音声ファイル 再生できない方はこちらをクリック 聖書の言葉 9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。マルコによる福音書 1章9節~11節 メッセージ *以下は説教の原稿です。 関教会では、耳の不自由な方々やオンラインを使用できない方のために礼拝時にプリントして配布しています。 大変申し訳ないのですが、当日に実際になされた説教そのものとは異なるものです。録音をお聞きくださることを願っています。本来、十分な校正をへて掲載すべきかもしれませんが、それも叶いません。誤字などありますがご容赦ください。 ーーー 私たちは受難節の日々を今、過ごしています。そのような私たちにこの聖書の言葉が与えられています。 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」。 ここで主語が変わります。ここから主語が主イエスになる。 マルコ福音書は、ここからイエスさまのことを語りはじめます。 その一番、はじめに何が語られるのか、どんなことが語られるのか、それは極めて重要なことだと言わなければなりません。 説教でも一番、はじめに何を語るのかということはとても大切なことだと教わります。最初に語ることを間違えてしまうと、取り返しがつかないことになってしまう。だから、最初に何を語るのかということによくよく注意深くなければなりません。マルコも、そういうことをよく知っていた人ではないかと思います。 すでに「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という言葉でこの福音書を書きはじめていることもそのことのあらわれでしょう。マルコは、ここでイエスさまのことを最初に伝える、このときにも何から始めるか、どんな言葉を伝えたらよいのか、相当に心を砕いたに違いないと思います。 ヨハネは、イエスさまのなさったことから伝え始めます。「ヨハネから洗礼を受けられた」。意外な始まりと言わならないかもしれません。いきなり私は神の子だと宣言されたと言うのではありません。ご自身が神の子であることを示す奇跡のみ業をなさったというのでもありません。洗礼をお受けになった、と。 この聖書の言葉の前、5節にはこう語られていました。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」。同じ表現で、イエスさまが、人びとと中に入っていって、ヨハネから洗礼を受けられた。しかも、8節では洗礼者ヨハネのこんな言葉が書かれています。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。「洗礼をお授けになる」という予告がなされていた。しかし、主が登場なさったときには、イエスさまは先ず洗礼を受ける側にお立ちになったというのです。これではまるで、ヨハネが間違ったことを語ったかのようではありませんか。イエスさまが登場されたときに、ヨハネがイエスさまの前にぬかずいてヨハネに洗礼を授けられ、さらにヨハネに代わって、ここからイエスさまが人びとに洗礼を授けてゆかれた、それなら話はスムーズです。でもそうは言われていません。この時、イエスさまは洗礼を受ける側にその身を置かれたのだと、マルコは何の説明もすることなく語ります もう一つ、問いがあります。 ヨハネの洗礼は、「罪の赦しを得させる、悔い改めの洗礼」であったと4節にあります。そういう洗礼を神の子であるイエスさまがお受けになられた。イエスさまは神の子、罪のないお方、悔い改める必要のないお方であると、私たちは教わってきました。罪のない、悔い改める必要のない方が、どうしてという問いです。 このような始まりは何を意味するのでしょうか。 私はこう信じています。 これが、イエスさまというお方なのだ。ここにイエスさまがイエスさまであるということが現されていると…。ここにイエスさまと洗礼者ヨハネとの決定的な違いがあるとある人は言いました。 くどいようですけれども、はじめが肝心です。映画でも、演劇でも、主人公が最初に登場する場面は大切でしょう。どのようなものとして登場するかは決定的な意味を持ちます。マルコにインタビューして、聞いてみたい。「あなたはどうして、こんな場面から福音書を書き始めたのですか?」。マルコはこう答えるのではないでしょうか。「イエスさまがどんな方なのか、そのことがよくわかってもらえると思ったからです。いつまでも、この時のイエスさまのことを心に刻んでくだされば私は願っているのです」と。 洗礼、それは私たち教会に生きる者にとって、大切なことです。洗礼を受けて、教会員になります。洗礼は、ゴールではなく、信仰生活の出発点、スタートです。ここからはじまる。そのはじまりがここにあります。私たちと同じところに立ってくださった、イエスさまとは、そういう方なのだということです。 どうして洗礼を受けなければならないのか、教会は求道者の方たちに洗礼を願うのか、その答えもここに、イエスさまが洗礼をお受けになった、そこから始められた、というところにあります。 この主の日の礼拝は、私たちが洗礼を受けたということを思い起こすためにもあります。洗礼を受けるということは、イエスさまの仲間になることであります。またイエスさまにつながること、結ばれることであります。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙三章二六節、二七節で「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼受けてキリストに結ばれたあなたがたはキリストを着ているからです」と買っています。今日の箇所を読むときに手がかりとなる御言葉です。洗礼を受けることによって、私たちはキリストに結ばれ、つながって、神の子となるとパウロは言っています。洗礼、神の子、それは今日の箇所とも重なることです。 イエスさまの洗礼の出来事は、イエスさま話にとどまらない、私たちの話だということに気づかされたいのです。 イエスさまにこの時、起こったことは、私たちにも起こる、起こっているのです。聖霊が注がれ、天が開け、神の言葉が語りかけられる。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。 今日の私たちは自分が愛されていることがわからなくなっています。親からも友人からも、周りの人たちから愛された、そういう経験を持たない人も多い。私たちに語りかけられる声、私たちの耳に届く声は、愛を告げる声ではありません。あなたは別にいなくてもいい、あなたの代わりはいくらでもいる。もっとひどいことを言われる場合もありますし、そんな言葉を実際に語りかけられなくても、今日の社会はぎすごすしています。互いに無関心です。愛されていることを覚えることができなくなっています。しかし、そんな私たちのためにキリストはきてくださったのです。そして、キリストを信じて洗礼を受ける時、聖霊が注がれ、天が裂かれて、天からの声が聞こえるようになります。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」。 10節、11節で語られているのは、イエスさまの経験です。主観的な秘められた経験と言ってもいい。この時、弟子たちはまだ登場しません。ここに語られていることが起こったのを見た人は誰もいない。マルコ福音書ではそういうこととして、このことが語られています。 それなのに、どうして、このようなことが記されているのかと思います。それはイエスさまが弟子たちに、この時のことを繰り返し語られたからでしょう。こういうことがあった。ここから始まったと。 「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」。わたしは見た。天が裂かれるのを…。 イザヤ書63章19節にこんなみ言葉があります。「どうか天を裂いてくだってください。御前に山々が揺れ動くように」。イスラエルの人びとは、歴史の中で暗闇の中にいました。天が見えない。天とは神のいますところです。地上のある空間とは違います。空ではないのです。天が見えないというのは神さまとの交わりから切り離されていることを意味します。神がわからない、信じられないのです。神がおられないので真っ暗闇です。預言者は、もう限界に達したところで、なお神を呼んで祈った、叫んだ。神よ、天を裂いてくだってきてくださいと。ただその時、答えはなにもありません。しかし、その天がこの時、イエスさまが来られ、洗礼をお受けになったときに裂かれた。 それを主イエスがご覧になった。 そして、天から声が聞こえた。こんな声です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。短い一句の言葉が天から聞こえた。 実はこの短い言葉の中にも、旧約聖書の言葉、しかも三つの言葉が重なって響いていると言われます。 まず創世記二二章です。その二節、一二節、一六節で神はアブラハムに息子イサクのことを「あなたの子」「あなたの愛する子」と語りかけておられます。その言葉がここで響いているとされます。 第二に、詩篇二篇七節です。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。この詩篇は王が王になる、即位するときに読まれた詩篇です。それとともに、メシア、救い主の到来を待ち望む詩篇ともされてきました。イエスさまが洗礼をお受けになることにことによって神さまによって、聖霊が注がれ、王として即位されたたのです。 最後(ここが一番大切)が、イザヤ書四二章一節です。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」。イザヤ書では、「わたしの僕」と呼ばれています。わたしの愛する子、また王である方、は、僕、神の僕なのです。僕というのは奴隷です。神の僕。神の奴隷として、神さまのご計画に従って歩まれるのです。実際、イエスさまは、神さまに従ってその道を歩まれるのです。主が十字架につけられる前の晩、ゲツセマネという場所で祈りをなさいましたときに、弟子たちがいぶかるほどにこのお方は恐れ、もだえて、「み心ならこの苦しみを逃れさせてください。けれどもわたしの願いではなくて、ただ御心のままに」と祈られたのですが、まさしくそこには、神に愛された神の子が、神のご支配を打ち立てるために、だからこそ、徹底的に神の僕として、神のみ旨に従う、お姿を現されました。このイザヤ書42章のこの箇所は、4つの僕の歌と呼ばれます第1の歌の最初の言葉なのです。そして、イザヤ書53章では、最後の歌が歌われます。それは、苦難の僕が、罪人の罪を背負って死ぬということで閉じられます。 イザヤ書42章1節の引用と言いましたが、そのすぐ後の2節、3節にはこんな言葉が語られています。 「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。 傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。 (2、3節) このように子であり、王であり、苦難の僕である主のお姿がここですでにあらわされているのです。どれか一つの言葉ではなく、この三つの旧約聖書の言葉が入り混じるようにして、今主の耳に届きます。神さまに身をささげる者、神から王となることを許された者、しかも、その支配は、罪人が滅ぼされないで生かされるために、自ら僕となって人びとに仕えて生きることでなされていきます。 だから、この時、イエスさまは、人びとの中に入り混じって洗礼をお受けになられるのです。罪人のひとりとして。イザヤ書53章には僕が「罪人のひとりに数えられ」とありますが、そのことがイエスさまによってすでになされているのです。 マルコ福音書は、イエスさまの洗礼をひっそりとした仕方でおこなわれたこととしています。誰かが気づいたとか言われていません。誰も気づいていない。洗礼者ヨハネも何も語っていません。マタイやルカと書き方が違います。それだけに印象的です。神さまと聖霊、イエスさまだけが(三位一体の神だけが)知っている。気づいている。働いておられる。そこでこの救いの御業が、福音がはじまっているのです。 洗礼者ヨハネのところにイエスさまが来られた時も、他の人とまったく見分けがつかなかったでしょう。イエスさま真っ白に光り輝く姿で登場されたのではない。人びとを恐れさせるような姿ではなく、まったくただの一人の人間として、洗礼をお受けになった。それは、罪人のひとりとなって、十字架にかかられるイエスさまにまことにふさわしいことでした。 その使命をすでにこのとき、イエスさまは引き受けられたのです。 マルコによる福音書は、15章33節以下で、イエスさまの十字架の死について語っています。イエスさまは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて息を引き取られたとあります。そして、37節でその時に起こったことをこう書いています。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。そして、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。主イエスが、洗礼をお受けになったときに天が裂けた、そして、その十字架の死において神殿の垂れ幕が裂けたのです。天と地の隔てが破れた、裂けた。天と地、神さまと人間との交わりが開かれたのです。私たちはそういう時の中に生きています。つらいことがあり厳しいことがあります。先が見えない中にあります。しかし、このことは心に刻みたい。私たちはもう神さまから切り離されていない。神の愛から切り離されてはいない。天からの神の声が聞こえる。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。 そして、マルコによる福音書の終わりでは続いて十字架の主を見ていた、百人隊長がこう言います。「本当に、この人は神の子であった」と。洗礼の時の天からの声が、最後には地からの声に変わるのです。しかも、この声を神を知らない異邦人が発しています。 受難節の日々を過ごすなかで、ここに描き出されている主イエスのお姿を心に焼き付けて、共に歩んでまいりたいと思います。
*以下は説教の原稿です。
関教会では、耳の不自由な方々やオンラインを使用できない方のために礼拝時にプリントして配布しています。
大変申し訳ないのですが、当日に実際になされた説教そのものとは異なるものです。録音をお聞きくださることを願っています。本来、十分な校正をへて掲載すべきかもしれませんが、それも叶いません。誤字などありますがご容赦ください。
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私たちは受難節の日々を今、過ごしています。そのような私たちにこの聖書の言葉が与えられています。
「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」。
ここで主語が変わります。ここから主語が主イエスになる。
マルコ福音書は、ここからイエスさまのことを語りはじめます。
その一番、はじめに何が語られるのか、どんなことが語られるのか、それは極めて重要なことだと言わなければなりません。
説教でも一番、はじめに何を語るのかということはとても大切なことだと教わります。最初に語ることを間違えてしまうと、取り返しがつかないことになってしまう。だから、最初に何を語るのかということによくよく注意深くなければなりません。マルコも、そういうことをよく知っていた人ではないかと思います。
すでに「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という言葉でこの福音書を書きはじめていることもそのことのあらわれでしょう。マルコは、ここでイエスさまのことを最初に伝える、このときにも何から始めるか、どんな言葉を伝えたらよいのか、相当に心を砕いたに違いないと思います。 ヨハネは、イエスさまのなさったことから伝え始めます。「ヨハネから洗礼を受けられた」。意外な始まりと言わならないかもしれません。いきなり私は神の子だと宣言されたと言うのではありません。ご自身が神の子であることを示す奇跡のみ業をなさったというのでもありません。洗礼をお受けになった、と。
この聖書の言葉の前、5節にはこう語られていました。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」。同じ表現で、イエスさまが、人びとと中に入っていって、ヨハネから洗礼を受けられた。しかも、8節では洗礼者ヨハネのこんな言葉が書かれています。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。「洗礼をお授けになる」という予告がなされていた。しかし、主が登場なさったときには、イエスさまは先ず洗礼を受ける側にお立ちになったというのです。これではまるで、ヨハネが間違ったことを語ったかのようではありませんか。イエスさまが登場されたときに、ヨハネがイエスさまの前にぬかずいてヨハネに洗礼を授けられ、さらにヨハネに代わって、ここからイエスさまが人びとに洗礼を授けてゆかれた、それなら話はスムーズです。でもそうは言われていません。この時、イエスさまは洗礼を受ける側にその身を置かれたのだと、マルコは何の説明もすることなく語ります
もう一つ、問いがあります。
ヨハネの洗礼は、「罪の赦しを得させる、悔い改めの洗礼」であったと4節にあります。そういう洗礼を神の子であるイエスさまがお受けになられた。イエスさまは神の子、罪のないお方、悔い改める必要のないお方であると、私たちは教わってきました。罪のない、悔い改める必要のない方が、どうしてという問いです。
このような始まりは何を意味するのでしょうか。
私はこう信じています。
これが、イエスさまというお方なのだ。ここにイエスさまがイエスさまであるということが現されていると…。ここにイエスさまと洗礼者ヨハネとの決定的な違いがあるとある人は言いました。
くどいようですけれども、はじめが肝心です。映画でも、演劇でも、主人公が最初に登場する場面は大切でしょう。どのようなものとして登場するかは決定的な意味を持ちます。マルコにインタビューして、聞いてみたい。「あなたはどうして、こんな場面から福音書を書き始めたのですか?」。マルコはこう答えるのではないでしょうか。「イエスさまがどんな方なのか、そのことがよくわかってもらえると思ったからです。いつまでも、この時のイエスさまのことを心に刻んでくだされば私は願っているのです」と。
洗礼、それは私たち教会に生きる者にとって、大切なことです。洗礼を受けて、教会員になります。洗礼は、ゴールではなく、信仰生活の出発点、スタートです。ここからはじまる。そのはじまりがここにあります。私たちと同じところに立ってくださった、イエスさまとは、そういう方なのだということです。
どうして洗礼を受けなければならないのか、教会は求道者の方たちに洗礼を願うのか、その答えもここに、イエスさまが洗礼をお受けになった、そこから始められた、というところにあります。
この主の日の礼拝は、私たちが洗礼を受けたということを思い起こすためにもあります。洗礼を受けるということは、イエスさまの仲間になることであります。またイエスさまにつながること、結ばれることであります。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙三章二六節、二七節で「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼受けてキリストに結ばれたあなたがたはキリストを着ているからです」と買っています。今日の箇所を読むときに手がかりとなる御言葉です。洗礼を受けることによって、私たちはキリストに結ばれ、つながって、神の子となるとパウロは言っています。洗礼、神の子、それは今日の箇所とも重なることです。
イエスさまの洗礼の出来事は、イエスさま話にとどまらない、私たちの話だということに気づかされたいのです。
イエスさまにこの時、起こったことは、私たちにも起こる、起こっているのです。聖霊が注がれ、天が開け、神の言葉が語りかけられる。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。
今日の私たちは自分が愛されていることがわからなくなっています。親からも友人からも、周りの人たちから愛された、そういう経験を持たない人も多い。私たちに語りかけられる声、私たちの耳に届く声は、愛を告げる声ではありません。あなたは別にいなくてもいい、あなたの代わりはいくらでもいる。もっとひどいことを言われる場合もありますし、そんな言葉を実際に語りかけられなくても、今日の社会はぎすごすしています。互いに無関心です。愛されていることを覚えることができなくなっています。しかし、そんな私たちのためにキリストはきてくださったのです。そして、キリストを信じて洗礼を受ける時、聖霊が注がれ、天が裂かれて、天からの声が聞こえるようになります。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」。
10節、11節で語られているのは、イエスさまの経験です。主観的な秘められた経験と言ってもいい。この時、弟子たちはまだ登場しません。ここに語られていることが起こったのを見た人は誰もいない。マルコ福音書ではそういうこととして、このことが語られています。
それなのに、どうして、このようなことが記されているのかと思います。それはイエスさまが弟子たちに、この時のことを繰り返し語られたからでしょう。こういうことがあった。ここから始まったと。 「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」。わたしは見た。天が裂かれるのを…。
イザヤ書63章19節にこんなみ言葉があります。「どうか天を裂いてくだってください。御前に山々が揺れ動くように」。イスラエルの人びとは、歴史の中で暗闇の中にいました。天が見えない。天とは神のいますところです。地上のある空間とは違います。空ではないのです。天が見えないというのは神さまとの交わりから切り離されていることを意味します。神がわからない、信じられないのです。神がおられないので真っ暗闇です。預言者は、もう限界に達したところで、なお神を呼んで祈った、叫んだ。神よ、天を裂いてくだってきてくださいと。ただその時、答えはなにもありません。しかし、その天がこの時、イエスさまが来られ、洗礼をお受けになったときに裂かれた。
それを主イエスがご覧になった。
そして、天から声が聞こえた。こんな声です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。短い一句の言葉が天から聞こえた。
実はこの短い言葉の中にも、旧約聖書の言葉、しかも三つの言葉が重なって響いていると言われます。
まず創世記二二章です。その二節、一二節、一六節で神はアブラハムに息子イサクのことを「あなたの子」「あなたの愛する子」と語りかけておられます。その言葉がここで響いているとされます。
第二に、詩篇二篇七節です。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。この詩篇は王が王になる、即位するときに読まれた詩篇です。それとともに、メシア、救い主の到来を待ち望む詩篇ともされてきました。イエスさまが洗礼をお受けになることにことによって神さまによって、聖霊が注がれ、王として即位されたたのです。
最後(ここが一番大切)が、イザヤ書四二章一節です。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」。イザヤ書では、「わたしの僕」と呼ばれています。わたしの愛する子、また王である方、は、僕、神の僕なのです。僕というのは奴隷です。神の僕。神の奴隷として、神さまのご計画に従って歩まれるのです。実際、イエスさまは、神さまに従ってその道を歩まれるのです。主が十字架につけられる前の晩、ゲツセマネという場所で祈りをなさいましたときに、弟子たちがいぶかるほどにこのお方は恐れ、もだえて、「み心ならこの苦しみを逃れさせてください。けれどもわたしの願いではなくて、ただ御心のままに」と祈られたのですが、まさしくそこには、神に愛された神の子が、神のご支配を打ち立てるために、だからこそ、徹底的に神の僕として、神のみ旨に従う、お姿を現されました。このイザヤ書42章のこの箇所は、4つの僕の歌と呼ばれます第1の歌の最初の言葉なのです。そして、イザヤ書53章では、最後の歌が歌われます。それは、苦難の僕が、罪人の罪を背負って死ぬということで閉じられます。
イザヤ書42章1節の引用と言いましたが、そのすぐ後の2節、3節にはこんな言葉が語られています。
「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
(2、3節)
このように子であり、王であり、苦難の僕である主のお姿がここですでにあらわされているのです。どれか一つの言葉ではなく、この三つの旧約聖書の言葉が入り混じるようにして、今主の耳に届きます。神さまに身をささげる者、神から王となることを許された者、しかも、その支配は、罪人が滅ぼされないで生かされるために、自ら僕となって人びとに仕えて生きることでなされていきます。
だから、この時、イエスさまは、人びとの中に入り混じって洗礼をお受けになられるのです。罪人のひとりとして。イザヤ書53章には僕が「罪人のひとりに数えられ」とありますが、そのことがイエスさまによってすでになされているのです。
マルコ福音書は、イエスさまの洗礼をひっそりとした仕方でおこなわれたこととしています。誰かが気づいたとか言われていません。誰も気づいていない。洗礼者ヨハネも何も語っていません。マタイやルカと書き方が違います。それだけに印象的です。神さまと聖霊、イエスさまだけが(三位一体の神だけが)知っている。気づいている。働いておられる。そこでこの救いの御業が、福音がはじまっているのです。
洗礼者ヨハネのところにイエスさまが来られた時も、他の人とまったく見分けがつかなかったでしょう。イエスさま真っ白に光り輝く姿で登場されたのではない。人びとを恐れさせるような姿ではなく、まったくただの一人の人間として、洗礼をお受けになった。それは、罪人のひとりとなって、十字架にかかられるイエスさまにまことにふさわしいことでした。
その使命をすでにこのとき、イエスさまは引き受けられたのです。
マルコによる福音書は、15章33節以下で、イエスさまの十字架の死について語っています。イエスさまは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて息を引き取られたとあります。そして、37節でその時に起こったことをこう書いています。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。そして、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。主イエスが、洗礼をお受けになったときに天が裂けた、そして、その十字架の死において神殿の垂れ幕が裂けたのです。天と地の隔てが破れた、裂けた。天と地、神さまと人間との交わりが開かれたのです。私たちはそういう時の中に生きています。つらいことがあり厳しいことがあります。先が見えない中にあります。しかし、このことは心に刻みたい。私たちはもう神さまから切り離されていない。神の愛から切り離されてはいない。天からの神の声が聞こえる。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。
そして、マルコによる福音書の終わりでは続いて十字架の主を見ていた、百人隊長がこう言います。「本当に、この人は神の子であった」と。洗礼の時の天からの声が、最後には地からの声に変わるのです。しかも、この声を神を知らない異邦人が発しています。
受難節の日々を過ごすなかで、ここに描き出されている主イエスのお姿を心に焼き付けて、共に歩んでまいりたいと思います。