2020年09月20日「この服を着なさい」

問い合わせ

日本キリスト改革派 関キリスト教会のホームページへ戻る

音声ファイル

聖書の言葉

イエスは、また、たとえを用いて語られた。
「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」マタイによる福音書 22章1節~14節

メッセージ

今日お読みしました聖書の箇所には主イエスのお語りになられましたたとえ話が語られています。

 このたとえ話は三つの場面からなっております。第一の場面は、王が王子のために婚宴を催し、僕たちを遣わして、予め招いておいた人たちを呼ばせるのですが次々に断られてしまう場面です。第二の場面は、王が今度は、宴席を満席にするために手当たり次第、町の人たちを呼び集める場面。第三の場面は、王が宴席に入って来て、礼服を着ていないひとりの人を見出す場面です。このように、主イエスは、三つの場面を語られて、まるで一つの演劇のように、ここでたとえを語っておられます。そこで今日は、この場面の展開に注意を払いながら今朝は、この御言葉に聞きたいと思います。

 このたとえ話しの語り出しではこう語られています。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」。天の国とは、信仰、神の救いのことです。主イエスは、神の救いを、このような言葉で語られます。この箇所の前にはぶどう園を用いられていましたが、ここでは結婚の宴席、パーティーにたとえられます。そのことによってよりはっきりすることがございます。それは、信仰は喜びであるということです。信仰を持って生きるとは喜ばしい結婚の披露宴、パーティーに招かれて、ご馳走に預かることなのです。私たちの信仰生活には、確かに義務や責任というような部分もあるわけです。けれども、一つ貫いていること、一番大切なことは喜びなのです。神さまは私たちと共に喜びを分かち合いたいのです。そのためにこの救いに招かれているのです。

 もう一つ、この最初の主イエスのことばから明らかになることがございます。この宴席は、「王子のための」ものだということです。王子は、神の子である主イエス・キリストです。ぶどう園の場合、収穫の秋は、毎年巡って来ることで、今年ダメならまた次の年ということが可能になります。しかし、王子の婚宴は、より決定的なこと、1度限りのことです。ですから、神の招きも、より熱のこもったものとして語られています。そして、遣わされる家来は、ぶどう園のたとえでは、旧約聖書の預言者たちでしたが、今回は、洗礼者ヨハネや主イエスの弟子たち、教会の伝道者のことです。預言者よりもはるかに切迫した招きの使者なのです。

 最初の場面では王は、次々と家来を送り出して婚宴に人々を招いています。ここでは「招いておいた人々」と語られています。ユダヤ人ユダヤ人のことです。彼らは神さまのことを最初に伝えられていた人たちでした。最初の家来は、王は招待を伝えましたが招かれた人々はその招きに応じません。「来ようとしなかった」とあります。そこで王は、ほかの家来を送りました。王は家来たちに「こう云って招け」と言われ、招きのことばも伝えます。それはこんなことばです。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」。この招きのことばはとても大切です。神様の救いとは何かを伝えていることばだからです。救い、それは神様が備えられたもの、神様のみわざに基づきます。人間はただその神様の招きに答えて、出かけるだけなのです。私たち人間が自らの救いのために何かをしなければならないとかそういうことはないのです。父なる神様、子なるキリスト、聖霊なる神様が私たちを救ってくださる、すべて神さまが準備して、実現してくださる、それが聖書の語っている神の救いです。

 神様が計画をなさり、準備をして、私たちの救いを成し遂げて、「全ての準備ができましたから来てください」と招かれる。それが救いです。しかし、主イエスはこのたとえで、この救いの招きに答えようとしない人間の姿を語られています。みんな次々と断ってしまうのです。「人々はそれを無視した」とあります。またある人は畑に、ひとりは商売に行ってしまったというのです。一度限りの王子の婚宴よりも、自分のことを優先します。王子の婚宴はまたの機会のないことです。それに対して畑に行くのも商売をするのはいつでもできることで有るにもかかわらず、そちらの方に行ってしまうのです。このようにして、選択を間違ってしまうこと、何が大事なのかということを見分けることのできない、愚かしい姿は私たちの姿でもあります。さらに、またある人たちは、王の家来を殺してしまった。そして王はこういう人々の姿に堪忍袋の緒が切れて、この町に軍隊を送って滅ぼしてしまったというのです。それで第一の場面が終わります。

 

 王はこれで婚宴を辞めてしまったのではありません。この王は、家来たちに今度は、とおりに出て行って「見かけたものは誰でも連れて来なさい」と命じます。家来たちはその通りにし、その結果、婚宴の席は客でいっぱいになったのです。ここでまず、伝わってくるのは王の激しいばかりの熱意であります。なんとしても婚宴を開き、なんとしても人々と喜びを分かち合いたい。あきらめないばかりか、より強い仕方で、人々を招きます。急を要する、急ぎの招きがなされています。

 この招きは、「町の大通りに出て行って」通行人を招くものです。今度は、国籍や人種は問いません。ユダヤ人だけを招くのではありません。ユダヤ人でもギリシャ人でも、異邦人でも、どんな人であろうと招きます。すべての人を招きます。

 さらに、この招きは、「善人も悪人もみんな」招くものです。主イエスはすでに、二一章三一節で、「徴税人や娼婦たちはあなたたちより先に神の国に入る」と言われていました。徴税人や娼婦というのは当時の悪人の代表です。こういう人たちも決して、招きから除外されません。ところで、皆さんは、自分が善人だと思いますか、それとも悪人だと思いますか。手をあげてもらいたい衝動に駆られますがやめておきます。ここで聖書が語っているのは、新約の時代、今の私たちへの主イエス・キリストの救いへの招きというものが一体どういうものなのかということです。非常に広い招きがなされているのです。ですから、この今のこの時は、「私は日本人だから」とか「うちは仏教だから」とか「私はとんでもない悪人だから」とか。あるいは、「私は生まれつき善人で救いなんて要らない」とか、そういうことは成り立たないのです。この救いへの招きを辞退しなければならない人とかは一人もいないのです。主イエスは、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ二八・一九)と言われ、また「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい」(マタイ一一・二八)と招かれています。私たちはみんなこの通りを歩いているもので、招かれています。誰もがその人生の中で、通り過ぎないで足を止めて、方向転換をしてこの招きに答えねばならなりません。

 さらに、このたとえ話にはさらにもう一つの場面が語られています。一一節以下です。王が宴席の中に客を見ようとして入って来るのです。すると婚礼の客の中にただ一人、礼服を着ていない者がいたのです。その者は、結局、この宴席から追い出されてしまったというのです。これはどういうことでしょうか。見かけたものは誰でも、善人も悪人も、集められていたのです。この祝宴に預かるのに、何の資格も、相応しさも求められないというものだったのです。一体どういうことでしょうか。そもそも、皆、町の大通りから連れて来られたのです。婚礼の礼服など着ているはずもないのです。

 このことについては、古代の世界では、こういう王様の宴会のための礼服は、宮殿から支給されていた。ほかの人は皆、この王様がくださった礼服を着たのだけれども、このひとりの人はどうも自覚的に反抗して着なかったのだと言うのです。なるほどとも思うのですが、しかし、どうもしっくり来ないように思うのです。むしろ、聖書に書かれていないことをあれこれと想像するよりも、大切なことがあるように思います。

 大切なことは、誰でもいいからこの宴席に集められた人々が皆、礼服を身につけていた中で、この人ただ一人、それを身に着けて田舎tx歌ということです。つまり、この人も、この礼服を身に着けようとすればできたのです。しかし、それを身に着けることのないまま、宴席に着いた。そのことが、王に咎められて、彼は追い出されたのです。このことは神の祝宴、救いに預かるのに、何の資格も相応しさも要らないが、しかし、そこには、私たちの側にも最低限、求められるべきものがあるということを示しています。それは何でしょうか。「礼服を身につけること」です。それはこの祝宴を催してくださり、そこに招いてくださった神さまを敬う、感謝し、喜ぶということです。全く相応しくない、目的もなく、ただ通りを歩いていた者を神様は招いてくださったのです。わたしは、とんでもない歩みをして来た悪人だったかもしれません。わたしは善人と言う人もあるかもしれません。しかし、これこそ問題でして、神様などわたしには要らない、救いなど必要ないというふうに生きやすいものです。でもそんな人間を神様が招いてくださった。招かれるのに相応しくないわたしを神様が招いてくださった。その光栄に感謝し、そのことを喜ぶこと、そのように神様を敬うことを神様はただただ求めておられるのです。神ご自身を喜ぶこと、感謝すること、敬うこと、そのことこそ「礼服」です。

 それは招かれるにふさわしい何か立派なことをすることではありません。むしろ神様からの招きを感謝し、それを喜び受けることです、

 このたとえの話の最初の場面に登場する人にかけていたのもそのことでした。彼らは、王の招きがどれだけ値高いものなのか分からなくいのです。招いてくださった王に感謝することも、喜ぶこともなかった。仕事、日常生活の方に価値を認めてしまったのです。礼服を身につけていなかった人も同じです。礼服は、神様が無条件で、ただで、すべて備え、すべて必要なことをして、全くの恵みとして、相応しくないものにそれを与えてくださったことを、覚え、そのことを、喜び感謝し、神を敬うことです。この礼服をあなたは身に着けていますかと今日主イエスは私たちに問われています。

 最初の場面で招かれていた人々は、神様の祝宴に連なることができませんでした。この招きが、どれほど光栄なものなのかが分からなかったのです。この人たちは「ふさわしくなかった」と八節で語られています。神様の招きを感謝し受けようとしない人は相応しくないのです。それで神様はふさわしい人を探し、招かれました。それが大通りを歩いていた人で、善人も悪人もいた種々雑多な人たちです。彼らは自分が王子の祝宴に招かれるなどと言うことは思いもよらなかった人たちです。しかし、神様から見れば彼らこそふさわしい人たちでした。なぜなら彼らこそ、神様から招かれたことを、驚きと感謝と喜びをもって受け止めるからです。そして、その招きを大事にするからです。だから、この人たちはふさわしい。しかし、この招きへの驚き、感謝、喜びを失うなら、礼服を着ていない人になってしまうのです。つまり。自分は招かれて当然と思ってしまってしまったり、ああこんな招きは内包が良いと思ってしまうようになると言うことです。そうなることが起こりうるわけです。

 「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と言うことばで主イエスはこのたとえ話を締めくくっておられます。これは私たち、教会で洗礼を受けている人たち、礼拝に集っているわたしたちへの警告のことばです。教会に招かれて礼拝の場にいると言うことがそれだけでそのまま神の国の祝宴にあずかっている、救いに預かっていることを意味しないのです。礼服が必要です。それはお金を払って買えるものではなく、良い行いを積み上げて得ることができるものではありません。神様がくださるものです。聖霊を求めて祈ることです。礼服をくださいと、祈りながら、感謝と喜びを絶えず新しく与えられて歩み続けたいのです。