2020年09月27日「じつは、あなたも神のもの」
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じつは、あなたも神のもの
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- 橋谷英徳 牧師
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マタイによる福音書 22章15節~22節
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聖書の言葉
それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。マタイによる福音書 22章15節~22節
メッセージ
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。
今朝は、非常に有名な、広く知られています聖書の言葉をお読みしました。
主イエスのお語りになったお言葉です。以前の翻訳、口語訳聖書では、 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と訳されておりました。 どこかで聞いたことがあると思われている方もきっと多いでしょう。
しかし、この主の言葉の本当の意味についてお分かりになるでしょうか。主イエスがこの言葉で一体、何をおっしゃりたいのか。「皇帝のもの」とは一体、どういうことなのか。また「神のものは神に返しなさい」と、主イエスがここで言われているわけですが、具体的には一体、何を返せば良いのでしょうか。一体、主イエスは何をここでお語りになっているのか、何を求めておられるのか、そのように問いに答えるのは、容易ではないことのように思います。
冒頭から、不安にさせるようなことを言ってしまったかもしれません。でも、揺さぶられたり、不安になることは悪いことではありません。有名なみんながよく知っているような、ちょうど今日の聖書の箇所のような言葉から御言葉に聞くことは案外難しいように思います。その一つの理由は、何度も聞いてきて、もう知っている、わかっていると思ってしまう、思いこんでしまう。しかし、神様の言葉、主イエスの言葉というのは、そういう思いに囚われてしまう時に聞けなくなります。そもそも神様の言葉、主イエスの言葉なのです。わかったなんてとても言えません。祈りをもって尋ね求めることなしに聞けません。じつは、今日の御言葉は、ずっと昔からどういうことばなのか、先ほどの問い、皇帝のものとは何だろう、神のものとはなんだろう、一体、ここで主イエスは何を言われているのだろうと、多くの人たちが尋ねてきた、問うてきたのです。教会の歴史の中で、多くの人たちが繰り返して、今日まで問い続けてきたような、そういう言葉なのです。今日は、この御言葉から、私たちもこのような問いを持ちつつ、「主よ、どうかお語りください」と、祈りつつ、私たちへの主の御心をご一緒に尋ねたいと思います。
まず最初にマタイによる福音全体の文脈に目を向けたいと思います。今、読んでいますところは、主イエスの地上の生涯の最後に、エルサレムに来られた、そこで起こったことを語っているところです。二一章のはじめには、主イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城され、さらに神殿の境内にお入りになって、商売をしている人々を追い出すようなことをされました。当然のことながら、神殿を取り仕切っていました祭司長や長老たち、ファリサイ派の人たちは、そのことに激しく憤りましたし、その主イエスが民衆に人気があることを快く思いません。なんとかして、主イエスを失墜させ、亡き者にしようと思いはじめます。主イエスとユダヤ教の指導者たちの対立がどんどん深まっていきました。そうしたなかで主イエスは三つのたとえ話を語られました。二人の息子のたとえ、ぶどう園と農夫のたとえ、結婚式のたとえです。この三つのたとえ話には共通した主題があります。それは、それは神様の招きに答えず、遣わされた僕、または子を受け入れることなく殺してしまう人々の姿が語られていることです。主イエスはこれらのたとえ話で主イエスを亡き者にしようとするユダヤ教の指導者たちの姿を浮き彫りにされたのです。彼ら自身、二一章四五節にあるように、主イエスがたとえ話で語られているのが自分たちのことだと気づいたのです。今日の箇所では、今度は、ファリサイ派の人たちをはじめとする、ユダヤ教の指導者たちが、主イエスに反撃してくるのです。彼らは、正攻法ではダメなので、一五節にあるように「イエスの言葉じりをとらえて、罠にかけよう」とするのです。そして、それは今日の箇所の後にもなお続きます。彼らは、この後なお二つのしつもんを投げかけています。つまり、主イエスの三つのたとえに対して、今度は三つの問いをして反撃しているのです。
今日の箇所で、主イエスに対して問われているのは、ローマの税に関してです。当時、ユダヤは、ローマ帝国に占領されていました。ローマ帝国はユダヤ人たちから非常に厳しく税を取り立てました。当然のことながら、そのために庶民の生活は苦しくなりました。0それだけではありません。そこには信仰の問題も起こりました。税を納めるのに用いられた通貨には、ローマ皇帝の肖像が描かれ、そこには「皇帝は神の子」という言葉が刻まれていました。そのような通貨を用いて、税をローマに収めることは、聖書に従って唯一の神を信じるユダヤ人たちには耐えがたいことでした。そこで税を納めるのが良いかどうかという議論が起こりました。意見は別れました。大きく分けると三つに別れました。一つは税を納めることを断固拒否すべしとする立場です。そういう立場の代表が熱心党という人たちです。もう一つは、税を納めることはよくない。間違っている。律法にかなっていない。しかし、致し方ないとする立場です。それがファリサイ派の人たちです。三つ目は、ローマに税を納めることを積極的に推し進める体制側の人たちです。この立場に立ったのがヘロデ派やサドカイ派の人たちです。この税金の問題は、ユダヤの社会ではタイムリーな問題だったわけです。その税の問題で主イエスを罠にかけようと企んだのです。そこでファリサイ派の人たちは弟子たちを遣わして、ヘロデ派の人たちにも声をかけ、一緒に主イエスのところに行かせましたファリサイ派とヘロデ派は本来、仲が悪かった、敵対していたのです。税の問題でも意見は違った。しかし、主イエスを亡き者にするということで利害が一致したのです。いい加減なものですが、巧妙です。彼らは一緒に主イエスのところに言ってこう問いかけます。「皇帝に税金を納めることは律法に適っているでしょうか」。「律法に適っていない」と言えば、ちょうどサドカイ派の人たちも一緒なので、反逆罪として主イエスを訴えることができます。「律法に適っている」と言えば、民衆の心が離れる。どちらに答えても主イエスを窮地に追い詰めることができる。そう考えた。しかし、おそらく彼らは、主イエスは、「ローマに税を払うことは律法にかなわない」と答えると踏んでいたのです。また、この問いの前には、心にもないお世辞を主イエスに語ってもいます。「先生、わたしたちは、あなたが真実なかたで、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています」。
「人々を分け隔てしない」と訳されている言葉は、「人間の顔を見ない」と訳すことができる言葉です。人の顔色を見ないということです。人の顔色を見て、自分の意見や態度を変える、そういうことをあなたはなさらない方です。全くのお世辞ですが、実はこう言って答えを誘導しているのです。
何気ない箇所ですが、私たち人間というものの嫌らしさ、醜さを思います。ああ、醜いなあと思います。ある人は、ここには人間の罪が描かれていると言います。でもこの罪というのは、人間同士でこういうことをするということではないのです。サドカイ派、ヘロデ派は敵同士だったのですが、手を組んで、主イエスを亡き者に使用としている。普段は、違う立場、違う生き方をしていた人たちが、一緒になっている。そこでこう言います。「人間の共通の敵は神であり、その神が遣わされたひとり子イエス・キリスト」。こう言うのです。神こそ、この世界の主人、支配者であること、を認めようとしない。ちょうどぶどう園と農夫の譬えにあったように、ぶどう園が自分のものにしようとする、王からの祝宴に招かれても、応じようとしない、罪の姿が語られていましたが、それと同じだ。人間の罪というものは、神を敵とすること。神と敵対すること。私たち人間は、この罪を共通してもっているのです。人間同士が争ったり、敵対関係になったりするわけですけれども、人間の共通の敵、本当の敵は神様なのです。
このような罠に対して主イエスはどうされたのでしょうか。
主イエスは、彼らを「偽善者」と呼ばれます。ヒュポクリテースという言葉で元々の言葉では役者です(一五・七参照)。この言葉は、単なる偽善ではなく、神様から離れて生きているものを意味します。そう言われて、主イエスはデナリオン銀貨をもって来させます。そこには皇帝の肖像と銘が刻まれていました。そこで、この有名な言葉をお語りになられたのです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。
主イエスは、このように言われて彼らの罠にハマられなかった。それはその通りです。ではこのお言葉は、ただ罠にはまらないための考え抜かれた言葉だったのかというとそうではありません。主イエスは人の顔を見て、言葉を語られたりしない方なのです。いつも真理を語られた。主イエスは、「皇帝のものは皇帝に」と言われて、ローマに税金を納めることを認められた。しかし、同時に「神のものは神に」と言われて、神さまのご支配とそれに仕えることを求められたのです。
この主イエスの言葉は、歴史のなかで誤解されて、いやしばしば悪用されてきました。例えば、こういう風に読まれました。この主の言葉はこの世には二つの領域があるということだ。一つは皇帝の領域、政治の領域。もう一つは神の領域、信仰の領域。この二つを区別しなさいということだというように考える人たちがいたのです。例えば、支配者たちは、教会、宗教者が政治のことに口を挟むな。「皇帝のものは皇帝に」とイエスが言っているではないか。政治は政治、宗教は宗教、そういうことだ。だから私に従え。歴史の中で、そうやって支配者たちは自分に都合の良いように、この言葉を用いてきました。例えばヒトラーもそうです。またキリスト者の中にも、この言葉から政治、はこの世のこと、信仰、宗教は心の問題というようにわけて、この世界に起こっていることには関心を払おうとしない、そういうことが起こってきました。例えば、改革派教会で声明などが出されることがあります。それは神社参拝のことだったり、天皇崇拝のことだったり憲法の問題だったりするわけですがそうしますと、教会はこういうことをすべきではないという話になるのです。政教分離の原則に反すると、でも政教分離というのはそういう話ではないのです。政治的な権力に介入しないということです。何も言ってはならないということではありません。
主イエスもそんなことをここでお語りになっておられるのはありません。主イエスは政治と宗教を二つに分けておられるのではありません。二つの主イエスが、ここで一番にお伝えになりたいこと、それは「神のものは神に返しなさい」ということです。
そのことは、ずっと繰り返していますように、ここまでの文脈がそうなのです。神のものを神に返さない、私たち人間の話なのです。聖書の詩篇九五篇にはこんな御言葉があります。
「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。御前に進み、感謝をささげ 楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。 主は大いなる神 すべての神を超えて大いなる王。深い地の底も御手の内にあり山々の頂も主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。わたしたちを造られた方主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう」。
この世界は全て神様のものだと語られているのです。ここには神さまの手が届かない、ここは関係ないという場所はない。全ては主のものなのだというのです。これは聖書には、一貫した神の支配の信仰があるのです。また全ての人間は神のものなのです。
またもう一つ、この聖書の箇所と合わせて読まれてきたのが創世記一章二六、二七節です。神さまが天地創造なさった時に、その最後に人間をお造りになられた。その時、「我々に型取り、我々に似せて、人を造ろう」と言われたのです。つまり、私たちは人間は皆、神のかたちが刻まれているおです。私たちには神の肖像が刻まれています。つまり、私たち人間は全て「神のもの」なのです。皇帝の肖像をきざまれた硬貨が、当時の世界に流通し、皇帝の支配がなされていたように、否それにまさって、神様の似姿を刻まれた私たち人間がこの世界に住むことによって、神様はがご自身の支配を告げ知らせておられるのです。つまり、この世界も、わたしたち人間も神のものなのです。この「神のもの」は神に返せと言われるのです。自分とこの世界の一切をご自分のものとしておられる神の権威を認めて、それに従いなさい。つまり、主イエスはここでもまた、招いておられるのです。
神様に敵対する偽善者であることをやめなさいと。そんな生き方をおやめなさいと。神様と敵対して、なんでも自分のものにしようとして生きる生き方というのは、本当に苦しいものです。そこでは人間らしさがないのです。人間は罪によって神から離れて、この人間らしさを失ってしまったのです。それは非常に不自然であり、本当におかしい生き方なのです。それは醜く、いびつです。そういう生き方をやめて、神のもとに立ち帰ることができるように主イエスは来られたのです。そして、そのために十字架にかかってくださった。その主イエスがここでも神のもとに立ち帰るように、神のものを神に返すように。まず、あなた自身を神に明け渡すようにと、語っておられるのです。それは献金するとか奉仕するとかそういうことではなく、神を礼拝しなさいということです。そして、神様によって生かされ、神の愛のもとに生きるものとなりなさいということです。
そして、このことがわかるとき、「皇帝のものは皇帝に」もわかるのです。主イエスは私たちの生活の中に「皇帝のもの」「皇帝に返すべきもの」があることも認めておられます。それは、この世の権力や国家の存在であり、税金や市民としての義務です。人間の社会の中にはこうしたものもどうしても必要なのです。ただそれが法に従って、正当に行使されることが必要です。このことがわかった時に、私たちは政治やこの世界に起こることにも関心を持って、祈ってゆかねばならないこともわかってくるのではないでしょうか。複雑な現代社会ではそのことは、なかなか簡単には答えがでないことも多いのですが、そういう中でも神のご支配を信じて、私たちは祈りながら生きていきます。何よりも、今ここに生きる、私たちへの愛がこの主の言葉に込められていることを聞き取りたいのです。お祈りいたします。