2024年12月08日「神の「しかし」を生きる」
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神の「しかし」を生きる
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- 橋谷英徳 牧師
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ハバクク書 3章17節~19節
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聖書の言葉
17いちじくの木に花は咲かず
ぶどうの枝は実をつけず
オリーブは収穫の期待を裏切り
田畑は食物を生ぜず
羊はおりから断たれ
牛舎には牛がいなくなる。
18しかし、わたしは主によって喜び
わが救いの神のゆえに踊る。
19わたしの主なる神は、わが力。
わたしの足を雌鹿のようにし
聖なる高台を歩ませられる。
指揮者によって、伴奏付き。ハバクク書 3章17節~19節
メッセージ
アドヴェントはクリスマスへの備えをするとともに、再び来てくださる主イエスを待ち望みつつ信仰を新しくする時です。私たちは今、待降節(アドヴェント)のときの中にあります。今朝、お読みしました聖書の箇所は、旧約聖書のハバクク書の終わりの箇所です。ほとんど知られていない、馴染みのない聖書の言葉かもかもしれません。しかし、どうしても読みたい、ここから御言葉に聞きたい、この御言葉を心に刻みつけながら、今年のアドヴェントの時を共に過ごしたい、ハバククが語りつつ生きていることが私たちのこれからの日々の歩みの中でも起こされていく、そのようなことを願いまして、この箇所をお読みしました。
ハバクク書は、その名が示しますように、預言者ハバククが語った言葉が記されている、わずか3章の短い書物です。この書を記しましたハバククという人がどんな人だったのか、どこに生まれどこで死んだのか、預言者としてどんな働きをしたのか、そういうことについてはほとんど何もわかっていないのです。謎の預言者とも言えるような人です。また、ハバククは多くの預言者の中でユニークな存在、独特でもあります。私たちは預言者というと通りに立って人びとの前であったり、また身分の高い人たちのところに言って大胆に神さまの言葉を語った人だと思い描きます。けれども、ハバククの場合はどうも違います。ハバククは人びとでも高位高官の人びとではなく、ただ神に向かいます。そして神に問います、神に聞きます…。そういうところからハバククを「祈りの預言者」と呼んでいる人もいます。またハバククは、預言者の中では、あのヨブ記のヨブのような預言者だという人もいます。
今日、お読みしましたのは、そのハバクク書の結びの言葉です。ここにはハバククという預言者が、試練の中で、神さまに向かい、神さまの言葉を聞いて、祈りの中で辿り着いたところが、ここで凝縮して短い言葉で語られております。
先ほど、この御言葉を今年のアドヴェントの時に覚えながら過ごしてほしいと言いました。けれども、牧師として説教者として、一人のキリスト者として、実はもっともっと強い思いを持っております。ただ単にこの年のクリスマスに向かう歩みの間だけのではなく、残りの生涯の間、この御言葉を心に留めながら歩んでいただきたいのです。年頭にエンディングノートを記していただいていますが、その愛唱聖句の欄に、この御言葉を記していただくようになればと思います。否、それ以上に、この御言葉をこの通り生きた人として、これからの生涯を歩んでいただけたらと思います。私自身も一人の信仰者としてそうしたい、その通りになることを願っています。実際、この聖書の言葉はそういう言葉であります。
さて、この御言葉の始まりの言葉からもう一度、味わってみたいと思います。
「いちじくの木に花は咲かず
ぶどうの枝は実をつけず
オリーブは収穫の期待を裏切り
田畑は食物を生ぜず
羊はおりから断たれ
牛舎には牛がいなくなる」。
一度、聴いたら忘れることができなくなるような特別な響きを持っています。なんだかとても惹きつけられます。
最初に、いちじく、ぶどうの木、オリーブ、田畑…といった植物のことが、続いて羊、牛という家畜、動物のことが語られます。いずれも、パレスチナ、聖書の世界の馴染みのあるもので人びとの日々の生活を支えるものです。その人びとの日常の生活がおかしくなっている、崩壊している、危機の中にある様が描かれています。
これらの一つ一つに何かの意味が込められているのかどうかは、よくはわかりません。ただ気付かされることがあります。ここには人間は出てこなくても、人間のことが語られているということです。植物、田畑、家畜…それらのものは人間の生活と強くつながっています。人間はこれらのものに囲まれて生きていますす。植物、家畜…その先には人間がいます。ここに挙げられているものが失われてしまうときには、人間もまた失われてしまいます。これらのものが、一つの例外もなく失われてしまっているのです。
ハバククがこのように語っている背景には、神の民イスラエルのことがあり、ハバククを囲んでいた政治的な状況があります。
はじめの「いちじくの木」は神の民イスラエルの象徴です。神の民はイスラエルは、カルデア人、バビロニア帝国によって滅ぼされ、滅亡しようとしていたのです。ハバククは周りのものが次々と崩壊していくことを感じていましたし、そのことを神さまから示されて、ずっと苦悩してきたのです。そして、そのように滅亡し、崩れていくのはなぜなのかを、ハバククは知らされても行きました。それは罪の問題です。神さまとの関係が切れてしまったためです。神に背き、逆らって生きた結果なのです。
「花は咲かず」、「実らず」、「期待を裏切り」、「生ぜず」、「絶たれ」、「いなくなる」。 私たちがこの言葉に惹かれるのは、今の私たちを囲んでいる状況とも重なるからではないでしょうか。
ここを読んだときレチェル・カーソンの『沈黙の春』の冒頭の言葉を思い出されました。
自然は、沈黙した。うす気味悪い。
鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。
みんな不思議に思い、不吉な予感におびえた。
裏庭の餌箱は、からっぽだった。ああ鳥がいた、
と思っても、死にかけていた。ぶるぶるからだ
をふるわせ、飛ぶこともできなかった。
春がきたが、沈黙の春だった。
いつもだったら、コマツグミ、ネコマネドリ、
ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声で春の夜は
明ける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびき
わたる。だが、いまはもの音一つしない。野原、
森、沼地 ―― みな黙りこくっている。
1962年にレイチェルカーソンは化学薬品による自然の破壊に警鐘を鳴らして、このような言葉を記しました。
自然が破壊され、気候変動が世界の国々を襲っています。現実に「花が咲かず、実らず、生ぜず」ということが起こっています。戦争が起こり、政治の混乱が続いています。
そして、これらの一番の底には、人間の罪の問題があります。
「花は咲かず」、「実らず」、「期待を裏切り」、「生ぜず」、「絶たれ」、「いなくなる」、ある人は、周りの状況というだけではなく、これは私という一個の人間のことだと言っています。「花は咲かず」、「実らず」、「期待を裏切り」、「生ぜず」、「絶たれ」、「いなくなる」。同じことの繰り返しではなく、だんだん深刻になっていっています。神さまに罪を重ねて生きて、死ぬ、私の人生が語られている、そう読まずにおれないのではないでしょう。私たちはやがて死ぬべきものであります。そして、それまでの人生はどうか、神さまを信じて、神さまの御心に従い、期待にそって歩んできたか、そう問われたら頭を垂れるほかありません。うめかずにはおられません。
外にも内にもある罪の悲惨の現実、それを私たちは抱えて歩んでいる。この短い1節の言葉の中にそのことが映し出されています。
けれども、今日の聖書の箇所に惹きつけられるのは、そのことだけではありません。そのことに続いて18節、19節の言葉が語られていることです。
「しかし、わたしは主によって喜び
わが救いの神のゆえに踊る。
わたしの主なる神は、わが力。
わたしの足を雌鹿のようにし
聖なる高台を歩ませられる」
これは喜びの言葉、讃美の言葉です。ハバククは、心から喜んでいます。心から感謝し、心から讃美しています。
ハバククは自分を鹿にたとえます。鹿は軽い足取りで踊るように高い所を歩いています。聖なる足台とあります。どこなのでしょうか。高台とは神さまとの交わりの場所です。けれども、ハバクク書においては敵、バビロンが攻め寄せてくる見張りの場所、「砦の上」でもあります。ハバククが喜び歌っていますが、それは「花は咲かず」、「実らず」、「期待を裏切り」、「生ぜず」、「絶たれ」、「いなくなる」という荒廃がなくなったからではなりません。荒廃の現実はそのまま、変わらない。でもそこで喜び歌うのです。
どうしても問わずにおられないのは、17節と18節以下の大きな対比、違いです。17節には闇が嘆きの中で、これ以上になく深刻に語られていたのです。けれども、18節で調子が全く変わっています。「しかし」という一句で変わっています…。闇から光に、嘆きが踊りに変わっています。17節と18節の間には途方もない徐度に深い裂け目があります。距離があります。飛び越えれない程の淵があります。でもそれがここでは、「しかし」と、やすやすと飛び越えられてしまっています。どうしてこんなことが起こるのでしょうか。私たちはどのように受け止めることができるでしょうか。
常識的な言葉で説明することはできないように思います。でも言いうることは、これが聖書が語っていること、聖書のメッセージというものだということです。これが信仰の現実です。
私たちはこの聖書の箇所を、このアドヴェント、クリスマスを迎えようとしている中で読んでいます。新約聖書の福音書は主イエスが、最初のクリスマスに、この地上に誕生されたことを伝えています。そして、福音書は、イエスさまの誕生を最初に歌で伝えています。
主の母マリアは歌います。「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」。続いて口の聞けなかったヨハネの父ザカリアも、イエスさまの父ザカリアも歌います。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」、「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からのあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」。
ハバククも歌います「しかし、わたしは主によって喜び わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし聖なる高台を歩ませられる」。
似ています。
どういうことでしょうか。ハバククは、この時、先に起こること、御子イエス・キリストが来られること、神が救いの神であるがゆえに、この御子イエスにおいて救いのみわざを実現されることを、祈りの中で見出したのです。神がそのことをお示しになられたのです。つまり、ハバククは先立って、主イエス・キリストと、主イエス・キリストの父なる神と出会っていたのです。
この御子は、罪を贖うために、罪から救うために来られたのです。そのために飼い葉桶で生まれ、十字架にお掛かりになられて死なれ、復活されたのです。
このことのゆえに、ただこのことによって、悲しみは喜びに、嘆きは踊りに、闇は光に変えられます。この御子によって、「しかし」ということが起こるのです。
ハバククという人のこの言葉の中にそのことを見出させられるのではないでしょうか。それ以外に考えられません。
この信仰による預言者のハバククのジャンプは、必ずしも一瞬に起こったというわけではないでしょう。最初に申しましたように、彼は、祈りの預言者です。だとすれば信仰者としての生涯、プロセスを経て、繰り返し祈り、御言葉に聞くことによって、このように語るようになったのです。ヨブ記で、すべてを奪われたヨブは、「主は与え、主は奪う。しかし、主のみ名はほむべきかな」とありますが、私はそれがヨブが信仰深い人であったので、このように言うことができたとは全く思いません。これはヨブが紆余曲折をへて、地べたを這いずり回るようにして神さまと格闘した結果、このようにいうに至った、その過程が、ヨブ記の全体に描かれているのではないかと思っています。ハバクク書も同じです。
私たちの信仰生活も、平板ではありません。甲藤が起こってきます。なぜ、どうして、こんなことが。わけがわからなくなるこもあります。夢も希望も潰えたと思うことだってある。絶望がある。「花は咲かず」、「実らず」、「期待を裏切り」、「生ぜず」、「絶たれ」、「いなくなる」、そういう現実、荒廃の現実の中を生きねばなりません。けれども、そこに喜びが生まれる。ほんの一瞬であっても、それが神によって、聖霊によって起こされていくのです。そういうことが私たちの人生に起こされていくのです。そして、その光、喜びは、やがて終わりの日に完全なものに変えられるのです。
この神の「しかし」を私たちは具体的に生きることができます。
私たちはこのことを覚えて信仰の歩みをすることができます。
この世界の厳しく辛いニュースを聞くたびに「しかし、私は」、他者や自分自身の罪の惨めさをみる、そういうところで「しかし、わたしは」と呟いてみる、祈ってみる、そういうことができるのではないでしょうか。このアドヴェントの時、否、これからの生涯の歩みをそのように送ってまいりたいのです。