2020年11月15日「世界のおわり」

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聖書の言葉

イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」マタイによる福音書 24章1節~14節

メッセージ

主の日ごとにマタイによる福音書から御言葉に聞き続け、今日から二四章に入ります。すでに一一月の半ばとなりました。この月のおわり、来来週からは、アドヴェントに入ります。アドヴェントは、クリスマスに備える時であると同時に、主イエス・キリストがもう一度来られる時、世界のおわりのときに備えるという意味を持っています。私たちはアドヴェントを迎えてクリスマスに向かってゆこうとしています。今日は、このあとクリスマスを迎える備えのためにも、教会の掃除をします。こうして、アドヴェント・クリスマスを迎える中で、このマタイによる福音書を読み進めていくことにわたしは主の導きを覚えます。この二四章からは、主イエスが、この世界の終わりの日について語られるところです。世界のおわりのとき、それは聖書においては、主イエスが再び来られる再臨の日です。滅亡や破滅の時ではなく神の救いが完成する救いの時です。その時のことが、ここからしばらくずっと二五章まで主イエスの口から語られていきます。このようなタイムリーな聖書のみ言葉に聞きながら、今年のアドヴェント、クリスマスを私たちは迎えていきます。「ああきっと今年のアドヴェントをこうして迎えることも備られているのだなあ」と思うのです。

 しかしながら、先ほど、共にお読みしました聖書の言葉は、皆さんの心にどのように響いたでしょうか。私たちの生活とはかけ離れた遠い言葉、暗くて、恐ろしいことが語られていると思われるかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。そもそもどうして、主イエスはこのような言葉をお語りになられたのでしょうか。主イエスの思いはどこにあるのでしょうか。

 最初の一、二節にはきっかけとなったことが語られています。舞台は、エルサレムの神殿です。主イエスは、この神殿から出てゆかれた。すると、弟子たちが、この神殿を「指さした」とあります。エルサレムの神殿、これはヘロデ大王が建てたものです。主イエスの時代にはまだ建築中であったようです。ものすごく壮麗、立派なものだったそうです。巨大な建物で大きな石が用いられ、彫刻が施され、美しいものでもあった。屋根は黄金だった。弟子たちは、ガリラヤの田舎からやってきて、この神殿の豪華さに感動していた。また何よりも、弟子たちが主イエスに神殿を指さしたのは、そのすぐ前、二三章三八節で主イエスが「お前たちの家は見捨てられ、荒れ果てる」と語られたことと関わっています。主イエスのこの言葉を弟子たちは聞いた。そして、ここで指差した。「この立派なエルサレムの神殿が荒れ果てる、壊れてしまう、そんなことが本当にあるのでしょうか。そんなことほんとはないでしょう。」、そういう意味で指差した。すると主イエスはお語りになられました。「これらすべてのものを見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されず他の石の上に残ることはない」。「これらすべてのものを見ないのか」これは、「あなたたちには見えていない」。「あなたたちは見るべき目を持っていない」そんな意味の言葉です。主イエスは、「あなたたち目は見えていないのだね」と言われた。この神殿はやがて崩れる、主の目、主の眼差しにはそのことが見えていた。

 紀元七〇年、この時から約三〇数年後に、この神殿は戦争によってその通り破壊されてしまいます。主イエスの予言通りになった。しかし、そういう意味だけではない。この地上で人間が作ったものはいつまでも続かない。必ずいつかは壊れてしまう、そのことを主イエスはご覧になっていた。いつか壊れるということを主イエスは見ていた。さらに弟子たちは、それからしばらく立って、オリーブ山で主イエスに言います。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。またあなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」。弟子たちは、この立派で壮大な神殿が破壊される、そんなことが来るなら、それは世のおわりの時に違いない。それはいつか、その時にはどんなしるしがあるのですかと、主イエスに率直に尋ねたわけです。

 そこで主イエスがお答えになったことが四節以下です。主イエスはここでこれから起こることを告げられます。偽メシアが現れて人々を惑わす、戦争が起こる。七節には、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震や飢饉が起こる」とあります。それだけでは終わらない。さらに、「あなたたちは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」、こんなことだって起こる。迫害です。そして、このようなことの中で「多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる」(一〇節)、つまずき、裏切り、憎み合いが起こる、人と人との関係が無茶苦茶になってしまう。ここでは、教会の外の社会からの迫害や憎しみだけではなく、教会の交わりのことが語られているのです。「偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(一一、一二節)。 「エルサレムの神殿が破壊されるどころじゃ済まない。もっともっと大変なことがあなたがたを襲うことになる」、主イエスはそのように言われたのです。私たちの住むこの世界、遠くにも近くにも、苦難が襲って来る、主イエスはそう言われるのです。

 どうでしょうか。多くの人たちが語っているのは、ここで主イエスがお語りになっている、世の終わりの有り様は、私たちと無関係ではない、私たちも経験していることであるということです。今も、国と国との敵対はありますい、飢饉や地震は方々に起こっています。教会が受ける迫害や憎しみもあります。また恥ずかしいことですが、教会の中にもつまずきが起こり、裏切り、憎しみということも起こることがあります。私たちが神様を信じて生きる時に、根底から揺さぶられる、試されるということが起こ流ということであります。

 ある説教者は、ここでの主イエスの言葉について「怖いものカタログだ」と呼んでいます。戦争、地震、飢饉、迫害、憎しみ、つまずき…。これでもかこれでもかと言う具合に、次から次に語られている。これは全部、私たちが怖がるものだ。それらがすべて挙げられている。そう言うのです。確かにその通りです。そして気づかされるのは、ある意味では、私たちから遠い、外側のこと、世界の出来事、自然界の災害のようなものから、だんだん、内側のことにうつってきている。そして、最後の言葉は、「愛が冷える」と言う言葉です。愛は炎のように燃えているわけです。でもこれが冷えてくる。これは厳しいことであります。

 主イエスは、このように語られて何をなされているのでしょうか。いたずらに怖がらせ、恐怖心を懐かせるために言われているのでしょうか。そんなことはありません。主イエスは、弟子たちを、私たちをしっかり立たせたいのです。立つべきところに立たせいのです。主イエスは、理想主義者ではありません。信仰を持ったら、良いことばかりありますよ。苦しみに会うことはなく、成功します。家内安全商売繁盛しますなんて語られません。厳しい現実を生きることになる。外にも内にも困難が起こる、とはっきりと語られます。

 しかし、主イエスは、そこで「大丈夫」と言われるのです。「大丈夫、支えられる、あなたがたは守られる、神様の愛、神様の恵みはそのような中でも決して失われない。怖いものにいっぱい囲まれながらも大丈夫、揺さぶられ倒されるようなことがたくさん起こる、でも大丈夫」、それが今日の聖書の箇所で、主イエスがお語りになっておられることです。

 今日の聖書の箇所で一番、中心となるのは、一三、一四節です。

 「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とあります。

 ここで主イエスが語られるのは、弟子たちが、私たちが忍耐することです。けれども、忍耐すると言うことはどう言うことでしょうか。

 先週、歩みをする中で、神学者で、東京神学大学の芳賀力先生が、このウィルス禍についての言葉を語っておられるのをたまたま目にしました。キリスト教系の新聞に記され、ビデオでも見ました。その先生は、この歴史の中で起こった、私たちを悩ませている出来事を、聖書のバビロン捕囚になぞらえておられました。現代のバビロン捕囚だと言われ、今、私たちに求められているのは、あの時と同じように「信仰の忍耐」であると語られていました。その通りだなあと思いました。けれども、この話を聴きながら、ある問いを抱きました。その通り、今、忍耐が必要、でもどう忍耐すればいいのか、忍耐すると言うのは、どう言うことなのか。そこが聞きたい。そう正直、思ったのです。朝、読んだのですが、ずっと気になるわけです。そんな問いを抱きながら1日を過ごしました。そして、この御言葉と向きあうことになりました。

 ここで主イエスも、耐え忍ぶことを、忍耐することを語っておられます。ここでの耐え忍ぶということは、〜の下にじっと止まる、外にでないという意味の言葉なのです。言ってみればステイホームです。でも主イエスのステイホームは違います。

 ある人がこう言っています。そうだ、ここはもしかしたら、この前に語られた二三章三七節のみ言葉のことではないか。「めん鳥がひなを羽の下に集めるように」。ああ、そうそうかと思うのです。ただ過ぎ去るのを扉を閉ざしてじっと待っている、忍耐しているというのとは違うのです。そこで神の愛に留まるのです。キリストの愛に留まるのです。大変なことはたくさんある。「どうして?神さまがおられるのにどうして?」というようなことがうちにも外にも起こる。それでも、いやそこでこそ神の愛に留まる。神の翼の下に行く。自分の愛の火が消えていきそうになる。いや消えて、くすぶってしまう。それでもこの神のもとに行く。そこで耐え忍ぶことができる。ここでも主イエスは手を広げておられる。神の愛の方が強いのです。キリストの愛はすごい。どんな嵐にも負けない。 「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる」。主イエスはここで福音を宣べ伝えよとは言われません。まるで、福音そのものが生きているかのように広げられる。 今、私たちも困難、苦難の中、心みの中にあります。今日の御言葉は、この私たちへの励ましであり、慰めであります。今日の御言葉の一番、根底には、インマヌエル、神我らと共にいますということがあります。