2020年12月27日「あなたの道を主に委ねて」

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あなたの道を主に委ねて

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
ヤコブの手紙 04章13節~17節

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聖書の言葉

よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。
© Japan Bible Society 日本聖書協会 1987, 1988
 
ヤコブの手紙 04章13節~17節

メッセージ

今朝のこの礼拝は、今年、二〇二〇年の最後の日曜日、主の日の礼拝です。このとき、クリスマスにあらわされた救いの恵み、一年の間の主の恵みに感謝します。また、同時に一年の間の犯した罪を悔い改めて、祈りをもって新しい年に備えます。

 先週、近くのお店に行きまして、来年の手帳をようやく買い求めました。毎年、同じ手帳を使っています。日曜始まりのカレンダー型の手帳です。当然のことながら、予定はまだ何も書かれていません。皆さんも同じように、手帳やカレンダーなどを既に買い求めておられるかもしれません。

 

 そのような時の中にあるわたしたちに今日の御言葉は語りかけます。

「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことはわからないのです」。

 確かにその通りです。わたしたちは先のこと、自分の命のことも、他の人の命のこともわからない。わたしたちはカレンダーに予定を書込みます。けれども、その通りになる保証はどこにもない。その予定の日を生きて迎えることができるかどうかわからない。

「『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち」。これはわたしたちのことです。

 ここで呼びかけられている人たちは、商売をしている人たち、貿易商の人たちです。当時、既に地中海を渡って、活発に商売がなされていたようです。食料や木材など、輸入したり、輸出したり、そういう事を行っていたわけです。綿密な計画を立てて商売を行うのです。ここに登場しているのは、有能な社会人です。仕事のできる人です。今日のうちに明日のために手を売っています。1年先の事まで、今日のうちに考えているのです。彼のことばは未来形です。「わたしはこれこれの町へ行くだろう。1年間そこに滞在するだろう。そこで商売をし

て、お金儲けをしよう」。

 わたしたちのことです。今日はこうしよう。明日はこうしよう。来年はきっとこうなる。計画を立てる、1年先のことまで手帳に予定を書き込んでいる。けれども、そこで忘れてしまっていることがある。  「あなたがには自分の命がどうなるか、明日のことはわからない」。

 この貿易商は相当に有能な人であったかもしれません。商売にトラブルはつきものです。船が嵐に遭って積み荷がすべて流されてしまうかもしれない。価格の変動が起こって、大損するかもしれない。何が起こるかわからない、明日のことはわからない。その事はわかっていた。そのようなリスクにもちゃんと備えていた。思いがけない損失が出る可能性がある。その時にはこうしよう。言い換えると保険をちゃんとかけていた。そうであったかもしれません。

 しかし、そのように、備えを持って生きていた。にもかかわらず、忘れていることがあったのです。それは「死」です。自分の生涯の先に、どこかに死という事が待っているという事です。「あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えていく霧に過ぎません」。人の命がはかなく、弱く、すぐに消えてしまうようなものである事を忘れている。つまり、いつの間にか、自分が主人になっている。時は自分の手の中にある。自分に頼って、自分が神になって生きてしまっている。神を忘れてしまっている。人生から神を追い出して生きてしまっている。そして、神なしには自分の命がどんなにはかなく、脆いものなのかという事を忘れている。そのように生きてはならない。「あなたがたは神のもとに帰えるように、神によって救われて生きるように」、ヤコブはそのように語ります。

「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、このことやあのことをしよう』と言うべきです」。

 ここに本来のわたしたちのあるべき生き方が示されています。でもこれは一体、どのような生き方なのでしょうか。

 「主の御心であれば」。この言葉は「ヤコブの条件」と呼ばれます。カール・バルトという神学者がおります。第1次世界大戦前から、一九六〇年代の後半まで活動した神学者です。色んな評価がなされていますが、二〇世紀を代表する神学者のひとりです。バルトは、長生きした人で八〇歳を超えて生きました。苦しい事もたくさん経験した人ですが、終わりまで信仰の歩美をし、生涯の終わりまで仕事を続けました。亡くなった時は、翌日の朝、奥さんが発見しました。書斎で机にうつ伏せになっていたのです。祈るような姿が死んでいたとも言えます。この人はたくさんの手紙を書いた人でもあります。本にもなっています。その手紙の一つに、今度、若い人たちと神学の勉強会をしようと思うと書きながら、こんな言葉を書いています。

 「主の御心であれば、生き永らえて」

 今度、近い将来このことをしたい、将来のこと、先の計画について語りつつ、同時に、私はこのことも覚えいる、「主の御心であれば、生き永らえて」。これは今日の聖書の御言葉です。ヤコブの条件です。この生き方は何を意味しているのでしょうか。「主の御心ならば、生き永らえて」、このように語りながら生きる、それは暗い事でしょうか。暗い生き方でしょうか。決してそうではありません。むしろ、ここには明るさがある。そのことに気づいていただきたい。先のことはわからない。わたしたちの命ははかない。でも、そこで暗くならない。そこでこそ積極的に今を生きることがここから生み出されていくのです。生き生きと仕事をする、働く道もここに生まれるのです。

 「主の御心であれば」。このことは、まず第一、わたしたちを錯覚、幻想から守ってくれます。死は、わたしたちが隠して見ようとしない現実ですが、この事はわたしたちを本当の現実に目覚めさせてくれます。同時に、「主の御心であれば」、この事は、わたしたちを恐れや不安から自由にしてくれます。将来への不安や恐れを癒す言葉です。わたしたちの来年、わたしたちの明日は、「主」と呼ばれる方の御手の中にあります。こんな確かなこと、こんな確かな恵みはありません。つまり、わたしたちの命、わたしたちの存在そのものは、主のものです。運命や偶然というものに委ねられているのではないのです。命が、運命や偶然の中に、あるいは単なる自然の中にだけあるとすれば、どうでしょうか。それは不安や恐れしかないでしょう。しかし、私の命は、運命や偶然の中にではなく「主」の御手の中にある、そうだとすれば、それは全くの安心を意味します。恐れや不安は消えます。

 聖書は語っています。この「主」という方がどんな方なのかという事を。聖書という一冊の書物は、この事を語っていると言ってもいいのです。「主」と呼ばれる神は、わたしたちにイエス・キリストをお贈りくださった方です。事実、クリスマスに、この方は、イエス・キリストをベツレヘムの飼い葉桶に生まれさせられました。

 このイエス・キリストこそ、人となられた神、主であります。「わが主よ、わが神よ」と呼ぶことができる方です。この方は、わたしたち一人一人を愛し、慈しんでくださいます。主イエス・キリスト、この方は、わたしたちの罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださった方であり、墓を破って復活してくださった方です。

 ある人がこんな事を語っておられたのを覚えています。 

「聖書が、『主の御心』という時に、わたしたちは救い、イエス・キリストの救いという事を考えねばならない。」

 聖書が御心という言葉を使っている時を調べるとそのほとんどは救いのことだというのです。わたしたちは案外簡単に、御心、主の御心という言葉を語ってしまいます。これは御心だとか、そうじゃないとか。でもこの言葉は重い言葉だ、主の救いということがある、そのことが見つめられねばならない、そう言われるのであります。ここでもそうであります。

 

 旧約聖書のみ言葉に聞きたいと思います。

「人生はため息のように消え失せます。…瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」。詩篇九〇篇九〜一〇節の御言葉です。

「彼らは朝の霧。すぐに消えうせる露のようだ」。預言者ホセアの言葉(一三章三節)です。朝の霧も、緑の葉についた露も陽がのぼると、いつの間にか消えてなくなっています。あなたがたもそれと同じだというのです。

 ここでヤコブも言います。「あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えていく霧にすぎません」(一四節)。

 そんなわたしたち。そんなわたしたちが消えてしまわず、生きるために、主イエス・キリストは、天から来てくださって、十字架にかかって死なれ、復活してくださったのです。罪の赦し、永遠の命を与えてくださいました。わたしたちのはかない命、それをこの方が救ってくださったのです。

 「主の御心であれば、生き永らえて」。今日の御言葉によって、わたしたちは自分が死ぬべきもの、自分の命のはかなさを覚えずにはおれません。しかし、それだけではありません。わたしたちの生涯に、わたしたちの命そのものには、神の愛と恵み、イエス・キリストの救いの御手が包んでいるということ、この事を見つめたいのです。

 

「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」と一七節にあります。結びの言葉です。しかし、この言葉は注解書などを読みますと前の箇所とのつながりがつかない言葉だと言われます。つまり、迷子の言葉だとされていますが、私はそうは思いません。

 主の御心がある、あなたへの主の御心がある、主があなたに期待されていることがある、あなたの仕事がある。それが、なすべき善ということです。あなたが愛を注ぐべき人がいる、福音を伝えてあげるべき人がいる、心を低くして仕えるべき人がいる、祈るべき人がいる。これが主の御心を行うことであり、なすべき善ということです。

 自分の夢、自分の計画、自分の事業、自分のもうけを成し遂げることだけに人生を用いる事はあまりにもったいないのです。人生は、やり直しがききません。時は戻ってこないのです。あなたにはもっと大きなことがある。神の国。神の働き。わたしたちの命、それを神さまは用いようとしていてくださいます。

 年の終わりにもう一度、思い巡らして、新しい年を迎えようではありませんか。

 「主の御心ならば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」。