2026年03月15日「十字架のイエスに従う」

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十字架のイエスに従う

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マルコによる福音書 8章31節~38節

聖書の言葉

31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」マルコによる福音書 8章31節~38節

メッセージ

フィリポ・カイサリアというところで、弟子たちを代表して、ペトロが「あなたこそメシアです」とイエスさまに対して信仰の告白をしました。ペトロの信仰告白と言われます。

 これは人類はじめの告白で、教会の信仰の土台となったものです。それ自身画期的なことです。そして、このような告白をペトロがしたわけですが、この告白はイエスさまの導きによって与えられたものであることをマルコ福音書は強調しています。

 いずれにしても、イエスさまと弟子達の旅が、このところである決定的な地点に到達したのです。

確かにこれはまだ通過点です。ここからさらにマルコによる福音書は、イエスさまがメシアであることはどういうことなのか、どう意味でメシアなのかということを語っていくわけです。しかしながら、このことがとても大切なこと、決定的なことであることは確かです。

 しかし、ここには同時に、とても不思議なことがあるのです。ペトロは、イエスさまのことを「あなたこそメシアです」と告白しました。ではイエスさまは、それで良かった良かったと喜ばれたのでしょうか。「ペトロよ、あなたはよくぞ言った」と言われたと言ってペトロを祝福されたのでしょうか。さあ、私のことを言い広めなさい。

 そうではありません。全くそうではありません。

「あなたはメシアです」、その言葉を聞くや否や、イエスさまは、「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」(30)とあります。この「戒められた」と訳されています言葉は「叱った」と訳すこともできる言葉です。非常に強い言葉です。イエスさまは、ここで弟子達を叱られたというのです。やっとここまで来たね、良かった、良かったと普通には言われるべきところだと思うのです。少なくとも、私はそう思います。でもイエスさまは、喜んではおられない。とても厳しくお叱りになる。これは一体、どういうことなのかと思います。

 2週間前に、このペトロの信仰告白の箇所の説教をしました。説教を終えた後、二人くらいの方から質問を受けました。「これはどういうことですか」と。次回、話すことになると思いますとお答えました。

 そして、不思議なことは、それだけではありません。この戒める、叱るという同じ言葉が、今日、お読みしました箇所に繰り返し出てくるのです。

 まず最初は、32節です。イエスさまがこれからのこと、ご自分の十字架の死と復活のことをついて、はじめて話し始められました。しかも、そのことをはっきりと語られた。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」とあります。

 「いさめ始めた」と訳されています言葉は、先ほどの戒める、叱るという言葉です。「いさめる」という翻訳はやはり弱く、「叱った」という言葉です。今度は、ペトロがイエスさまを叱ったのです。

 そして、33節にはこうあります。

 「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた『サタン、引き下がれ、。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。

 ここにはこのように三度、「叱った」という言葉が出てくるのです。イエスさまが弟子たちを叱った。次にペトロが、イエスさまをわきにお連れして、叱った。そしたら、今度は、イエスさまがペトロを叱られた。それがここで起こっていることです。

 こんなことが語られている聖書の箇所は他にはありません。ここだけです。一体、どういうことなのでしょうか。

 

 まず言いうることは、尋常ならざることがここに起こっているということを、このことは示していると言えるように思います。

 道を歩いて途中に「頭上注意」というような標識が立っていることがありますが、それと同じようです。ものすごく注意を払わなければならないことがここにあるということではないでしょうか。

 

 もう一つは、弟子達が、このことを繰り返し問うことになったでしょう。

 実は、弟子達がイエスさまから、「叱られた」ということが語られていることが、マルコによる福音書には他に見当たらないのです。イエスさまは、悪霊を叱る、風を叱る、波を叱ることはあっても、弟子たちを叱ることはない。ここでだけ、弟子たち叱られる。

 しかも、もう一度言いますが、「あなたはメシアです」と信仰の告白したところで叱られた。間違った告白をして叱られるのならわかります。でも正しい信仰の告白をした、後の教会の信仰の土台となる告白となる告白をした、そこで叱られたのです。

 「あなたこそ、メシアです」

 「そのことは誰にも絶対に言うな」。

 弟子達は、呆然としたのではないでしょうか。」「えっ!どうしてですか!なぜ話してはならないのでしょうか」。

 どうして、こんなに厳しく叱られないといけないのか。

 この時の、弟子達にはわからなかったのではないでしょうか。ただ言い得ることは、記憶に残った、心に深くこのときことが刻み込まれたでしょう。弟子達は、この後の歩みの中で繰り返し、問うたのではないでしょうか。これは、一体どういうことかと。なぜ、あの時、あのときだけ、イエスさまはあんなにもも厳しく、叱られたのか。

 厳しく叱られた経験があるでしょうか。私は、子供時代、よく叱られました。親から叱られ、学校の先生から叱られ、神学生の時にも、先生から本気で叱られたことがあります。

 叱られた記憶というのは、強く残ります。弟子達にもこの時の記憶は残ったでしょう。

 信仰の問題は、なんでも、すぐに解決が与えられるものではないでしょう。生涯、その意味を問い続けなければならないというところが信仰にはあるのです。相手は、神さまなのです。イエスさまなのです。そのすべてを私たちが、理解できるわけではありません。どうしても、わからないことがあります。わからせていただくということが必要なのです。神秘の前で立ち尽くすということが起こるのです。まさに、今日の箇所は、そういう場面なのではないでしょうか。

 そのことを踏まえた上で見つめたいことがあります。もう一度、言いますが始まりは、ペトロの信仰の告白でした。「あなたこそメシアです」。そういう正しい告白をしたところで、イエスさまから激しく叱られたのです。人間が深いところに抱えている闇がここで現れたということです。神から叱られなければならないことが、ここに明らかにされたということです。

 「メシア」とはキリスト、救い主ということです。「救い」とは、一体、何でしょうか。神が私たちを救ってくださるのですが、何から救ってくださるのでしょうか。なぜ、救われなければならないのでしょうか。

 ここにはペトロがイエスさまを叱ったということが語られています。イエスさまが、これからの歩みについて語られたのです。31節です。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け」とあります。「人の子」とは、メシアであるイエスさまのことです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け」、「多くの苦しみを受け」とは、「長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺される」ということでしょう。ただ殺されるのではあありません。」排斥されて」、無用で役立たずとして捨てられる、邪魔なものだと判断されるということです。それで、「三日の後に復活する」、このことは全く、わからなかったでしょう。

 そのようにイエスさまが語られると、ペトロが

イエスさまをわきへ連れ出して叱ったというのです。どんな言葉を語ったのか、記されていないのでわかりません。「そんなことが絶対にあってはなりません!取り消してください」と強く言ったのでしょう。

 すると、イエスさまが、ペトロをサタンと呼ばれました。「退け、サタン、あなたは神のことを思わず人間のことを思っている」。

 弟子であるペトロが、イエスさまを叱る、こんなことは異常なことです。本来、ありえないことです。でもそういうことが起こった。イエスさま

はそのペトロをサタンと呼ばれた。これもまたはじめてのことです。聖書は、人間そのものをサタンとは呼びませんが、ここは違います。サタンに囚われていると言われたのではない、あなたはサタンだと言われたのです。

 それにしても、なぜ、どうして、ペトロはイエスさまを叱ったのでしょうか。ペトロは、イエスさまの死を聞いて、大事なイエスさまのことを想ってのことだったと説明する人が多くいます。けれども、私はそうは想いません。

 この時、ペトロが気遣っていたのは、イエスさまのことではありません。自分のことです。自分の救い、自分の願い、自分の幸せ...ペトロの心が向いていたのは、ただただ自分のこと以外ではありません。

 イエスさまがここで明らかにされ始めた、メシアの歩み、それはペトロが思い描いていた救いというもの、メシアと異なっていたのです。

 だから、ペトロは、イエスさまを叱った。「主よ、それは違います。あなたはメシアなのだからそんなことを言ってはなりません。十字架とか復活とかわけわからないことを言わないでください」。

 それに対して、イエスさまは言われたのです。「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。

 メシア、この言葉には、長い間のユダヤ人の歴史が関わっています。ユダヤ人は長い間、メシアを待ち望んできたのです。旧約聖書は、メシア待望の書物だと言ってもいい。メシアが現れたら、再び、ユダヤの国に栄光を取り戻してくださる。苦難の歩みから解放してくださる。恥を注いでくれる。メシアが来られたら、ローマ帝国の支配に悩まされることはなくなる。

 ペトロだけではなく他の弟子達もみんな多少の違いはあっても、それぞれにこれがメシアだと似たり寄ったりのイメージというものがあったのです。ところが、イエスさまは、それに合致しないことを語られ始めた。だから、ペトロがこんなことをしたのです。「先生、それは違います。それはメシアの歩む道ではありません」。

 これは他人事ではありません。なぜなら、私たちも、神さまがくださる救いを求めてここにいます。そのとき、私たちはやはり、自分の思いをもってイエスさまに近づく、あなたはメシアですと言いながら、近づくことがいくらだってあるのです。私や家族の幸せということであったり、病気から救いであったり、人間関係であったり、豊かさであったりするわけです。これが自分にとっての救いというものが頑としてあってそれを求めて生きているということがいくらでもあるのです。

 そして、そんな私たちにとって、聖書の語る救い、イエスさまの救いというのはとても異質なものではないでしょうか。十字架と復活、一体、ここに救いがあるのか、これが救いということはどういうことか、そんな思いをどこかに抱えるのです。平たく言うと、イエスさまの救いは、人間にものすごくわかりにくいのです。いや、この救いというのは、イエスさまの言葉を用いれば「神のこと」です。神のことだから、わからないのです。

 だから、こういうことが起こるのです。それに対して、イエスさまは非常に厳しく、ここで救い主として、言葉を発せられているのです。

 「サタン、引き下がれ」。

 イエスさまがここで引き下がれと言われていることが重要です。こう言われるのは、ペトロが、イエスさまの前に立っているからです。言ってみれば、ここでペトロは、十字架に進まれるイエスさまの道に、ちょっとまったと言って立ち塞がるのです。そのペトロに激しく、イエスさまは、下がれ、後ろにと言われるのです。

 ここに人間の本質が出てきているのです。つまり、自分が神のようになる、自分を神とするのです。だからサタンなのかもしれません。

 でもそんな人間に対して、イエスさまは立ち向かわれるのです。そして、私の後ろに回って、従いなさいと招かれるのです。

 叱って、叱られ、また叱る、こんなことの中に、私たちは、イエスさまの苦労を思います。人間を救うということは、本当に大変なことだったのです。神さまだから、それは簡単ということはないのです。本当に大変なところを通って人間を救われたということではないでしょうか。

 先日、ある哲学者が人間は昔から何も変わっていない。技術が進歩してAIができたり、色んなものが発明されたりしてきたけれども、そして、これからも、未来も、色々変化があるだろうけれども、結局、人間は本質的な部分では変わらないのではないかと思っていると言われていました。聖書を読む私たちにはそのことがよくわかるのです。その変わらない人間の姿が今日の箇所に、ペトロを通して現されています。

 それは神に救われなければ、どうにもならない、人間の問題です。言い換えると罪の問題です。その罪のことが解決しないとそこに救いはないのです。だからイエスさまは十字架と復活の道を進まれます。

 ペトロも弟子達も、そのことがわからないのですが、イエスさまは、見捨てられないのです。31節には、こうあります。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。

 この時から教え始められた。つまり、この時だけではないのです。イエスさまはこの救いが、わからない弟子達にイエスさまはここから語られ始めるのです。それは私たちも同じです。