2024年11月24日「祝福を受け継ぐために」

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祝福を受け継ぐために

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
ペトロの手紙一 3章8節~12節

音声ファイル

聖書の言葉

8終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。 9悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
10「命を愛し、
幸せな日々を過ごしたい人は、
舌を制して、悪を言わず、
唇を閉じて、偽りを語らず、
11悪から遠ざかり、善を行い、
平和を願って、これを追い求めよ。
12主の目は正しい者に注がれ、
主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
ペトロの手紙一 3章8節~12節

メッセージ

わたしたちがこうして教会に生き、礼拝をささげ、御言葉を聞いている、それはなぜでしょうか。あなたは何のためにキリスト者とされたのか。誰かにそう聞かれたとしたら何と答えるでしょうか。今日の聖書の箇所でペトロは、わたしたちがこうしてここにいる理由、目的についてはっきりと語っています。「かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」。

 

 今日の聖書の箇所は「終わりに」という言葉で始まっています。終わりにというのは、手紙の終わりにということではどうもありません。この手紙はまだしばらく続くからです。

ペトロは2章11節からしばらく、キリスト者たちがどう生きたらいいのかということを、奴隷として、妻として、夫として、どう生きたらいいのかを個々の境遇に合わせて、具体的に語ってきました。それらをまとめてここで総括して、終わりにと言いまして、奴隷であれ、妻であれ、夫であれ、どのような境遇にある人であっても皆、こう生きなさいと言葉を語っているのです。そして、旧約聖書の詩篇34篇の御言葉を引用します。13節から、きょうの箇所で引用されています。

 「命を愛し、

 幸せな日々を過ごしたい人は、

 舌を制して、悪を言わず、

 唇を閉じて、偽りを語らず、

 悪から遠ざかり、善を行い、

 平和を願って、これを追い求めよ」

 少し言葉が違っていますが基本的には同じ意味です。 「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人」とあります。「命を愛し、幸せな日々を見いだしたい人」とも訳す事ができます。

 何か特別いいことがあるというのではありません。毎日、毎日、生きることの中に、たとえ病や苦難があったとしても、幸いな日々として、それを見出していくことができる。

 ではどうすればいいのか。その人は舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず…生きてみよと言われます。ここで強調されているのは<ことば>の生活です。あなたの舌と唇をどう使うのかをよくわきまえよと、御言葉は語ります。これは、悪口を言うと結局、回り回って自分に返ってくるからというようなことではありません。もっと別のことです。

 ヤコブの手紙にこんなみ言葉があります。

「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。 舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。 あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。 しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(3:2〜10)

 同じ口から賛美と呪いが出てくる。このようなことはあるべきではない、とあります。この舌で神さまを賛美して、同時にその舌で人間を呪うことはできないはずではないか。「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」。確かにそのとおりです。

 今日の聖書の箇所でペトロはこう語るのです。あなたの言葉を主に向けよ。神さまに助けを求めよ、神さまを呼べ、神さまの助けによって、あなたの言葉を主に向けよ。祈りなさい、と。「主の目はあなたに注がれ、。主の耳は彼らの祈りに傾けられる」。大切なのは言葉を主なる神さまに向けること。そのとき、幸いが見えてくるようになる。

 神谷美恵子さんという方は「生きがいについて」という本を書かれています。岡山の長島愛生園というレブラ(らい)の療養所を訪ねて人々と接した経験をもとにして書かれた本です。同じ経験、同じ苦難の中におかれても、そこでみんなが同じではない。故郷や家族、仕事から突然切り離されて生きても、みんなが自分の不幸を呪いながら生きたわけではない。不思議なことにかなりの人たちは非常に深い幸福、幸いをそこで見出されていたと言われるのです。

 今日の箇所でペトロが語っていることも同じです。迫害の時代、苦難の時代なのです。理由もなく責められたり、嫌われたり、ののしられたりしてしまう。しかし、そこで幸いな日々を語るのです。

 あなたの口で神さまを呼べ、神さまに救われて生きよ、その時、幸いが見えてくる。命の恵みを受け継ぐことが、祝福を受け継ぐことが生まれてくるというのです。

「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」。

 ペトロは、「終わりに」とここまでのことを締めくくって大切なことを語り出します。

第1に「皆が心を一つにする」ことです。これは考え方を一つにするということではありません。同じようにキリストを信じるということです。同じようにキリストを礼拝する。キリストを賛美し、信仰を告白する。そのとき一つなのです。そもそも教会はいろんな人達が集うところです。ひとりひとりみんな違います。このペトロの手紙の教会も、奴隷もいれば主人もいる、妻も夫も、ユダヤ人も異邦人もいた。境遇は違うし、考え方も違っていたでしょう。でもキリストが救い主であり、キリストが愛していてくださることは皆、同じ思いだったのです。

 「皆、心を一つにして、同情し合い」とあります。キリストに向かって心を一つにするとき、そこから同情が生まれます。お互いの境遇は違っていても、生まれ育ちや考え方が違っていても察することができます。続いて「憐れみ深くあること」「謙虚であること」が語られます。

 心を一つにする、などというと世の中では、みんなで集まって、胸襟開いて本音で語り合おうというような話になります。それは甘ちょろい理想主義です。聖書はもっとリアルなのです。人間同士では無理なのです。恵みはただ神から、キリストから来るのです。

 続いて、9節でこのように語られます。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」。8節は教会の中でのことで、9節は教会の外の人たちとの関わりが語られていると言われます。でもそのようにはっきりとわけない方が良いのではないかと思います。悪や侮辱というのは、教会の中にも起こることがあるからです。9節は、誰に対しても、例外はなくという言葉を添えて読むべきでしょう。誰に対しても仕返ししたりせずに、祝福を祈るように言われているのです。これこそまさにすべてを包括するような言葉なのです。教会の中でも外でも、職場でも、家庭でも、どこでも、こうするようにと呼びかけられている言葉なのです。

 今日の聖書の言葉を繰り返し読んでいくうちに、この9節の御言葉が突き刺さってきました。自分はこの言葉をどれだけ真剣に受け止めて生きているだろうか、そう思わずにおれなくなりました。

 この箇所の注解書を読みますと、同じことがここにもあそこにも語られていると引用されていました。その中のいくつかを紹介します。

「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5・44)

「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行いなさい」(ローマ12・7)

「だれも悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うように努めなさい」(1テサロニケ5・15)。

 これは一部です。主イエスが語られ、パウロが語り、ペトロも同じことを語っている。このことはたまたまではないでしょう。このことは事柄の重要性を指し示しています。ところがこのみ言葉を受け止めそこなっているところがあるように想うのです。竹森満佐一という説教者はこの箇所の説教の中でこんなことを語られています。

「自分にはできそうもないからといって、まるで、この教えがないもののようにしてはならない、と思います。自分にできるかできないか、ということをまず考えないで、それが大切なことことなら、大切なように考えるべきではないでしょうか。信仰生活が、あまりに常識的になって、自分たちに都合のよいところばかり取って、都合の悪いところは取らないというのでは、信仰は死んでしまいます。むしろ、自分にはどうにもならないところに、自分が信仰によって新しく生きる道があるのではないでしょうか」。

 この竹森先生の説教の言葉を読んだとき、ひっかかってきた言葉があります。「祝福を受け継ぐために召された」という言葉です。このことが召しだ、召命だということです。

 思い出すことがあります。私は22歳、大学を卒業する直前ですが、神学校に入学し、牧師になる決心が与えられました。実は少なとも、自分にとっても、周りの人たちにとっても、これは途方もないことでした。信仰もはっきりしていませんでした、勉強もできなかった、文章だってまともに書くことができなかったし、語ることもできなかったのです。自分にはできそうもなかった、慣れそうに思えなかった。そう判断せずにはおれなかったのです。教会の周りの人たちもそう想っていたと思います。事実、当時の校長は、入学してきた私を見て「これはだめだ、使いものにならない」と思ったと今でも言われます。事実、入学してすぐ1度挫折して神学校から離れています。でもなくならなかった。召命感は…。自分にはとてもできない、でもイエスさま助けてください、そう祈りながら、再度、入学し直しました。帰ってきたとき、校長は、君はきっと石にかじりついででも、何があっても召命を全うしていくのではないか、そう言われました。召命というのは、そういうものだと思っています。できそうなことをすることじゃないのです。思い切っリジャンプさせられるのです。

 今日のみ言葉も同じなのです。神さまの召しですから。できる、できないの話だとできないのです。そんなことは百も承知、だから神さまに、イエスさまに祈って生きないと言われているのです。

 やられたら、やり返す、悪口を言われたら言い返す、それがわたしたちです。でもそこにあなたがたは召されているのではない。悪口を言う人に、祝福を祈ることに、祝福を受け継ぐことにあなたがたは召されている。そのためにここにいる。イエスさまは罪あるわたしたちのために、十字架にかかって復活してくださった。わたしたちを祝福してくださった方なのです。その祝福を受け継ぐようにわたしたちを召してくださったのです。