The Messsageという新約聖書を今日の言葉で届けるために翻訳された本があります。その本の中でピーターソンは、悔い改めを「人生を変える」 (チェンジライフ)と訳しています。人生がここで変えられる。キリストを信じるということは、人をちょっとましにするというようなことではありません。信仰者ではない、ある精神科医と話す機会が昔ありました。あなたは牧師さんですか、キリスト教はいいですね。心を落ち着かせてくれるから…そんなことを言われました。このひとだけではありません。多くの人たちはそのように考えます。クリスチャンの中でも福音というものが、周りの人たちよりましな人間にする、くらいのことで理解しているくらいのことのように思ってしまっていることがあります。けれども、そうじゃない。このイエスさまのことは、私たちの人生を根本的に変える。
マルコによる福音書は福音書を、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で書き始めました。福音というのは、喜びの知らせという意味です。福音は、英語だとグッドニュースです。ゴスペルとも呼ばれます。ゴスペルというのはあの歌のゴスペルです。やはりイエス・キリストの福音、良い知らせを伝える歌を意味します。
ある人がこんなことを言っています。マルコ福音書だけが福音書を「福音」という言葉で語っていると。確かにそのとおりです。他にマタイ、ルカ、ヨハネの福音書がありますが、マルコのように最初に、福音という言葉を使っているわけではありません。マルコだけなのです。
他にもこのマルコにしか見られないことがあります。マルコは神の子イエス・キリストの福音の初めと書いて、その後、何を書いたのかというと洗礼者ヨハネのことです。他の福音書、マタイやルカは、イエスさまの誕生のこと、クリスマスのことから書き始めました。ヨハネは独特ですが、「はじめに言があった」、と言った後に「言は肉となった」と言っていますから、やはりイエスさまの誕生から書きはじめていと言ってもいい。主イエスが来られた、喜びが来た、それは私たちにはわかりやすいことですが、マルコはイエスさまの誕生からははじめません。共にお読みしましたように、洗礼者ヨハネのことから始めています。
洗礼者ヨハネ、この人はイエスさまの先駆者であると私たちは知っています。私たちが通常、このヨハネという人にもっているイメージはちょっと近寄りがたい、怖い人、あまりお友達にはなりたくない人であるように思います。6節に、「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」とあります。こういうところから想像できるのは、ニコニコしている人ではなく、やはり怖い人でしょう。ニコニコして、いなごと野蜜を食べてるなんてありえないと思えます。一方、この後、登場されるイエスさまは、違う。白い衣を着て、微笑んでおられる。ヨハネは怖いけれども、イエスさまはお優しい、そういうふうに受け止められているところがあるように思います。そういうことからすれば、洗礼者ヨハネは、イエスさまの存在が福音であり、喜びであることを引き立たたせる存在として、受け止められる。そうだとすれば、洗礼者ヨハネという人は、福音の前に位置する人…やがてくる福音の前座、引き立たせ役である。つまり、今日の聖書の箇所はまだ福音ではない。福音はこの次の箇所から語られる。ここではその福音を引き立たせるために、ちょっと別の人の話がなされる、そういうことになるでしょう。舞台の本番の幕が開く前のアナウンスはなされているような箇所、そういうことになります。
けれども、そういうことなのでしょうか。そうではありません。マルコによる福音書は、この洗礼者ヨハネの登場そのものにすでに福音を見ています。ここでもう喜びの知らせが語られ始めているのです。私たちは、喜びの響きをここで聞き取ることができる。ではここに語られている福音とは一体、どういうものなのでしょうか。
ところで、私は、ここでマルコによる福音書は洗礼者ヨハネの話から始めていると言いましたが実はそれは正確ではありません。このヨハネの登場の前に、2、3節の旧約聖書の引用があります。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
マルコは、イザヤの引用としていますが実際には、3節だけがイザヤ書40章3節からの引用で、2節後半は、マラキ3章1節と出エジプト記23章20節の言葉をつなぎ合わせた引用になっています。この2、3節の引用部分には三人の人物が登場します。それぞれ誰であるかを考えてみてください。
「わたし」は主なる神さまでここでの語り手です。「使者」は洗礼者ヨハネです。そうであるなら、「あなた」とは誰でしょうか。「あなた」とはどう考えてみても、これは神の子イエス・キリストのことです。
つまり、ここには天上からイエスさまに語りかけられた、神さまの言葉が語られているのです。わたしの使者が荒れ野に洗わられる。その使者があなたの道を備える。彼は「荒れ野で叫ぶ者」、彼があなたの道を整える。言ってみれば、神さまがイエスさまに語りかけていよいよ時が来たことを伝えられるのです。そして、ヨハネがそのとおり登場したとつながっているわけです。その意味では、ここでもうイエスさまは姿は現されてはいないけれども、もう登場しておられるのです。そして、このことは、ヨハネの先のイエスさまによって福音が始まるというよりも、もうこのヨハネの登場、この時に、神さまの救いの働き、福音ははじまっているということになります。神がもう事を始められた!そういうことであります。ですから、喜びはまだ先にあるということじゃないわけです。ここに私たちの喜びが始まっているということであります。
きょうの説教の準備をしているなかで、ある聖書の学者の書かれたこの聖書の箇所の文章を読みました。その人はこの聖書の箇所が語っていること、洗礼者ヨハネがここで語っていること、示していることはこういうことだというのです。私なりの翻訳で、言い換えてみるとこういうことです。
「突然ドアが開いて、明るい光が差し込んできた。そして声がした。夢を見ていないで目を覚ましなさい。あなたの人生を変えるものすごく大切なことが神さまによって起ころうとしている」。
洗礼者ヨハネは「起きろ、夢を見ていないで目を覚ませ」と語っていると言うのです。それが荒れ野からの声であります。
ヨハネは荒れ野で声を発しました。そして、その声が響いたのです。荒れ野は、説明の必要はないかもしれませんが、人が住むことのない場所です。そんなところで声を出しても、誰にも届かない場所です。でもこの時、この荒れ野の声となったヨハネのもとに人々がやってきたのです。5節には、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て」とあります。皆が来たというのは、いくらなんでもありえないことだ、誇張した文学的な表現だと言う人もいます。確かにそうかもしれません。けれども、ただそれだけのことではないように、私は思います。洗礼者ヨハネのもとにとにかく多くの人たちが集まってきた。それには理由があったというのです。それはヨハネが人を差別しなかったからではないか、と。当時、洗礼というのは、ヨハネだけがしたことではなかった。洗礼にはいくつかあった。
一つは、ユダヤ人ではない人、異邦人が、神さまを信じるようになるときに洗礼を受けたのです。しかし、異邦人は洗礼を受けるときには、それにあわせて割礼を受けることが求められたのです。
しっかり律法の知識を持っているかどうかも確かめられたようです。
また、ユダヤ人が洗礼を受けるケースもあったようです。他のユダヤ人はいい加減な生活をしている、でも自分は神さまの律法を学び、それに従って立派に禁欲的な生活を送る、そういうことを決意したユダヤ人は、洗礼を受けたようです。
生粋のユダヤ人になるために、清められるそのために洗礼を受けたわけです。
他にもあったようですが…。
ヨハネもそうした洗礼を知っていたでしょう。けれども、ヨハネの洗礼はそれらの洗礼とは明らかな違いがありました。ヨハネは差別しませんでした。当時のユダヤの宗教には制限があり差別がたくさんあった。宗教的なエリートとそうではない人たちの区別が、いつの間にかあったのです。
しかし、ヨハネはそれらをとっぱらいました。なぜか。神さまはすべての人の神さまだからです。そして、罪の赦しはすべての人に必要だからです。悔い改める必要のない人なんていません。だから、みんな、すべての人がやってきたと語られているのです。
はじめにヨハネは怖い人というイメージがあるということを申しました。私たちの間でも、あの人、なんか怖い人だ、近寄りがたいと思っていた人が、よくよく付き合ってみると、実はそうではないということがあります。その逆もあります。ヨハネも、見かけは、確かになんとなく怖いですが、実はぜんぜん違うのではないでしょうか。律法主義的な人ではなく、福音的な人ではないでしょうか。マルコはそういうヨハネをよく見抜いていた人ではないでしょうか。少なくとも、洗礼者ヨハネという人についての見方を、私たちも変える必要があるように思えてなりません。
ヨハネは、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(4)とあります。
「悔い改める」とはどういうことでしょうか。もうよくわかっていると思われるかもしれませんが、どうでしょうか。どの学者でも、元のヘブライ語に戻って理解した方がいいと言います。「帰る」ということばです。「向きを変えて帰る」という言葉です。人間はいつの間にか、神さまから離れて人生の道を進んでしまいます。悔い改めとは、そこから向きを帰ることを意味します。神さまの方を向いて人生の歩みを送ることです。これは大きな人生の歩みの転換を意味します。神さまに顔を向けて、顔だけではなく全身を向けて歩み始めることです。
悔い改めは反省することは違います。何が違うのかというと反省というのは根本的には自分の現状の肯定を意味します。基本的には今までのとおりでいい、このままでいい、でもここだけは変えようということです。生活のことなら、そういう反省は大事です。妻からここを改めなさいと叱られて反省する…そういうことがあるわけです。素直に聞いて、関係が改善されるということがあります。
でも神さまとの関係は違います。ちょっとここを変えればOKではありません。そんな話じゃないわけです。生きる方向を変えなければなりません。それが向きを帰ることです。
悔い改めが反省ではなく方向転換であるように、罪の赦しも、私たちが何かの罪を反省し、自分を改めて、罪のない立派な人になることではありません。罪のない立派な人になるというのは、罪の赦しを必要としない人になるということです。罪の赦しは、罪人にこそ与えられます。神さまに背き逆らって生きている罪人である私たちが、神さまの方に向きを変え、赦しを乞う、その時に、神さまが恵みによって赦しを与えてくださるのです。神さまは、私たちを罪人のまま赦してくださるのです。神さまはその罪人である私たちを、罪人のままで赦してくださるのです。そのことが悔い改によって起こされる。方向を転じることによって起こされるのです。ヨハネが授けていた洗礼は、その悔い改めによって起こされる罪の赦しの印です。なぜ、そんなことが起こったのか、それは、神ご自身が来られるから、神の子が来られるからです。この神の子が来られるから、悔い改めということが語られる。そして、神の子が来られるから罪の赦しが与えられる。ヨハネははっきりすべてを見ていたわけではないでしょう。ただ彼は感じ取ってはいたのです。だからこそ、こう語ります。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
これは神ご自身が来られるということを意味します。
ユージン・ピーターソンという神学者が、
The Messsageという新約聖書を今日の言葉で届けるために翻訳された本があります。その本の中でピーターソンは、悔い改めを「人生を変える」 (チェンジライフ)と訳しています。人生がここで変えられる。キリストを信じるということは、人をちょっとましにするというようなことではありません。信仰者ではない、ある精神科医と話す機会が昔ありました。あなたは牧師さんですか、キリスト教はいいですね。心を落ち着かせてくれるから…そんなことを言われました。このひとだけではありません。多くの人たちはそのように考えます。クリスチャンの中でも福音というものが、周りの人たちよりましな人間にする、くらいのことで理解しているくらいのことのように思ってしまっていることがあります。けれども、そうじゃない。このイエスさまのことは、私たちの人生を根本的に変える。
闇から光に、死から命に変える。
天の扉が開いて、ここで、荒れ野から声が発せられたのです。起きよと。
自分自身、本当にそうだと思うのです。この方によって人生が変えられた。敗れ多き欠け多いものです。罪ある者です。しかし、根本的に人生が変えられた。それがキリストの福音であるということは言えます。
今日の聖書の箇所で発せられている荒れ野からの声、それは、ただこのヨハネの時代の人たちに発せられた声ではありません。私たちにも語りかけられている声であります。目を覚ましてこの荒れ野からの声を聞き取りたいと思います。