2024年12月15日「クリスマスの意味」
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クリスマスの意味
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- 橋谷英徳 牧師
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ルカによる福音書 19章1節~10節
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聖書の言葉
1イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 2そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 3イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 4それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 5イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 6ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 7これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 8しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 9イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
ルカによる福音書 19章1節~10節
メッセージ
アドヴェントの3回目の日曜日を迎えました。来週はいよいよクリスマス礼拝になります。そのような中で今朝、お読みしました聖書の箇所は、
エリコにおける主イエスとザアカイという人の出会いを語っています。イエスさまは、私たちの罪を背負って十字架にかかって死なれるためにエルサレムに向かっておられるところでした。エリコからエルサレムは、25キロほど離れていて、ちょうど1日の道のりでした。イエスさまは、エルサレムに入られる直前に、このエリコを通られて、そこでザアカイと出会われました。ここにはその時のことが書かれています。
ザアカイのことは「徴税人の頭で金持ちであった」と紹介されています。当時ユダヤは、ローマ帝国に占領されておりました。ローマ帝国は税金を徴収しようとして、ユダヤ人を使いました。ローマ帝国の手先として、同朋のユダヤ人から税金を徴収したのが、徴税人で、ザアカイはそのリーダであったわけです。しかも、金持ちであったとあります。ユダヤ人たちは徴税人を忌み嫌ったと言われます。自分たちの国を占領しているいわば敵国の側について、自分たちを苦しめる徴税人はユダヤ人たちにとっては裏切り者でした。徴税人は、税を余分に取り立てて私服を肥やしていたようです。ザアカイは金持ちであったとあるのもおそらくそのあたりのことを伝えているのでしょう。「盗んではならない」という律法に従って生きたユダヤ人にとってはこのようなことは言語道断のことでした。ですから徴税人は神さまに背を向けて生きる罪人、ザアカイはその頭ですから、まさしく<罪人の頭>でした。それはただ単に周りからそう見られているレッテルを貼られているというだけでなく事実、そのとおりの生き方をしていた、ザアカイはそういう人でありました。
このザアカイがイエスさまがエリコに来られると聞いて、ひと目でも見ようとして出かけていくのです。全くの暇つぶしだったのか、それともイエスさまという方に自分でも気づいていないような何かの期待、求めを抱いてなのか、そのあたりのことはなにもわかりません。とにかくザアカイは、イエスさまを見るために、人びとが集まってくるところに行くのです。人だかりがすでにできていました。ザアカイは背が低かったので何も見ることができなかったのです。そこでとっさに、彼は、通りあった、大きないちじく桑の木を見るのです。そしてイエスさまが来られるであろう場所に、走っていって先回りをして、よじ登ったというのです。結構、立派な身なりをした金持ちのいい年をした男、小賢しい、ひねくれてどうしようもない男がちょこまかと走っていって木に登っていった。そういう光景がここに描かれているのですね。そして、この小賢しいザアカイの予想したとおりに、イエスさまがやって来られたわけです。ただ、ザアカイの予想がそのとおりになったのはそこまでであった。この先は、ザアカイの予想していたこととは全く違っていた。イエスさまは、いちじくの桑の木のところに差し掛かられると、上を見上げられ、そしてこう言われます。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。
今日はぜひあなたの家に泊まりたい」(8)
これがイエスさまとザアカイの出会いです。ただ出会いと言いましても、通りがかってたまたま出会われたというのではどうもないのです。イエスさまは、このザアカイのところに一直線に向かわれています。「泊まりたい」というのは、「泊まらなければならない」、「泊まることになっている」という神さまの予定を表す特別な言葉が使われています。つまり、たまたま偶然にというのではない。そのことはイエスさまは、このザアカイの名を呼んでおられることにも現れています。ザアカイのことをすでに知っておられます。
そもそもザアカイはイエスさまを遠くから、一目見ることを願っていたわけです。ところが、イエスさまの方は違っていたわけです。御言葉は、ザアカイが求めてイエスさまと出会ったのではなく、イエスさまの方がザアカイとの出会いを求められたのだということを強調しています。
そして、その出会いというのも、出会って、少しお話しして、「はい、さようなら、また会いましょうね」というようなものじゃない。語り合って泊まってという、非常に親密な出会いを求められたのです。
こんなことを説教者が言うとなんですが、私はこのザアカイとイエスさまの出会いを語っているこの聖書の箇所がとても好きです。数えていませんが、いろんな機会に、これまで何度も繰り返して説教してきました。でも飽きないというか、何度、語っても語り尽くせませない、読む度に新しい出会いがあります。また、一人の人間として、日々の歩みの中で、この時のイエスさまの言葉が、何度も思い出されてきました、これからもそうだと思います。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。きょうはぜひあなたの家に泊まりたい」。この言葉がついてくるというか、迫ってくるわけです。
このみ言葉ほど、イエスさまとは一体、どういう方なのか。イエスさまという方の為さり方、私たちへの思いを伝えている御言葉はないように思えるのです。
10日ほど前に『八色ヨハネ先生』という昨年、出版された小説(三宅威仁著 文芸社)を読みました。とまらなくなって1日で読んでしまいました。八色ヨハネという変わった名前のキリスト者の家庭に生まれた人が主人公です。八色先生は神学部の教授なのですが、その最初のところに先生がどうして信じるようになったかを教え子に語る場面が出てきます。そこにこのザアカイの話が出てきました。信仰もはっきしないまま大学の神学部に入学したのですが、課題でこの箇所を読まされた。書かれているだいたいのことが理解できた。「へえ、ザアカイ、よかったなと他人事のように思った」その瞬間、声なき声が聞こえてきた。本の中で八色先生は、そのことを「音のない声が私の頭の中に聞こえてきた」と表現しています。今晩、泊まりに行くと言われ、断るかどうか決断が迫られ、鳴り響き続けた。
声は執拗に呼び求めた。 「お前の所に行くところに決めたのだ。私にはお前が何としても必要なのだ」従うことに決めた。そうするしかなかった。
よくわかる気がします。イエスさまのみ言葉はそういう言葉なのです。きょう、私たちがこのみ言葉を聞くということは、こういうことがおこされることなのです。ここにおられる皆さんの中にも、きょうは遠くから、ちょっと見たいくらいの思いをもって座っていらっしゃる方もおありになるかもしれません。それは求道者の人じゃなくても、長いあいだ信仰をもっている方にもそういうところがあるのではないかと思います。説教をただ聞いて、時間が過ぎていくというかどうせきょうも何も起こらない、そういう思いでここに座っておられる方もあるのではないかと思います。けれども、イエスさまの方は違います。「きょう、お前のところに行きたい。本当に出会いたい。とどまりたい」と。
きょうの箇所は、イエスさまの十字架の出来事の直前の箇所です。イエスさまのお与えくださる十字架の救いというものが一体、どういうものなのかを伝えている、そういう御言葉です。
この救いは、どうしようもない人間のための救いです。正しい立派な人のためのものではありません。ザアカイという名前には義しい人という意味がありました。私の田舎の親しい友人にも、義に生きると書いて義生という人がいます。でもそんな名前のザアカイでしたが、全く反対の人生を歩んでいたのです。神さまからも人からも切り離されて孤立して生きていました。でもそんなザアカイをイエスさまは、罪人としてではなく、ザアカイとして見て、声をかけられ、接してくださったのです。「ザアカイ」と「正しい人よ」と呼んでくださったのです。それはただそう呼んでくださったというだけではなく、神に愛されている一人の人間として人格的に接してくださった。ザアカイの周りの人も、またザアカイ本人でもそのように接してくれた人はこれまでだれもいなかった、そういうあり方で接してくださったのです。そして、その時、一瞬ではなく、一時的なことではなく、ずっと共にあるものとして、出会ってくださった救ってくださったのです。十字架の救いというものはそういうものなのです。ひとりっきりの人間をひとりにしない。神と人との交わりにいれてくださる、そういう救いなのです。
ザアカイは、急いで降りてきて、喜んでイエスさまを迎えます。そして、イエスさまを自分の家に迎え入れます。共に食事をします。そして、彼は言います。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。
このことが伝えているのは、ザアカイが神さまとの関係だけではなく人との関係においても、回復されていることを意味しています。イエスさまの救いは、十字架の救いは、私たちの人生を丸ごと救いとるのです。神さまとの関係が回復されるときつまり垂直の関係が、築かれる、そのことはただちにす人との関係、水平の関係にまでその救いは及んでいくのです。
そして、このイエスさまは、この救いをこのザアカイだけではなく、およそ、すべての人にお与えになることを強く望んでおられる、欲しておられるのです。
また、私たちはクリスマスを前にして待降節にこのみ言葉を聞いているわけです。この聖書の箇所は、私たちがこの年迎えるクリスマスとは一体、何のか、クリスマスのほんとうの意味というものを伝えているのです。
ザアカイの家で最後に、イエスさまは言われました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを探して救うために来た」。
今日のこのみ言葉は、イエスさまの十字架の救いとは何かを伝えていると共にこれ以上にない仕方でクリスマスの意味を語ってくれているように思えるのです。おかしな言い方ですが、クリスマスの聖書の箇所に出てくるのは、赤ちゃんのイエスさまなのです。「あぶう、ばぶう」くらいしか言えない。でも、ここではですねイエスさまご自身が何のために、生まれたのかを語ってくれています。イエスさまは、天から来られた、神のみ子です。その神のみ子、神ご自身が天の幕を破って、来られた。それは人を、探して救うためだと言われているわけです。そのために私は来たと言われるのです。
そう言えば、クリスマスの箇所の中に、イエスさまが誕生されるとき、ヨセフとマリアが宿屋を捜すのですが、どこにも泊まる場所がなかったとあります。それで馬小屋でお生まれにななければならなかったとあります。「泊まりたい」でも、「泊まる場所がなかった」のです。それがイエスさまです。そのイエスさまがここで、きょうはぜひ、あなたの家に泊まりたいと言われるのです。
この泊まるなのですけれども、この泊まるというのは住むといいかえてもいいように思います。住みたい。あなたの人生の中に入ってゆきたい。もっというと、あなたの中にとどまりたい。あなたの中に泊まりたい。一泊したいのじゃなくて、ずっといたい。内に住むと書いて、内住という教理の言葉があります。キリストが私の内に住んでくださるのです。
たとえばヨハネ福音書の15章でイエスさまは、わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝であると言われて、「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」と言われています(ヨハネ15:4)。また「あなたがたは自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか」(1コリ3:16)とパウロは語っています。キリストは聖霊において、私たちの内に住んでくださると語っています。そういう救いに私たちがあずかるようになるために私は来た、クリスマスに誕生した、天から来たと言われているわけです。
しかもキリストが住んでくださるのは、私たちが心を綺麗にしてから住んでくださるというのではないのですね。あるいは心を綺麗にしてから住んであげようというのではないのですね。そういうことだとすればいつまでたっても、住んでいただけない。イエスさまは、ザアカイにも、心を綺麗にしてそれから、泊まろうと言われているのではないのですね。馬小屋のように汚い、糞尿、のみやだにが巣食っているような心に住んでくださるのです。そのために来た。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」と言われるのです。このキリストは、昨日もきょうも変わりません。今も、失われた者を探して、救ってくださるお方なのです。
キリストは歴史の中でただ一度、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになり、地上の生涯を歩まれました。このことは、永遠者である神が、時間的な存在となったことを意味します。私たち人間は時間的存在であって、本来、永遠者と交わることはできないわけです。しかし、キリストが天を破って来てくださったことによって、時間的存在である私たちが永遠者と交わり、永遠の命に生かされる道が開かれたのです。ザアカイに、イエスさまは、「ザアカイ、急いで降りて来なさい」と言われました。「急いで」と。この救いを受けることこそ私たちは急がねばならないということでしょう。なんでも後回しにしがちな私たちにキリストはこう言われるのです。アンゲルス・シレジウスという17世紀のドイツの詩人がこんな言葉を残しています。「キリスト幾千度(いくちたぴ)ベツレヘムに生まれたまうとも、汝のうちに生まれたまわずば、汝はとこしえに失われてあらん」。
お祈りいたします。