたのです。期待したけれども、期待はずれだった。椎名麟三というキリスト者の小説家はユダは主イエスに対して「思い違いをしたのだ」と書いておられます。主イエスの教え、行動それが、自分の思い通りでなかった。思い違った。私たちは人に対してまた、自分の人生に対しても思い違う。例えば友人などにも、ある思いを持つ、こんな人だと思うわけです。でもそれはしばしば思い違ってしまっている。そのことがわかった時に、その人を見限ることが起こるというのです。同じことを神さまに対してもする。その時に起こっていることを椎名さんは、自分の思い違いを、絶対化するというのです。「ユダの悲劇は自分の思い違いを絶対的なものにしたという点にある」。それが裏切るということだというのです。椎名さんは、自分のことを重ねて、思い違ってばかりの自分のような者は、このユダと重なると言われるのです。
私たちの信仰の歩みにも確かに思い違いはあります。自分の思い描いていたことと違うことはたくさんあります。自分はこういうことを願い求めて、教会に来て、洗礼を受けて主イエスを信じた。しかし、実際に与えられたものはそれと違うということ、それは、誰もが経験することです。神さまが私たちに与えてくださる恵みは、私たちの思いを超えています。ですから、そこに思い違いはどうしても起こってくる。でもその時に、どうするかは別れ道になるのです。そこで従うか否かが問われるのです。その時、自分の思いとは違う、神様の、主イエスの導きに従い、ついていく時に、自分の思いをはるかに超えた恵みと出会うということが起こってくる。しかし、そこで自分の思い違いを絶対化してしまうと、その恵みと出会うことができなくなる。信仰者であり続けることが叶わなくなるのです。このように考えていくと、到底、ユダを自分とは関係のない人にしてしまうことはできません。それは弟子たちも同じでした。
では、主イエスは、このユダに対して、この時、どう接しておられるのでしょう。主イエスは、この時、過越の食事の席についておられます。これは神様の救い、罪の赦しを表す食事です。この食事の席で、今日に至るまで教会が大切に守り続けてきた聖餐の礼典をお定めになられます。この食事は、主イエスの地上での最後の食事であるとともに、最初の聖餐の食卓です。主イエスは、この食事の席に、主イエスはこの弟子たちを、このユダをも招かれ、その席に連なることをお許しになっています。主イエスがあえてそうなさっているのです。主イエスに対する裏切りの思いがある、そういう者を聖餐の食卓に預からせておられるのです。
「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」この御言葉に不安になっている弟子たちに、主はさらに、「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」と言われました。これは、同じ釜の飯を食べたものが親しい者の一人という意味の言葉です。誰かを特定させるための言葉ではなく、同じことを繰り返されているのです。そして続いて、こう言われました。「人の子は聖書に書いてあるとおりに、去っていく。だが、人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。
ここではまず第1に、主イエスが捕らえられm十字架につけられるっことも、ユダが裏切ることも、すべては神のご計画の中で起こることだ。一切のことは神のみ手の中にあることだ。神様のご意志、計画がただ実現していく。けれども、だからと言って、主イエスを裏切ることが罪にはならないということではない。そのことが第二のこととして語られています。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかた方が、その者のためによかった」。これは本当に厳しい言葉です。キリストを裏切る罪を犯すくらいなら、生まれて来なかった方がいい。私たちもしばしば、主イエスを裏切るような罪を犯すのです。その罪は決して軽いものではない。とても重い。深刻なのです。神様のお与えくださったひとり子をこれはいらない、思い違いだったと言って、捨ててしまう。殺してしまうことだからです。これは大変なことです。
しかし、第三のこと、もう一つのことがございます。主イエスは、もうこんな罪を犯したものは、死んでしまえ滅びろと言っておられるのではありません。「人の子を裏切るその人は不幸だ」。この「不幸だ」という言葉は、ここまでも一一章、一八章、二三章にも出てきました。これはウァーイと発音する言葉です。主イエスは裏切る者を呪われるのではないのです。その滅びの悲しみを追われるのです。「生まれなかった方が良かった」は死んでしまえということではなくて、神の与えてくださった恵み、救いであるイエス・キリストを一旦、は受け入れて従う者になったのに、どうしてそこから離れてしまうのか、と主は嘆かれるのです。痛烈な痛みの言葉なのです。主イエスは、私たちの罪を負って十字架にかかって死んでくださいました。この十字架のキリストがもう十字架に書かられる前に、こうして苦しんでおられる、もう十字架にかかっておられるのです。
ユダも、「主よ、まさかわたしのことでは」と言いました。すると、主イエスは「それはあなたの言ったことだ」と言われました。ここは翻訳の難しい言葉だと言われます。直訳すると「あなたは言う」と言う言葉です。よくわかりません。しかし、主イエスの思いは伝わってくるのではないでしょうか。主イエスは、最後まで、ユダよ、お前が裏切るとは名指しされえません。隠しておられます。それは、どう言うことでしょうか。主イエスは待っておられるのです。
主はユダにその眼差しを向けて語られます。
「あなたが私を裏切るのは、そうしないのか。それは私の言うことではない。あなたが言うことだ。あなたが自分で決めよ。そして、私は今でも、あなたを弟子の一人として、兄弟として招いている。ここにきなさい」。
今、私たちにも同じように語られます。