2020年08月30日「 もうキリストを拒むのは止めよう」

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もうキリストを拒むのは止めよう

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章23節~27節

音声ファイル

聖書の言葉

イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」マタイによる福音書 21章23節~27節

メッセージ

八月最後の主の日、こうして共に礼拝の恵みに預かることができることを感謝します。主イエスの恵みと平和があるように、祈ります。

 マタイによる福音書を読み続けて、二一章に至っております。二一章では、主の受難の1週間、受難週の歩みが語られています。主イエスは、最初、エルサレムにろばの子に乗って入城され、そのまままっすぐに神殿にお入りになり、宮きよめをなさいました。さらに、そこで目の見えない人や足の不自由な人を癒されもます。そして、その翌日は、再び、エルサレムにやって来られて、神殿で、働きを始められました。主イエスは、神殿で「教えを語られていた」と今日の箇所にはあります。主イエスは御言葉を語られ、大勢の人たちが耳を傾けていたのです。そこに、祭司長たちや律法学者たちが近寄ってきまして、主イエスに言いました「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と。このように主イエスに問いかけた。問いかけというよりも尋問、詰問したというべきかもしれません。「あなたは、昨日からエルサレムの神殿にやって来て、宮清めをしたり、人を癒したり、今日のように人々を集めて教えを語ったりしている。しかし、なんの権威でこんなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」。

 祭司長、律法学者たちというのは当時の宗教の指導者、責任者です。神殿は言ってみれば彼らの縄張りです。しかし、そこで我々の断りなしに入ってきてこの男は勝手なことをしている、けしからんということです。彼らは、この神殿で霊的な権威を持っているのは自分たちであって真偽は自分たちが正しく判断、判別することができる、そう思っていました。だからこそ、このように主イエスに問うたのです。

 そして、その彼らの問いに対して、主イエスは答えられました。

「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」。

 「主は答えられた」とありますけれども、どうでしょうか。実は、主は答えられたのではなく、逆に問い返され他のです。問われて、逆に問い返された。こういうことは、ここだけではなくて、ほかのところでも、主イエスが時々なさっておられることです。

 こういうところに、信仰の大切なところがあります。

 教会を訪ねるようになられて、救いの道を求め始められる方、まだ洗礼を受けておられない方のことを教会では求道者と呼びます。道を求めると書いて、求道者。普通、その求道者の方が、救いの道を求める時に、様々な問いを持たれるわけですけれども、その方々に、教会の方は、牧師であれ、教会員であれ、ちゃんと答えてあげなくてはならない。そういうやって問いを出して、答えてもらうしかたで求道はなされる、そのように考えられることが多いように思います。キリスト教の入門書などもたくさんありますが、そういう入門書などを見てみましても、求道者の方が、抱きやすい様々な疑問に答えるしかたで書かれたものが多いように思います。例えば奇跡は本当にあったのかとか、十字架とは何かとか、そういう問いが出されまして、それに答えるしかたで本が書かれているわけです。確かにそういう道はあるわけです。私も初めて教会に通い始め、聖書を読み始めた時にいろんな疑問が起こってきまして、親しくなりました教会の方にいろんな質問をしました。その方は、親身になって一つ一つ答えていただいた。そういうことは確かにそういうことは意味を持っているわけです。

 しかしですね、信仰というものは、そうやって求める私たちの側の方が、いろんな問いを出しまして、そのことにちゃんと答えてもらう、その疑問が解消されて、そこに起こって来るのか。そこで信じるということは起こるのか。私が抱いた問いに、ちゃんと神様が答えてくださった、その答えが気に入った、だから信じようということになるのか。そうではないと言わなければなりません。

 全く逆の方向のことが起こらなければならないのです。問いを持って主イエスに近寄っていく、そうすると今日の御言葉のように逆に問い返されるわけです。問うていた自分が実は問われている存在なのだということに気づかされる。神様から、イエスから逆に問われている。

思ってもいなかったことです。そこで答えなくちゃいけなくなるのです。そこに、信仰ということ、信じるということが、起こってくる。

 聖書を読む、聖書を通して神様の御言葉に聞くということはどういうことか。それは結局、そういうことなのだと思うのです。聖書には色んなことが書いてあります。当然、そこで疑問を持つということはあるわけです。この箇所の意味は一体どういう意味かとか、救いとは何かとかですね。でもそういうことがわかったら、それは確かに意味があることですけれども、それで聖書がわかったということなるのかというとそうではありません。向こうから問いが聞こえてくるということ、問う側にではなく問われる側に身を置くということです。それが聖書に聞くということです。聖書は読むものではなく聞くものなのです。読むというのは主体がこちらにあるわけですけれども、聞くという時には主体は、私たちの方にはない。聖書のほうに、聖書を通して語る神様のほうにあるわけです。

 話は求道者の方だけのことではないということにきっと気づかれて行っているのではないかと思います。そこで何よりも自分自身が問われている存在なのだということがあるのですけれども、私たちはそのことをすぐに見失ってしまいます。問いを抱いて問うという形だけではなく、ああして欲しいこうして欲しいという求めということもございます。神様に、イエス様に私たちはあれこれと求めます。求めて良いのです。今日の聖書の箇所の直前にも、求めるように語られています。それは許されていることです。けれども、そこで実は自分がいつの間にか、求めてばかりになって、問われている存在だということがが見失われてしまうということがあります。

 申し上げたいのは、今日の箇所に登場します。祭司長や律法学者の姿は私たちの姿でもあるということです。彼らはどうして主イエスにこのように問うているのでしょうか。

 教会には猫が時々、現れます。そして、猫は時々、喧嘩します。ものすごい時もあります。ご存知のように猫には縄張りがあるのです。自分のテリトリー、領域があって、そこに侵入者、他の猫が近くと怒るのです。ここは自分の縄張りでよそ者は絶対入れないと言って毛を逆立てて怒るのですね。

 ここでの律法学者たち、彼らは神殿は、自分の場所。ここは私の縄張り。だからそこに断りなしに入ってくるものは許さないというわけです。だからこれは尋問なのです。ここは自分たちの場所で、自分たちこそが良いか悪いか、すべて判断することができる。そうやって振る舞っているのです。でもそういうところに、主イエスというお方は入って来られるお方なのです。私たちも、自分の心の中にそういう神殿を建てていることがあります。この私の人生は自分の縄ばりであって、そこで神がおられるかどうか、救いがあるかどうか、自分で決めることができるとどこかで思っているようなところがあります。この祭司長や律法学者の姿は、私たち人間のおぞましさというものを映し出しているように思います。それと同時に、そういうところに主イエスというお方は入ってこられる方だということが語られています。

 ここで、主は問われて、逆に問い返されています。ご自身の権威について問われたわけですが、主が問われたのは、洗礼者ヨハネのことでした。

 洗礼者ヨハネの権威は、天からのものか、人からのものか、そう問われました。ヨハネは主イエスがお働きを始める前に、先にヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けた人です。多くの民衆がヨルダン川で洗礼を受けたのです。ヨハネは捕らえられて、後に首をはねられて殺されました。このヨハネは、なんの権威があってあのようなことをしたのか? 天からか、人からなのか。そのように問われました。その時に、彼らは顔を見合わせて話し合い始めます。

 「天からのもの」だと答えると、どうして信じなかったのかと問われる。「人からのもの」と答えると、ここにいる群衆たちからの支持を失ってしまう。群衆は、ヨハネを神様の遣わされた預言者と信じていたのです。だから群衆が怖い。どっちに答えても行き詰まってしまう。だからこう答えようと言って、「分からない」と答えたというのです。

 東京恩寵教会の牧師であった榊原康夫先生はこの箇所からの説教で、この「分からない」を、「わかろうとしない、結論を出したくないということだ」と言い換えておられます。自分の縄張り、自分の身が守られればそれで良いのです。そのために問いを避けて逃げたということです。ここにこそ、神、神の恵みに対する人間の姿があるのかもしれません。おろかしいことだと思います。榊原先生は、この箇所のあとのたとえでは、彼らは、主イエスがたとえで語られた時には、ちゃんと答えている。客観的にはわかっていた。でもいざ自分のことpになるとそうはいかなかったと言われています。

 もう少しいうと、答えは一つしかないということがわかっていたのです。つまり、ヨハネの権威は天からのものだったということは実はわかってたんじゃないか。でもそれを認めたら、自分の立場、自分の場所を失う。自分の罪を悔い改めなければならなくなる、変わらなければならなくなる、生き方を変えなければならなくなる、それは嫌だ。だから 「わからない」と言った。そう考えることができるのです。

 今日の聖書の箇所には、「権威」という言葉が繰り返し用いられています。あるひとは、現代社会には色んな問題があるけれども、その問題の根底にはこの「権威」の問題があるというのです。権威、霊的な権威というものが失われてしまっている。そのためにいま、この世界はおかしくなっている。しかし、この点で、聖書の立場はとてもはっきりしている。権威は人間にあるのではない。神に、主イエス・基督にこそある。それが聖書が語っていることです。特にこのマタイによる福音書はこのことをはっきりと語っている福音書です。

 五章から七章には山上の説教があります。その山上の説教の終わりには、まとめの句として、「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(二九〜三〇節)と。ここでは主イエスが権威ある方として語られています。権威ある方としての主イエスが証しされています。

 さらに九章一節以下には、ひとりの中風の人が連れられてきまして、主イエスがこの人を癒されたことが語られています。けれども、主イエスはこの人をただ癒されたのではありません。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われたとあります。そして、その上で、さらに「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われたとあります。この箇所はとても大切でして、主イエスが権威をもっておられる方であること、さらにその権威がどんな権威なのかということが語られています。地上で罪を赦す権威であることが語られているのです。殺す権威ではない。審く権威でもない。この権威は罪を赦す権威だというのです。そしてさらに、マタイによる福音書の最後、二八章一七節で、復活された主イエスはこう言われるのです。「わたしは天と地の一切の権能(権威)を授かっている」と。こうしてみますと主イエスの権威は、マタイによる福音書のテーマの一つなのです。その権威をめぐって、ここで語られています。

 そして、この権威は、私たち人間には厄介なことでもあるのです。なぜなら、私たちはみんな自分自身が権威を持っていたいからです。自分の人生、特に信仰のことは自分の問題だ。自分で判別をつけたい、自分で決めたい。救いはわたしが見出すものだ。そういう面は確かにあるわけでしてそれはそれで、大切なことでもあります。けれどもですね、同時にそこに大きな問題もあるわけです。罪の問題があるのです。認めなくない。神様の前にキリストの前に抜かずきたくない、そういう根深い思いを私たちは皆、持っています。でもそこにキリストは来られた。そして、十字架にかかられて死なれたのです。その十字架はなぜ、起こったのかというと、この権威のことがあるわけです。神の権威、キリストの権威、それを絶対に認めたくない。だから最後、キリストを殺すというところに行き着いたのです。そしてその罪を私たちは持っている。そして、いまも、人間はこの権威を自分の欲しいままにしてですね、この世界を無茶苦茶にしてしまっているわけです。

自然破壊や戦争、この世の問題はここに行き着くわけです。

 でもキリストはあきらめない。追い出されても追い出されても、入ってこられる方なのですね。そして、頑なな私たちを憐みによって救ってくださった。十字架の死によって私たちの罪を贖い、この罪の支配から解放してくださった。そして聖霊を注いで、キリストの前にぬかずくものとしてくださったのです。だからもうキリストを拒むことはやめにしたいのです。

ルドルフ・ボーレンという神学者がおられました。ボーレン先生は、その生涯の間、何度か日本に来られました。その時の感想を日記に残しておられます。あるときの日本訪問の時にこんな感想を書かれているそうです。日本人はなかなか自分の意見を言わない。モジモジしている。なぜか。「日本人は、うっかり口を開いて面目を失することがあったら困ると考えているのではないか」。そして、続いてこう記されているそうです「信仰に生きている人間は面目を失う自由を持っている。信仰に生きる人間は、そこで自分が面目を失することがあっても、自由でいられる」。

 「面目を失う自由」、この言葉が忘れられなくなりました。深い洞察だと思います。恥の文化ですね。でも信仰を持つ時、恥をことからも自由にされる。ここに登場します祭司長たちも同じなんです。そして、私たちみんなに思い当たることがあります。なかなか自由になれません。人の目が気になる。こんなことしたらまわりの人にどう思われるかとか、ばかり。でもそこで神様がここでどう見ておられるか、神様が何を問うておられるかは、遠くに言ってしまうのです。

 そういう私たちに対して、今日、主イエスは、「あなたがたはわたしの問いかけを聞いてご覧。本当にあなたに必要なことは何か。あなたは私の権威を認めて、私の前に身をかがめてご覧。罪を認めてご覧。その罪を私が赦す。十字架で私があなたの罪をすべて贖うから。私の権威は地上で罪を赦す権威なのだから」。そう言われるのです。

 私たちは 救いに預かりながらも、神様にも主イエスにも、問いかけてばかりかもしれません。そんな私たちを、ご自身のもとに招き、罪を認めて、赦しを乞いつつ額ずくものとしてくださいます。主の権威のもとに生きていくものとしてくださいます。その時に面目を失う自由をいただいて私たちは歩んでいくことができます。