2020年11月29日「目を覚ましていなさい」
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目を覚ましていなさい
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- 橋谷英徳 牧師
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マタイによる福音書 24章32節~52節
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聖書の言葉
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、 51彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
© Japan Bible Society 日本聖書協会 1987, 1988
マタイによる福音書 24章32節~52節
メッセージ
今日のこの日曜日からアドヴェントに入りました。クランツのキャンドルに一本の火が灯されました。四本のキャンドルに火が灯ったとき、クリスマスがやってきます。伝統的にこのアドヴェントの最初の日曜日に読むべき聖書の箇所の一つが今日のこの聖書の箇所とされます。今日の日曜日、世界中のあちこちの教会の礼拝でこの箇所が読まれ説教されています。私たちは、アドヴェントに合わせてこの箇所を読んだ訳ではありません。何年かの間かかって日曜日ごとにマタイによる福音書を読み続けて、今朝、この箇所に辿りついたのです。そのこと事態に主の恵み、導きを私は覚えていますし、同時に、この御言葉から慰めをいただいて、この朝を迎えています。
今朝は、非常に長いまとまった聖書の箇所をお読みしました。様々なことが語られているように思われますが、この箇所で語られていることはただ一つのことと言っても良いのです。それは「目を覚していなさい」ということです。主イエスは、まもなく数日の後には、十字架におかかりになられます。その十字架の数日前にお語りになったのが、今日のこの御言葉です。主イエスは、そこで「目を覚していなさい」という説教の言葉をお語りになった。
説教は、様々な言葉を語るもので、ある長さを持っているものです。ある難解さというものを持っていることがあります。しかし、説教はその語られていることが明快でなければならないと私は教わりました。例えば、今日、皆さんがこの後、家にお戻りになって、礼拝に出席できなかった家族から、「今日の礼拝の説教は、どんな話でしたか?」と聞かれましたとします。そのときに「えーなんでしたったけ?」と答えなくちゃいけない、ノートを開いて見なおさないといけない、そういう説教では困る。こういうお話しでしたとすぐに答えることができるような話でなければならない。お弁当を持って帰ってもらえるように語りなさい。こんなことを説教の教師から教わったことがございます。ああ、程遠いなあとこの点で自分のことを省みるととても申し訳のない思いがあります。この点から言うと、ここで主イエスの説教は、えーなんでしたっけということにはなってない、お弁当を持って帰ることができる説教です。「『目を覚していなさい』、主からあのとき、私たちはこの言葉をいただきました」、弟子たちはこう言えたでしょう。私は、今日、私たちも「この目を覚していなさい」という主のみ言葉のお弁当をもって帰りたい。今日から始まりますアドヴェントの歩みをする中で、繰り返しこの御言葉を想い起こしつつ支えられて歩みたいのであります。
しかし、「目を覚している」とは一体、どういうことでしょうか。言うまでもないことですが、このことは文字通りの意味、肉体的な意味ではなく、信仰において目を覚している、私たちの魂が目を覚していることです。そもそも、一体、私たちは今、目を覚しているでしょうか、眠りこけてしまっているでしょうか。
ここで目を覚しているとは、主を信じて、待っていることです。
中心となっている聖句は、四二節です。
「だから、目を覚していなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたにはわからないからだ」。
二四章の全体で何度も繰り返し語られているのは、主イエスが再び来てくださるということです。主イエスは、クリスマスにベツレヘムの馬小屋にお生まれになられました。そのようにして、主はこの地上に来てくださいました。この主は、救い主としてのお働きを始められここまで歩みをなさって来られました。数日後には十字架におかかりになられる。この主は、再び来てくださる、この地上に帰って来られる。それが終わりの日です。ここで主は、ご自身が、帰って来るのを待っているようにお語りになっておられます。
目を覚していること、それは待っていることです。私が高校生の時のことです。同級生の女の子とその日、お茶にいく約束をしていました。どうしたわけか待ち合わせたのは橋の上。約束の時間が来ましてもその子は現れないわけです。一二月のクリスマスの頃のことです。寒い日で、雪が降っていました。雪の日の橋の上での待ち合わせ、ありえません。今のように携帯電話がある訳ではないのでただ待つほかない。それでも三〇分以上、待ったと思います。そして、とうとう寒さに耐えられなくなって、それ以上待てなくなってとぼとぼ帰ってしまいました。あとどうなかったのか、よく覚えていませんが…。
待つということ、特に長い期間待つということは、私たちにとって骨の折れること、しばしば苦痛の伴うことです。基本的に、私たちは待つことは苦手です。現代人は、待つことを回避する様々な手段を考え出してきました。携帯電話、電子レンジ、新幹線、ジェット機など、待たなくて済むようにする便利な道具に囲まれて生きています。待つことは時代遅れのことであり、価値のないこと、避けるべきことです。しかし、信仰においては待つということは大切なことであり、価値のあることです。
それにしても、どうして、私たちは待つことを避けたがるのでしょうか。それは待つことは基本的に受け身であり、相手に主導権を委ねることです。私たちは自分が主導権をいつも持っていたい、自分が主権者でありたいのです。ですから主イエスはここで注意深くこう言われています。「あなたがたは、自分の主がいつの日、帰って来られるのかわからない」。待つとは、自分が主であることを止めることです。自分を明け渡して、主こそが私の主であることを認めることです。それが目を覚しているということです。また、目を覚していることが待つことであるということは、私たちが目覚めてあれこれしていることではないということでもあります。私たちは眠り込んでしまってはいけない、目覚めていないといけないと聞くと、何かを積極的に行動していなければならないと思います。しかし、待つことは、そうではありません。じっとしていることです。自分で何かをするよりも、相手の行動を待つ、やって来るのを待つということです。少年の頃の私が橋の上で待っていたのと同じです。あれこれするというのではなく、そこに立ち続けるのです。私たちが待つのは主イエス、このお方です。イエスは主である、それが私たちの信仰の中心です。主イエスが、主人であり、私たちはその僕です。ですから、四五節以下では忠実で賢い僕と悪い僕のことが語られています。忠実で賢い僕は、主人の留守の間、その家をしっかり守って、いつ帰って来られても良いように備えています。しかし、悪い僕は、主人の帰りは遅いと思い、好き勝手なことをしているのです。「目を覚している」とは、この忠実な賢い僕のように生きることです。つまり、それはイエスを主として生きる、主を信じる、つまり、単純素朴に信仰に生きることです。反対に悪い僕は、「主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする」とあります。つまり、自分が僕であることをもう止めているわけです。自分の主人を裏切って、自分が主人になってしまっている、自分が神になってしまうのです。そのことは言い帰ると、この家、この世界に対しての主人の支配を認めないということです。この家は主人のものであるということを否定することです。この世界と私たちの人生、命、およそ全てが、神の御手の中にあり、神さまが支配し、導いておられるのだということを認めないというkとです。そして、自分の人生、命は、自分のものだ、自分の好きなようにして何が悪いと言って生きていく、そういうことです。その結果は、悲惨でしかない。仲間を殴るようなことになる。
私たちが目を覚していること、主の再臨を待つということは、この神様がこの世界と人生を愛と恵みを持って導いていてくださるということを信じ続けることです。しかし、これはどうしても私たちの目に見えないことなので、隠されていることです。主人は見える仕方でおられないわけです。そこで、信じること、待つことということが求められるのです。
そのことと関連して、三二節以下で主イエスが語られていることが大切です。主イエスは、「いちじくの木から教えを学びなさい」と言われています。「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことがわかる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」。これらすべてのことというのはここまで二四章で語られてきた終末のしるしのことです。偽預言者、戦争、地震、飢饉、荒らす憎むべきものについて主イエスは語って来られました。怖いものリスト、悲惨なことリストですね。どうでしょうか、普通に考えればこのようなことを私たちが経験する時、私たちは恐れますし、神様の愛と恵みがわからなくなるわけです。神様の支配はどこにあるかということになる。しかし、逆だと言われる。こういう悲惨なことが起こる、それがこの世であり、そういうこの世を神様が支配しておられるのだよと言っておられるわけです。これらのことが起こるのを見ても、おそれるな 、むしろ、人の子は戸口にいる。私はすぐ近くにいる、そう言われるのです。待つということ、目を覚しているということはそういうことです。
三六節以下では、人の子が来る、つまり主イエスの再臨がノアの洪水の話と重ねて見つめられています。洪水が起こるその日まで、人々は食べたり飲んだり、めっとたり嫁いだりしていた。しかし、突然の洪水によってすべてが滅ぼされてしまった。ここでの食べたり、飲んだり〜というのは悪いことではないのです。人間の普通の日常生活で、責められるようなことではありません。四〇節の畑で働いている男性も、四一節の臼を引いている女も同じです。人間の一生の時間というのは本当に限られていますし、短いのです。コヘレトの言葉にあった「束の間」なのです。この束の間の時間、目の前にあることに追われて人間は、掛け替えのないものを見失うということがあるのです。主イエスの救いというものがあるのにその救いに背をむけて、無駄にするということがあるのです。主イエスは、戸口に立って叩いておられるのです。せっかくの機会、チャンスを台無しにしないようにということであります。与えられた一生を仕事だけに費やしたり、そういうことだってあるわけですね。ある牧師が、自分の母は一生、ずっと働きぱなしだった。そして亡くなった。貧しい家庭を支えて働いてくれた、自分を大切に育ててくれた。そのことに感謝している。けれども、母が亡くなって今、牧師として生きてこう思う、それで本当によかったかというと、そうではないと言わなければならない。そう言われていました。
身体は起きて働いていて目覚めていても魂においては死んでいることがあるのですね。私たちも他人事ではありません。
「目を覚していなさい」。
主の弟子たちは、この言葉を忘れませんでした。ずっと覚えていました。そしてその時にですね。この主の言葉とともに、おそらく思い起こしたであろうことは、自分たちが眠り込んでしまったということです。数日後、主がゲッセマネの園で私と一緒に目を覚して祈っていなさいと言われた時、彼らは眠り込んでしまっていました。そして主が捕らえられ、十字架に付けられた時、逃げ出してしまったのです。ああ自分は眠りこけていた。主の言葉に従って、目を覚していることができなかった、そのことを見つめずにはおれなかったでしょう。そういう私たちのために主は十字架にかかってくださったのです。
このことは絶えず緊張してピリピリして生きることのように思われるかもしれません。しかし、そうではないのです。全く反対です。自分の弱さ、罪深さを認めて主の前にぬかずき、こんな自分が赦され、愛されていることを感謝を持って信じることなのです。福音の恵みに生きることです。それが目を覚していることです。