2025年03月09日「大きな喜び、始まる」

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大きな喜び、始まる

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マルコによる福音書 1章1節~8節(1)

音声ファイル

聖書の言葉

神の子イエス・キリストの福音の初め。
2預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
3荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、 4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
マルコによる福音書 1章1節~8節(1)

メッセージ

きょうからしばらくの間、日曜日の朝ごとに、マルコによる福音書から共に、御言葉に聴いて礼拝をささげたいと願っております。昨年の2月に、ヨハネによる福音書を読み終えて、そのあとしばらくは福音書から離れておりましたけれども、再び福音書に戻ってきたということになります。

 福音書は、主イエス・キリストがなさったこと、お語りになったことが直接に伝えられていますから、伝道者としてある特別な思い入れのようなものがあります。これまで神学校を卒業して伝道者となってから、なによりも集中してきたことは福音書を説教するということです。貧しさを覚えつつも、とにかく夢中になって続けてきて、60歳になっていることに気づいて、最近、しみじみ想うことがございます。それは残りの時間はそんなに多くはないかもしれないということです。また次の機会にということはどうも考えられない。無限に時があるわけではないからです。きょう読んだ聖書の箇所を再びまたの機会に説教する機会はもう来ないかもしれないし、むしろ、その可能性の方が高いのです。

 このことは伝道者としての私だけのことではありません。ここにいる私たちは、皆、限りある時を許されて生きている人間です。きょうのこのみ言葉を聴く機会は人生のなかでもう二度と来ないかもしれません。そのようなことを見つめることは畏れを覚えずにおれないことでありますが、そこに1回1回の礼拝を大切することも生まれてくるのではないでしょうか。聖霊の導きを祈りつつ、この福音書の言葉に聞いてまいりたいと思います。

 今朝、読みましたのはこのマルコによる福音書のはじめの箇所です。8節までお読みしましたが、今朝は特に最初の1節に集中して、次週、改めて1節〜8節を読むことにします。

 「神の子イエス・キリストの福音の初め」。

 これがこのマルコ福音書の書き出しのことば、はじめのことばです。ギリシャ語の原文では、「初め、福音の、イエス・キリストの、神の子の」となっています。日本語にすると語順がかわって目立たなくなってしまうのですが、「初め」という言葉からはじまっているのです。「初め」という言葉に強調点が置かれています。ヨハネによる福音書も「はじめに言葉があった」と同じ言葉で語りだされています。そういえば聖書の1ページ目にもはじめという言葉からはじまっています。「はじめに神が天と地を創造された」(創世記1:1)。ただヨハネ福音書と創世記はこの世のはじめのことを語っていますがマルコは「神の子イエス・キリストの福音の初め」を語っています。

 しかし、「神の子イエス・キリストの福音の初め」とは一体、どういうことでしょうか。この1節の言葉は二通りの読み方ができます。一つはこの福音のはじめ、はじまり、それはこの1章のこのあと記されていくことを意味するという読み方です。ここでこの言葉が語られたあと、洗礼者ヨハネが荒野に登場し、そして、イエスさまが洗礼をお受けになる、そして、天が裂けて、聖霊がイエスさまに降られた。さらにイエスさまは誘惑をお受けになられ、その後、ガリラヤで伝道の働きを開始されます。その時「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです。これが、このことが、イエス・キリストの福音のはじめということになります。この読み方はなるほどそのとおりだろうと思うわけです。しかし、もう一つの可能性があります。それは、この一文は、マルコによる福音書の全体をあらわしているということです。このはじめの1章15節までのことだけではなく、この福音書の全体がかかっているのです。

 古代の書物は多くの場合、最初の一文は、その書物の書名、内容を表したと言われます。だとすればマルコはこの一句でこの書物の全体で言いたいことを要約して語ったことになります。マルコは、これから、イエスさまのなさったこと、語られたこと、十字架、復活について語っていきます。最後はイエスさまの墓が空っぽだったことを書いて終わっています。それがイエス・キリストの福音の初めだというのです。

 この二通りの読み方のどちらかに決める必要もないように思います。

 いずれにしても初めがあることは、終わりがあることです。これまでになかったことがここに起こったことを意味し、私たちその中を生きているということです。この「初め」は、この福音書を読んでいる私達までつながっています。

 この福音書を書いたマルコという人が、どんな人なのかは確実なことは言えません。そもそもマルコが書いたと書かれているわけではない。ただかなり古くからこの福音書は、マルコが書いたと伝えられてきました。ちょうどこの先週、読み終えたペトロの手紙一の最後に「わたしの子マルコがよろしくと言っています」と書かれていました、そのマルコです。ペトロと深いつながりにあったマルコがだいたい紀元60年くらいに記したのであろうと言われています。そして、今日の研究では、4つ福音書があるのですが、このマルコに福音書は一番、はじめに書かれたと言われます。

 一体、どんな思いでマルコは、この福音書を記したのでしょうか。その思いは、この最初の言葉の中に込められているように思います。

 「神の子、イエス・キリストの福音の初め」。

 ある人はこの最初の言葉を次のようなことばで翻訳しています。

「ここに神の子イエス・キリストの福音が始まる」。「ここに始まる。神の子イエス・キリストの福音」。

「初め」というような名詞で終わらない。「ここに始まる」。動いている、進んでいるのです。

 そして、この動きの中に、マルコ自身が立っているのです。はじまった福音の中に生かされているのです。初めに続く「福音」ですが、日本語の漢字は見事にその意味を明らかにしてくれています。福という字は「喜び」、「音」は知らせです。つまり、福音とは「喜びの知らせ」という意味です。マルコによる福音書だけではなくほかの福音書もそうなのですが、福音書にはイエスさまのなさったことや語られた言葉、つまりその生涯の歩みが記されています。ですから、伝記、偉人伝のようなものだと受け止められることがあります(わたしもそう思っていました)が、それは違うわけです。またこうしたらもっとよく生きられるとか、こうしなさい、ああしなさいというような生活上のアドヴァイスが語られているわけでもありません。ここに語られているのは「喜びの知らせ」なのです。その喜びの知らせが聞き取られなければなりません。ではその福音とは何でしょうか。

 この福音、喜びの知らせという言葉を聞いて、聖書が書かれた当時の人たちが思い浮かべたのは、ローマ皇帝に関わることであったと研究者たちは語っています。ローマの皇帝の即位や世継ぎが誕生したときや、戦争に勝利した時の知らせです。そのときに、「福音」(エヴァンゲリオン)という言葉が用いられました。 聖書はその言葉を、用いて異なることを語っています。おそらく、それはあえてなのです。

 聖書の書かれた時代は、ローマの平和の時代、パックス・ロマーナと呼ばれます。アウグストゥスがアントニウスとの戦いに勝利してから、200年の間、大きな戦争は起こらず平穏でした。そして、ローマ皇帝の誕生日が祝われ、その即位や誕生は、福音として祝われていたのです。聖書はそういう背景の中で、「イエス・キリストの福音」を告げるのです。

 福音は、そこにあるのではないことはわかるでしょう。福音、喜びの知らせが告げられてきたが、あなたがたはそれが本当に喜びになってきたか。

悩んで、苦しんで生きている、うめきながら生きている、私たちに喜びを与えているか。そう問いかけているのです。本当の喜びは、そこではない。繁栄や成功、富、力、そういうところにあるのではないんだ。

 マルコは、言うのです。わたしはそれとは全く別の福音、私たちを本当に生かし、喜びを与える福音をあなたがたに伝えたい。

 それは神がなさったことこと。それがイエス・キリスト、この方において起こったことだ。何が起こったのか。それは神が地上に来られたということだと言うのです。天にいます神が、天を引き裂くかのようにして地上に来られた。天と地がつながった。神が、この地上に来られた。こんなことは異常なことだと思われるかもしれません。けれども、福音というのはそういうことです。

 イエスさまは、地上での伝道の働きに、「神の国が近づいた」(1:15)と言われました。神の国が来たというのは、言い換えると、福音が始まった、神の国が始まったということです。神の国というのは神の支配のことです。それがやって来たということで、神がこの地上に来られたということです。福音書は、そのことを伝えたいのです。

 神さまは何のために、この世に来られたのでしょうか。それは、神さまがお造りになったこの世界を取り戻すためです。神が造られたこの世界は、人間の罪のゆえに、神さまから切り離されてしまいました。それをもう一度、神さまはご自分のものとなさるのです。そのためには何が必要なのでしょうか。問題は、人間の罪です。この罪の問題をどう解決するかということです。神さまは、この人間の罪の解決のためにはただ一つの方法しかないとお考えになられたのです。それが罪を赦すということです。人間は罪の解決は罰するしかないと考えてきました。しかし、神さまは違いました。罪の問題は、赦し以外にほんとうの解決がないとされたのです。その罪の赦しのために、神の子であるイエスさまがこの地上に来てくださったのです。そして、この御子によって、その地上の生涯のすべて、とりわけその十字架と復活によって、罪の赦しを成し遂げてくださったのです。

 そして、今も、この神の子、イエス・キリストは、生きておられて、私たちの間に、お働きになっておられるのです。そして、やがて、このご支配、神の国はまったく完成します。これが神の子イエス・キリストの福音です。

 先ほど、わたしは「はじめに」という言葉でこの一句ははじまっていて、それは創世記と重なると言いました。マルコは壮大な視点をもって、震えるような思いで、このことを受け止めていたでしょう。2節、3節には、旧約聖書の言葉がありますが、イザヤの言葉と言っていますが、3節だけがイザヤ書からの引用で、2節は、出エジプト記とマラキ書からの引用なのです。つまり、旧約聖書の最初と、真ん中、最後が引用されているわけです。神さまのご計画がこうして、イエス・キリストにおいて決定的に実現しつつある。天地創造、以来の旧約時代がここで終わりに至った。新しい時がはじまっている。そうやって神の御業、神の働きを語っているのです。

 それにしても、神がこの地上に来られるということは、途方もなく、大変なことです。神は私たちにとってやはりわからない存在です。旧約聖書だけ読んでいたら、神は恐ろしい方ではないか、私たちは神の前には出ることはできない、滅ぼされると思うでしょう。しかし、神はそういう方ではないのです。イエスさまは、「わたしを見たものは神を見たのだ」と言われました。イエスさまという方が神をあらわされたのです。神さまは私たちのことを罰せられない、裁かれない。それどころか、私たちの罪を赦す道を開かれたのです。

 わたしたちは、色んな意味で福音、喜びの知らせを求めて生きているのではないでしょうか。しかし、耳に入ってくるのは、悪い知らせばかりであるかもしれません。戦争や災害があります。良い知らせだと思ったことがことは実はそうではなかったということがあるでしょう。生活の苦しみ、喪失、病い、死、さまざまなことが今の私たちを脅かしています。

 しかし、そんな中に生きている私たちにマルコは、聖書は、福音、大きな喜びの知らせを告げています。それは神がおられ、神が私たちの世界、この私たちをお見捨てにはならないということです。途方もない神の業が、すでにはじまっています。この福音より、大きな喜びの知らせはありません。そして、このイエス・キリストにおいて始まった、よい知らせは、今のわたしたちにも告げられています。

 ローマの信徒への手紙8章38節にはこうあります。「わたしは確信しています。 死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。

 マルコも、私たちも、この福音の中に巻き込まれて生きていることにおいて同じです。

 私たちは、この喜びの知らせをただ聴くだけではありません。それに巻き込まれて、それによって生かされるのです。たとえ色んなことがあっても、喜びが私たちの人生を貫くものとなるのです。