2020年10月18日「あなたを救うのは誰ですか」
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あなたを救うのは誰ですか
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- 橋谷英徳 牧師
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マタイによる福音書 22章41節~46節
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聖書の言葉
41ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。 42「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、 43イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
44『主は、わたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着きなさい、
わたしがあなたの敵を
あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
45このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」 46これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。
© Executive Committee of the Common Bible Translation 共同訳聖書実行委員会 1987,1988
© Japan Bible Society 日本聖書協会 1987, 1988マタイによる福音書 22章41節~46節
メッセージ
「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」。今日の聖書の箇所には主イエスからのこのような問いかけがなされています。「メシア」とは、ヘブライ語で「油注がれた者」という意味の言葉です。ギリシャ語では、キリスト、救い主のことです。
「あなたたちは、救い主のことをどう思うのか」。
あなたたちにとって救い主はどんな方なのか。だれが、一体どのような方があなたを救ってくれますか。あなたを救うのは誰?あなた自身ですか、それとも別の誰かですか。あなたを救うのはどんな方なのか?
私たちの人生の中で与えられる、これ以上にないほどに大切な問いかけ、いちばん大切な問いかけです。救い主、救いということ、それはいちばん大切なことだからです。しかし、私たちはなかなかこの問いを真剣に問題にしません。日々、自分の目の前のことに追われて生きてしまいます。このことを問わなくても日は何事もなかったかのように過ぎていきます。またこのことを問うことは気の進まないことなのかもしれません。パスカルというキリスト者の思想家は、パンセという本のなかでこんな内容のことを語っています。私たち人間は、皆、確かに死ぬ。これは一大事なのだ。でも霧でもかかったかのように、この死を問題を問うことをしない。あたかもそのことはないかの如くに生きていると。これは、この「あなたがたにとって救い主はなんのかと問いを避けることとも重なっているように思います。救い主は、罪、さらにその報酬である死から私たちを救ってくださる方です。人間は不思議なもので、このいちばん大切なことを問うことをしようとしないのです。
しかし、私たちは今朝、この日曜日、普段考えようとしない、もしかしたらどこかで避け、逃げてしまっている、この問いを聞くことに招かれています。それは今日だけではありません。教会、この教会の礼拝というのは、この問いを私たちが聞くためにあると言ってもよいのです。毎週、日曜日に私たちはこの問いを聞くためにここに集まっていると言ってもいい。ここで自分自身の身を問う側にではなく、問われている側に置くことに導かれます。そして、どう答えるのかということが迫られてくる。あえて私たちはそうするようにここに自ら身を置いているのです。
あなたがたの救い主は誰か?あなたがたの救い主はどんな方か。
さて、今日の箇所では主イエスご自身がこのように問うておられます。しかし、実はここしばらくの間は、そうではありませんでした。ここしばらくは逆に主イエスご自身が問われ続けていました。いろんな問いが集中砲火の如く主イエスに浴びせられました。マタイは二二章に入りまして、一五節以下ではまず税金を皇帝に納めることは良いことか、二三節以下は地上で結婚を何度もした女は天国では一体、だれと生活したらいいのか、よみがえりはあるのか。そして、三四節以下では律法でいちばん大切な戒めは何なのか。主イエスは、そこで愛に生きる以外に道はない、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛するように私たちは召されているのではないかと逆に問い返されました。そすいう様々な問いかけが主イエスに対してなされてきて、ここに至るのです。その最後、締め括り、行き着いたところが、この問いです。あなたがたの救い主はだれか、あなたを救うのは誰か、それはどんな方なのか?
この問いですけれども、これとよく似た問いが、このマタイによる福音書にはすでに語られていました。マタイによる福音書の一六章一三節以下です。フィリポ・カイザリアで、この時は弟子たちに主イエスは問うておられます。人々は、私のことをなんと言っているのか、まずこう問われて、続いて、「あなたがたはわたしを何者だというのか。その時、ペトロは答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。ペトロの信仰告白の箇所です。よく似ています。
この問いは確かによく似ています。けれども、全く同じではない、違うところがある。いちばん、大きなことだけ言いますと弟子たちには「あなたがたはわたしのことを何者だというのか」と問われていますがここでは「あなたがたはメシアについてどう思うか。だれの子だろうか」とより一般的な仕方で問われてます。問いに対する答えも違います。ファリサイ派の人たちは「だれの子なのか」という問いに「神の子」ではなく「ダビデの子」と答えています。
そして、ここではこの後、この「ダビデの子」という答えを受けて、主イエスがお語りになっておられます。どうお答えになられたのでしょうか。「では、どうしてダビデは霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主はわたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」。
ここで主イエスは、ダビデの子について語られていることはお分かりになると思います。ここで主イエスが、ダビデの子であることを否定されているように思えます。しかし、ここには翻訳の問題があります。「どうしてメシアがダビデの子なのか」。メシアは、ダビデの子であるはずがない。この翻訳ですとそう読めます。しかし、この言葉は「どのような意味で、メシアはダビデの子なのか」と翻訳することができます。英語で言いますとWhatではなくHowです。どのようにして、ダビデの子なのか。ダビデの子ということが否定されない読み方もできるのです。
メシアは、ダビデの子。この答えは間違っていない、全く正しい。しかし、主イエスは、ではメシアは、どのような意味でダビデの子なのかと問われるのです。ダビデの子というのはダビデの子孫という意味です。
人びとはダビデの子孫からメシア、救い主が誕生すると信じ待ち望んでいました。それは旧約聖書、サムエル記下七章で神が預言者ナタンを通してなされた契約、約束に基づきます。「主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座を固く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」(11節〜14節)ここから人びとは、ダビデの子孫としての救い主を待ち望むようになったのです。そしてマタイによる福音書は、そのいちばん最初、一章一節にも、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と記され、主イエスがダビデの家系からお生まれになったことが語ります。またルカによる福音書でもクリスマスの夜に羊飼たちに「きょう、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」とあります。マタイによる福音書ではきょうの箇所のすぐ前の二一章九節でも、エルサレムにお入りになった時に、人々は「ダビデの子にホサナ」と賛美して主イエスを迎え入れています。メシアがダビデの子であるということは正しい。けれども、問題がありました。
それはどういう意味でダビデの子なのかということです。ユダヤの人びとがダビデの子という時に、あるイメージがありました。この時代ユダヤはローマ帝国に占領されて苦しみの中にあったのです。税金も厳しかったですし、信仰の面での圧迫もありました。言ってみれば試練、悩みの時代の中にありました。そして、そういう中でのダビデの子としての救い主を待ち望んだわけです。そこには非常に強い武力政治力によってユダヤをローマの支配から解放してくれる救い主、英雄としての救い主を期待したのです。岐阜で言うと織田信長、「麒麟が来る」ですね。戦国時代には戦乱の世を終わらせる英雄を、人びとが望んだわけです。それと似ているかもしれません。
しかし、主イエスは、それが本当にダビデの子の姿か。聖書はダビデの子から救いが来ると語る。それはその通り、でもダビデの子というのはあなたがたが思い描いて期待している、そういう存在なのか。そうではないだろう。それはダビデ自身が言っている、そう言われて旧約聖書の詩篇一一〇編の言葉を引用されるのです。「主はわたしの主に」。主というのは主なる神さまです。その主なる神様が、わたしの主つまりメシアである主にと言っている。つまり、メシアは、ダビデを超える方なのだ。ダビデ自身が、自分のような者によっては救いは本当には与えられないということを知っていた。この自分の枠を超える者ではないことを知っていたのです。メシアはあなたたちが思い描いているような英雄ではない。それをはるかに超えるようなお方なのだ。どうして、自分の思いにしがみつくのだ。自分の思い、自分の願望、自分の枠の中に救い主を閉じ込めてしまうのか。
私たちにとってもこのことは他人事ではありません。私たちもすぐに自分の枠を作ります。自分の願望にしがみつきます。救いというものはこういうものだと決めてかかってしまいます。私たちは日々多くの悩みを抱えて生きています。解決したい問題があります。おかねのことであったり、人間関係であったり、家族のこと、病のことであったりします。そこで救い、救い主を求めます。こういうものだ、あるいはこうでなければならないと自分勝手に思い描く。そして、少しでも思い通りにならないと腹を立てる、そういうことがあるのではないでしょうか。
実際、ファリサイ派の人たちをはじめとしたユダヤの人々は、主イエスが自分たちの気に入った救い主、ダビデの子ではないことがわかった時に、主イエスを捨てた、いや外に放り出して殺したのです。
主イエスは、王宮にではなく馬小屋の飼い葉桶にお生まれになりました。そして、お働きを始められた時、罪人や徴税人たちと共に生活をされました。エルサレムにも王の乗り物の馬ではなく驢馬の子に乗られました。武器を取らず、一度も誰も傷つけられません。そして、十字架にかかって死なれました。しかし、この方、主イエスこそ、本当のダビデの子でありました。ある人がこう言いました。この方は「人びとが想像している、高いところに立っている王ではなくて、人びとの思いに勝って、低いところまでくだることができる主である。そして、人びとの思いに勝って高く、神の右にまで、立ち得る主であった」と。この言葉は、見事にきょうの聖書の箇所で主イエスが語っていることを言い表しているように思います。
低さと高さが、違うのです。私たちの願い、願望、枠はどれくらいでしょうか。それをはるかに超えているのです。それが救い主です。十字架に至るまで低く降られ、復活し、天に上り、神の右にお着きになるまで高く昇られたのです。この高低差がすごい!こんな救い主は他にはいない。この方こそ、主イエス・キリスト、この方以外にない、私たちはこう言い表す他ありません。
大江健三郎さんの書かれた「新年の挨拶」という本があります。その最初に、「チャンピオン の定義」というエッセイがあります。彼は、ある日、英英辞典を呼んでいて、「チャンピオン」という新しい定義を見つけます。一般的に思いつく「勝利者」という意味は、三番目で、一番は、「だれかの代わりに闘う人、大切なことを他人の代わりに成し遂げる人」と定義されていたというのです。亡くなられたお兄さんとの関係を語られたながら、このエッセイを語られています。お兄さんはがんの闘病中に友人から、「来世のこと、魂の救いについて、どう思うか」と問われたそうです。その時、こう答えられたそうです。「東京に送り出した弟が代わりにやってくれる。来世のことを。魂の救いのことを。それは弟に聴いて欲しい。彼が、わたしのチャンピオンだから」。
私たちの信仰について考えさせられます。イエスがダビデの子、救い主であるとはどういうことかを示しています。私たちキリスト者は、自分がチャンピオンになるのではなく、イエス・キリストを、主、救い主とし、自分のチャンピオンとすることです。
「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」。私たちはこのように問われています。どのようなダビデの子なのか。私たちの罪のために低く下り、十字架にかかって死なれ、復活され、天に昇られ、神の右に着かれた方、私たちのチャンピオン、この方がここにおられます。私たちは、きょう、この問いを聴いて、このようにお答えしたいのです。お祈りをいたします