音声ファイル 再生できない方はこちらをクリック 聖書の言葉 12それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 13イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。マルコによる福音書 1章12節~13節 メッセージ 私たちの教会では、日曜日の朝毎に、マルコによる福音書をはじめから読み始めています。今朝は1章12、13節をお読みしました。ここには主イエスは荒れ野で40日の間、サタンから誘惑をお受けになったことが語られています。荒れ野の誘惑と呼ばれるところです。お気づきになっておられる方もあると思いますが、マタイやルカの福音書と比べて、このマルコによる福音書の記事はたいへん簡潔です。マタイやルカにはもっと詳しく、イエスさまが受けられた誘惑について、とても具体的に記されています。「神の子なら石をパンに変えろ」、「神殿の頂から飛び降りてみろ」とか、どんな誘惑を受けられたのかが丁寧に語られています。マルコによる福音書はそういうことは何も語られません。えっとびっくりするくらい、短く簡潔です。 でも簡潔、短いということは、それが大切ではないということを意味しません。 私が洗礼を受ける少し前、教会の礼拝に集い始めたときに、一人の先輩がこんなことを言われました。「マルコによる福音書がいい。簡潔なのがいい。この福音書をよく読んだらいい」と。あまりにもしみじみ言われたものですから、今でも記憶に残っています。 言葉というのは不思議なものであり、とても大切なものです。短い言葉が短い言葉であるがゆえに、心に届くことがあります。書かれたものでも、小説のような言葉もありますが、短歌や俳句のように練られた短い言葉の中に奥深い思いが込められている言葉もあります。 「痩蛙負けるな一茶ここにあり」。たった一句の言葉になんとも言えない奥行きがあります。 不謹慎で安直かもしれませんが、短歌や俳句に似ているところがあると私は思っています。いずれにしても、聖書の言葉は、言葉の奥にあるものをしっかり見つめて、よく味わうことが必要な気がします。そうではないと生きる糧にはならないのです。聖書は、命のパンなのです。 私が説教することを教わった教師がおります。その先生はすでに召されましたけれども、ずいぶん厳しい方でした。何度も説教の批評を受けました。しばしば非常に厳しい批評を受けました。ある時はもうだめだ、説教するのを止めなければならないと思うほど、打ちのめされたことがあります。しかし、与えられた大切な経験でした。その先生が、よく言われたのは、聖書の言葉が立ち上がってくるということです。聖書のことばは、平面ではなく、立体的な言葉。じっーと、とどまっていると言葉が立ち上がってくる。そこまで御言葉に聞いていく…。語られているのは、呑気なことではない、いのちのかかったこと。人を本当の意味で活かすことば、いのちのことば。それが神の言葉、聖書。聖書を読むことがどういうことかということをよく知っておられました。 今日、この短い一句のことばに語られていることも、ああそういうこともあったのですねというような呑気なことではありません。私たちの生死がかかることがここに語られています。そういうことばとして、このことばをともに味わいたい、聞きたいのであります。 「それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した」とはじめにあります。「それから」と訳されていることばは「直ちに」とか「すぐに」と訳すことができることばです。直前に記されていることとつなげることばです。 イエスさまがヨハネから洗礼をお受けになった。その時、イエスさまは天が裂けて、ご自分に聖霊が降るのをご覧になり、また天からの声をお聞きになられた。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」。イエスさまはこういう経験をなさった。それから、直ちに、すぐにということです。何が起こったのか。聖霊が、イエスを「荒れ野に送り出した」。送り出したということばは、ギリシャ語では、「外に投げる」「ほうりなげる」という激しい言葉なのです。激しい運動が起こっています。天が裂け、天から言葉があり、洗礼が授けられ、直ちに、今度は荒れ野に放り出される。垂直から水平に向かう運動。まず上から下に垂直に。今度は、平和から荒れ野に…。放りだしたのは、聖霊です。神ご自身である聖霊が、イエスさまを荒れ野に放り出された、追いやられた。「あなたはわたしの子、わたしの心にかなう者 」。その言葉が語りかけられてすぐになのです。 イエス・キリストは神の子。天を裂いて、この地上にきてくださった神です。その方が、荒れ野に追いやられた。しかも、その荒れ野に、40日間とどまられ、サタンから誘惑を受けられた。 そうなのですか、そんなこともあったんですね、というようなことではありません。ありえない、異常なことです。この異常さをわかっていただけるでありましょうか。どのようにして語ったら良いでしょうか。 ここで誘惑するのはサタンです。サタンとは悪魔のことです。悪魔は誘惑するのが仕事です。誘惑とは神さまから引き離すことです。さしあたって、サタンは、ここでイエスさまが私たちの救いの御業をなさること、私たちの罪を背負い、赦しのための御業を行われることを阻止しようと行く手を阻もうとするのです。なんとかして止めさせたいのです。ただ、ここで途方にくれるのはイエスさまを荒れ野に放り出されたのが、聖霊だということです。神ご自身だと語られていることです。神ご自身は、人を誘惑されたりはなさいません。そのことはヤコブの手紙でも語られています。たしかに、ここでも神さまは誘惑されるわけではありません。主体ではありません。誘惑するのはあくまでもサタン。しかし、神さまはご存知だったでしょう。荒れ野に追いやられれば、そこに何が待っているかということを。ご存じの上でそこにイエスさまを追いやられたのです。 そこにはサタンが待ち構えていました。荒れ野は誘惑の場所です。イスラエルの民は、モーセに導かれて、エジプトを出てから、荒れ野を旅しました。その荒れ野で彼らは、サタンの餌食になりました。神に不平をつぶやき、神に背を向けて逆らうに至りました。その結果、最初の世代の人たちは約束の地に入ることはできませんでした。入ったのは次の世代の人たちだけです。 さらにきょうの箇所には「野獣もいた」とあります。ライオンか、クマか、狼か…それとも、もっと得体の知れない何か、なのかは全くわかりません。ただ危害を加える存在ということだけは確かです。全く安全ではない、危険な状態に置かれた。 40日間というのは文字通りというよりは、とても長い期間ということです。荒れ野の40日です。少し横道にそれまずが、今、私たちは教会の暦で受難節、レントの時の中にあります。レントとは40日間という意味があります。イースターまでの6回の日曜日を除いて、40日間が受難節なのです。どうしてなのかというと、それはイエスさまが荒れ野で40日の間、誘惑をお受けになられたことに因んでなのです。そういう中で、受難節の中で、私たちはこのみ言葉を聞くサワイにあずかっています。 いずれにしてもそのことをお許しになる。神さまの許可があった、というか、神がイエスさまをそういうところに追いやられた、放り込まれたと語られるのです。 ツィンクという神学者はその書物で、「神の闇 」ということに触れています。私なりの言葉で言うとこういうことです。神は光、まことの光、神は愛そのとおり。しかし、同時に、神には闇がある。神の闇に私たちはぶつかることがある。なぜ、どうしてと問わなければならないこと、私たちにはあずかりしれないところをお持ちなのだと。私は長いあいだ、自分が抱えてきた問いにある答えをいただいたように思ったのです。そして、その神が闇であるという例の一つとして、この聖書の言葉が挙げられていました。 今日の箇所を読んでいるうちにここでおこっていることはもしかすると、こういうことではないかと思うことがあります。小さな子どもは、時に残酷なことをするものです。幼い頃、後ろから思いきり突き飛ばされたことがありませんか。背後に注意を向けていないわけです。無防備です。そこで思いっきり後ろから突き飛ばされたらたまりません。前にふっとびます。この時、イエスさまに起こったこともそういうことではないかと思えてならないのです。後ろから荒れ野に突き飛ばされた、神さまによって。そこで悪魔の誘惑を受け、野獣の中に置かれた…。 イエスさまは、かたちだけではない、本当に、苦しまれた。危険の中に置かれた。不意打ちのように、そういう場所にいきなり放り込まれた。神によって。神さまを呪うこともできたでしょう。なぜどうして、激しく揺さぶられたに違いない。 ブリンディジのローレンティウスというスペインのカトリックの神学者は、ここでイエスさまは、「右の手をしっかり縛られて、左の手だけで戦うことを強いられている。右の手は神性、左手は人性ということです。人間として、あくまでも、人間として…です。イエスさまは神です。なんでもおできになる。しかし、その力を使われない。人間として、この期間を過ごされた。 これがここで起こっていることです。そして、このことはここだけではない。この先に起こることでもありました。この時の誘惑はこれで終わったわけではありません。この先もずっと続くのです。マルコによる福音書は、イエスさまがサタンの誘惑にあって、それに勝利されたというようには語っていません。そういう話ではないのです。ここにイエスさまというお方がどういう方なのかということが凝縮して、アイコンのように、描き出されているのです。イエスさまの地上のご生涯がここに描き出されているのです。イエス・キリストとはこういう方だ!と語られている。神の力を用いない。人として、この地上の荒れ野を生きられるのです。 このように荒れ野で誘惑を受け、野獣と一緒におられたイエスさまに、「天使たちが仕えていた」ということが語られています。神に仕える天使たちが、イエスさまを応援していたわけです。なんとも不思議なことで矛盾することですが、今日の箇所にはわけのわからないことが語られていますが、よく見ると、イエスさまのこと苦しみは、包まれているのです。神が荒れ野に追いやられたことではじまり、天使たちが仕えていたで閉じられているのです。説明のしようのないことがここにはおこっているわけです。 そして、マルコが言いたいことがさらにここに見えてくるのです。マルコ福音書は、実はこのようにイエスさまのこと、イエスさまがどういう方なのかを語りながら、私たちのことを語っているのです。私たちも、このイエス・キリストに結ばれて、神の子なのです。私たちも、私たちの場合はただキリストによって、キリストを通してですが、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と神さまから語りかけられるものです。しかし、その私たちもまた、神さまによって荒れ野に生きるのです。そこは安全な場所ではないのです。危険がある。誘惑がある。野獣がいる。 実際、そうではありませんか、私たちは何かしら身の危険を感じながらこの地上を生きています。悲惨なことがある、残酷なことがある。争いがあります。病があり死がある。私たちの人生も、この世界も荒れ野ではないでしょうか。 先ほども触れました、ツィンクは、今から数十年前に「美しい大地ー破壊される自然と創造の秩序ー」という本でこんな言葉を語っています。 「地球上では、人間や動植物の生活空間が、かつて例を見ないほど危険にさらされている。このような状態がこのまま進んではならないことは、誰にもわかっている。それなのに、今日に至るまで事情はちっとも変わらない…。そればかりではなく多数の人々を相手に仕事をしている人は、今日、この世界の荒廃状態が人間の内部にまで暗い影を投げかけているという印象をぬぐいきれずにいる。世界が荒廃すれば、人間も共に荒れすさむのである」。 この聖書の荒れ野は、どこか遠い場所にあるのではありません。今、ここにある。私たちの内部にもある。誘惑がある、危険がある。神から引き離されそうになる。でもそこにキリストがきてくださった。 きょうの箇所と合わせて読むべき、聖書の言葉があります。ヘブライ人への手紙4章15節のみ言葉です。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」*405。 このキリストが、私たちのことをわかっていてくださるのです。 この時、イエスさまは、苦しみの深い意味で、守られていました。だから、今日の箇所の最初は神ではじまり、天使で終わっています。神がサタンに誘惑の許可をされたことは、驚愕することであります。でも一方で神のみ手の中にある出来事だったのです。神と天使に守られて、主は荒れ野で生きておられるのです。マルコによる福音書は、それはあなたたちも同じだと言いたいのです。キリストと結ばれて、神の子とされているあなたたちも神の守りの中に置かれている。いや、ある人はそれだけじゃないと言いました。「イエスも我々を守る」と。 ああ、そんなことがあったのかというお話ではありません。生きるか死ぬかのことがここに語られています。感謝しつつ祈ります。
私たちの教会では、日曜日の朝毎に、マルコによる福音書をはじめから読み始めています。今朝は1章12、13節をお読みしました。ここには主イエスは荒れ野で40日の間、サタンから誘惑をお受けになったことが語られています。荒れ野の誘惑と呼ばれるところです。お気づきになっておられる方もあると思いますが、マタイやルカの福音書と比べて、このマルコによる福音書の記事はたいへん簡潔です。マタイやルカにはもっと詳しく、イエスさまが受けられた誘惑について、とても具体的に記されています。「神の子なら石をパンに変えろ」、「神殿の頂から飛び降りてみろ」とか、どんな誘惑を受けられたのかが丁寧に語られています。マルコによる福音書はそういうことは何も語られません。えっとびっくりするくらい、短く簡潔です。
でも簡潔、短いということは、それが大切ではないということを意味しません。
私が洗礼を受ける少し前、教会の礼拝に集い始めたときに、一人の先輩がこんなことを言われました。「マルコによる福音書がいい。簡潔なのがいい。この福音書をよく読んだらいい」と。あまりにもしみじみ言われたものですから、今でも記憶に残っています。
言葉というのは不思議なものであり、とても大切なものです。短い言葉が短い言葉であるがゆえに、心に届くことがあります。書かれたものでも、小説のような言葉もありますが、短歌や俳句のように練られた短い言葉の中に奥深い思いが込められている言葉もあります。
「痩蛙負けるな一茶ここにあり」。たった一句の言葉になんとも言えない奥行きがあります。
不謹慎で安直かもしれませんが、短歌や俳句に似ているところがあると私は思っています。いずれにしても、聖書の言葉は、言葉の奥にあるものをしっかり見つめて、よく味わうことが必要な気がします。そうではないと生きる糧にはならないのです。聖書は、命のパンなのです。
私が説教することを教わった教師がおります。その先生はすでに召されましたけれども、ずいぶん厳しい方でした。何度も説教の批評を受けました。しばしば非常に厳しい批評を受けました。ある時はもうだめだ、説教するのを止めなければならないと思うほど、打ちのめされたことがあります。しかし、与えられた大切な経験でした。その先生が、よく言われたのは、聖書の言葉が立ち上がってくるということです。聖書のことばは、平面ではなく、立体的な言葉。じっーと、とどまっていると言葉が立ち上がってくる。そこまで御言葉に聞いていく…。語られているのは、呑気なことではない、いのちのかかったこと。人を本当の意味で活かすことば、いのちのことば。それが神の言葉、聖書。聖書を読むことがどういうことかということをよく知っておられました。
今日、この短い一句のことばに語られていることも、ああそういうこともあったのですねというような呑気なことではありません。私たちの生死がかかることがここに語られています。そういうことばとして、このことばをともに味わいたい、聞きたいのであります。
「それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した」とはじめにあります。「それから」と訳されていることばは「直ちに」とか「すぐに」と訳すことができることばです。直前に記されていることとつなげることばです。
イエスさまがヨハネから洗礼をお受けになった。その時、イエスさまは天が裂けて、ご自分に聖霊が降るのをご覧になり、また天からの声をお聞きになられた。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」。イエスさまはこういう経験をなさった。それから、直ちに、すぐにということです。何が起こったのか。聖霊が、イエスを「荒れ野に送り出した」。送り出したということばは、ギリシャ語では、「外に投げる」「ほうりなげる」という激しい言葉なのです。激しい運動が起こっています。天が裂け、天から言葉があり、洗礼が授けられ、直ちに、今度は荒れ野に放り出される。垂直から水平に向かう運動。まず上から下に垂直に。今度は、平和から荒れ野に…。放りだしたのは、聖霊です。神ご自身である聖霊が、イエスさまを荒れ野に放り出された、追いやられた。「あなたはわたしの子、わたしの心にかなう者 」。その言葉が語りかけられてすぐになのです。
イエス・キリストは神の子。天を裂いて、この地上にきてくださった神です。その方が、荒れ野に追いやられた。しかも、その荒れ野に、40日間とどまられ、サタンから誘惑を受けられた。
そうなのですか、そんなこともあったんですね、というようなことではありません。ありえない、異常なことです。この異常さをわかっていただけるでありましょうか。どのようにして語ったら良いでしょうか。
ここで誘惑するのはサタンです。サタンとは悪魔のことです。悪魔は誘惑するのが仕事です。誘惑とは神さまから引き離すことです。さしあたって、サタンは、ここでイエスさまが私たちの救いの御業をなさること、私たちの罪を背負い、赦しのための御業を行われることを阻止しようと行く手を阻もうとするのです。なんとかして止めさせたいのです。ただ、ここで途方にくれるのはイエスさまを荒れ野に放り出されたのが、聖霊だということです。神ご自身だと語られていることです。神ご自身は、人を誘惑されたりはなさいません。そのことはヤコブの手紙でも語られています。たしかに、ここでも神さまは誘惑されるわけではありません。主体ではありません。誘惑するのはあくまでもサタン。しかし、神さまはご存知だったでしょう。荒れ野に追いやられれば、そこに何が待っているかということを。ご存じの上でそこにイエスさまを追いやられたのです。
そこにはサタンが待ち構えていました。荒れ野は誘惑の場所です。イスラエルの民は、モーセに導かれて、エジプトを出てから、荒れ野を旅しました。その荒れ野で彼らは、サタンの餌食になりました。神に不平をつぶやき、神に背を向けて逆らうに至りました。その結果、最初の世代の人たちは約束の地に入ることはできませんでした。入ったのは次の世代の人たちだけです。
さらにきょうの箇所には「野獣もいた」とあります。ライオンか、クマか、狼か…それとも、もっと得体の知れない何か、なのかは全くわかりません。ただ危害を加える存在ということだけは確かです。全く安全ではない、危険な状態に置かれた。
40日間というのは文字通りというよりは、とても長い期間ということです。荒れ野の40日です。少し横道にそれまずが、今、私たちは教会の暦で受難節、レントの時の中にあります。レントとは40日間という意味があります。イースターまでの6回の日曜日を除いて、40日間が受難節なのです。どうしてなのかというと、それはイエスさまが荒れ野で40日の間、誘惑をお受けになられたことに因んでなのです。そういう中で、受難節の中で、私たちはこのみ言葉を聞くサワイにあずかっています。
いずれにしてもそのことをお許しになる。神さまの許可があった、というか、神がイエスさまをそういうところに追いやられた、放り込まれたと語られるのです。
ツィンクという神学者はその書物で、「神の闇
」ということに触れています。私なりの言葉で言うとこういうことです。神は光、まことの光、神は愛そのとおり。しかし、同時に、神には闇がある。神の闇に私たちはぶつかることがある。なぜ、どうしてと問わなければならないこと、私たちにはあずかりしれないところをお持ちなのだと。私は長いあいだ、自分が抱えてきた問いにある答えをいただいたように思ったのです。そして、その神が闇であるという例の一つとして、この聖書の言葉が挙げられていました。
今日の箇所を読んでいるうちにここでおこっていることはもしかすると、こういうことではないかと思うことがあります。小さな子どもは、時に残酷なことをするものです。幼い頃、後ろから思いきり突き飛ばされたことがありませんか。背後に注意を向けていないわけです。無防備です。そこで思いっきり後ろから突き飛ばされたらたまりません。前にふっとびます。この時、イエスさまに起こったこともそういうことではないかと思えてならないのです。後ろから荒れ野に突き飛ばされた、神さまによって。そこで悪魔の誘惑を受け、野獣の中に置かれた…。
イエスさまは、かたちだけではない、本当に、苦しまれた。危険の中に置かれた。不意打ちのように、そういう場所にいきなり放り込まれた。神によって。神さまを呪うこともできたでしょう。なぜどうして、激しく揺さぶられたに違いない。
ブリンディジのローレンティウスというスペインのカトリックの神学者は、ここでイエスさまは、「右の手をしっかり縛られて、左の手だけで戦うことを強いられている。右の手は神性、左手は人性ということです。人間として、あくまでも、人間として…です。イエスさまは神です。なんでもおできになる。しかし、その力を使われない。人間として、この期間を過ごされた。
これがここで起こっていることです。そして、このことはここだけではない。この先に起こることでもありました。この時の誘惑はこれで終わったわけではありません。この先もずっと続くのです。マルコによる福音書は、イエスさまがサタンの誘惑にあって、それに勝利されたというようには語っていません。そういう話ではないのです。ここにイエスさまというお方がどういう方なのかということが凝縮して、アイコンのように、描き出されているのです。イエスさまの地上のご生涯がここに描き出されているのです。イエス・キリストとはこういう方だ!と語られている。神の力を用いない。人として、この地上の荒れ野を生きられるのです。
このように荒れ野で誘惑を受け、野獣と一緒におられたイエスさまに、「天使たちが仕えていた」ということが語られています。神に仕える天使たちが、イエスさまを応援していたわけです。なんとも不思議なことで矛盾することですが、今日の箇所にはわけのわからないことが語られていますが、よく見ると、イエスさまのこと苦しみは、包まれているのです。神が荒れ野に追いやられたことではじまり、天使たちが仕えていたで閉じられているのです。説明のしようのないことがここにはおこっているわけです。
そして、マルコが言いたいことがさらにここに見えてくるのです。マルコ福音書は、実はこのようにイエスさまのこと、イエスさまがどういう方なのかを語りながら、私たちのことを語っているのです。私たちも、このイエス・キリストに結ばれて、神の子なのです。私たちも、私たちの場合はただキリストによって、キリストを通してですが、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と神さまから語りかけられるものです。しかし、その私たちもまた、神さまによって荒れ野に生きるのです。そこは安全な場所ではないのです。危険がある。誘惑がある。野獣がいる。
実際、そうではありませんか、私たちは何かしら身の危険を感じながらこの地上を生きています。悲惨なことがある、残酷なことがある。争いがあります。病があり死がある。私たちの人生も、この世界も荒れ野ではないでしょうか。
先ほども触れました、ツィンクは、今から数十年前に「美しい大地ー破壊される自然と創造の秩序ー」という本でこんな言葉を語っています。
「地球上では、人間や動植物の生活空間が、かつて例を見ないほど危険にさらされている。このような状態がこのまま進んではならないことは、誰にもわかっている。それなのに、今日に至るまで事情はちっとも変わらない…。そればかりではなく多数の人々を相手に仕事をしている人は、今日、この世界の荒廃状態が人間の内部にまで暗い影を投げかけているという印象をぬぐいきれずにいる。世界が荒廃すれば、人間も共に荒れすさむのである」。
この聖書の荒れ野は、どこか遠い場所にあるのではありません。今、ここにある。私たちの内部にもある。誘惑がある、危険がある。神から引き離されそうになる。でもそこにキリストがきてくださった。
きょうの箇所と合わせて読むべき、聖書の言葉があります。ヘブライ人への手紙4章15節のみ言葉です。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」*405。
このキリストが、私たちのことをわかっていてくださるのです。
この時、イエスさまは、苦しみの深い意味で、守られていました。だから、今日の箇所の最初は神ではじまり、天使で終わっています。神がサタンに誘惑の許可をされたことは、驚愕することであります。でも一方で神のみ手の中にある出来事だったのです。神と天使に守られて、主は荒れ野で生きておられるのです。マルコによる福音書は、それはあなたたちも同じだと言いたいのです。キリストと結ばれて、神の子とされているあなたたちも神の守りの中に置かれている。いや、ある人はそれだけじゃないと言いました。「イエスも我々を守る」と。
ああ、そんなことがあったのかというお話ではありません。生きるか死ぬかのことがここに語られています。感謝しつつ祈ります。