2024年11月03日「美しい人に」

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美しい人に

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
ペトロの手紙一 3章1節~6節

音声ファイル

聖書の言葉

1同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。 2神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。 3あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。 4むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。 5その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。 6たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。ペトロの手紙一 3章1節~6節

メッセージ

 今日の説教の題は、「美しい人に」としました。この説教題は、カトリック教会のシスターとして岡山でノートルダム清心女学院で学生たちの教育に携わっておられた渡辺和子さんの書かれた「美しい人に」という本の題から取ったものです。

 渡辺さんが繰り返して語り続けておられたことがあります。それは美しい人とは、どういう人のことなのかということです。渡辺さんは、こう言われます。「美しさと、綺麗さとは違う」ということです。

 「綺麗さ」というものは生まれながらのものであったり、あるいはまたお金で買えるものだったりする。たとえば、化ける(化粧)というようなもの。

 しかし、「美しさ」はそうではない。それは生まれつきのものではない。それは人生の中で育てていくものだ。自分を見つめてながら、人生の旅路の中で経験することの中で、育まれていること。綺麗さというのは目に見える、外側のものだけれども、美しさは、目に見えない内面のことだとおっしゃられるのです。今の世の中では綺麗さばかりに人の目はいきがちだけれども、美しさにもまた目を向けたい、心の化粧をしよう。そんなことを言われました。

 今日の聖書の箇所でペトロはこう言います。3節、4節です。

「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです」。

 ここでもまた綺麗さではなく、美しさに価値が置かれていることがわかります。

 ペトロは、2章11節から教会に生きる、キリスト者たちにどう生きたら良いのか、具体的な生き方を勧める言葉を語っています。

 2章11、12節で全体を包括する言葉をまず語ります。「異教徒の間で立派に生活しなさい」とありますが、この言葉は、次のように訳すこともできます。「異教徒の間で、美しい生活をしなさい」と。立派という言葉は、美しいという言葉でもあるのです。このように語られまして、個々の具体的な生き方の勧めが語られ始めます。

「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」(2・13)

「召使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい」(2・18)

そして、今日の箇所です。最初にこう語られます。「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい」(3・1)。

 当時の教会には、さまざまな立場の人たちがいました。召使い、主人も妻や夫、独り身の人もいたでしょう。こうした、それぞれの立場の人たちに、事細かに生き方マニュアルとしてことばが語られているわけではありません。それはきりがないし、必要ないことだったのです。そんなことをしなくても、ペトロが語りたいことは読み勧めていくうちにわかってくるからです。ペトロがどの立場の人にも、強く勧めていることがあります。それは、「仕えること、従うことです」。今日の箇所の最初に、「同じように、妻たちよ」とありますが、「同じように」というのは、召使いと同じように、ということです。そして、今日は読みませんでしたが、7節に夫への勧めが語られるところでも「同じように、夫たちよ」と語られます。それは召使いと同じように、妻と同じように、という意味です。

 ここを読んですぐに気づかされることは、妻への勧めの言葉に比べて、夫への勧めは極端に短いということです。聖書も、やっぱり男性に甘い?差別している、封建的・保守的だと思われる人もあるでしょう。

 けれども、どうもそうではないのです。夫への言葉が極端に短いのは、この召使いへの言葉、妻への言葉が語られてきて、もうわかるでしょうということなのだと思います。

 ですから、今日箇所では妻に対してだけ語られているというのではないのです。ここで妻について語られている中で、実は夫についても語られているのです。家族の関係にしても、妻と夫というだけではなく、親子の関係というものも、祖父や祖母との孫の関係もあります。人間の関係というものは広がりをもっています。そういう中でペトロは、ここで、みんなキリスト者は、仕えるということに召されていると語っています。この仕える生き方の中に、神さまがお求めになっておられる「美しさ」があるということになります。美しい生き方が、従う生き方、仕える生き方です。そして、ここではそれが「無言の行い」とも呼ばれています。

「同じように妻たちよ。夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」。

 キリスト教は「言葉の宗教」と言われます。言葉を語ることの大切さを強調します。福音を伝えることは、言葉によってなされると言います。聖書を、聖書のみ言葉を語ることを重んじます。それが伝道です。だから今日も、こうして、説教によって御言葉を聞いています。しかし、今日の箇所では、「無言の行い」ということが語られます。無言の伝道、無言の説教ということが語られています。キリスト者は、そうやっても美しい生き方を通して、神さまの御用に役立つようにもなる。神さまを、キリストの救いを証しして生きることができるというのです。

 当時、このペトロの手紙が書かれた教会、小アジアの教会には、婦人たちが多く集っていた。そして彼女たちの多くは夫が異教徒であったのではないか。そして、悩んでいた。当時の時代状況のなかで妻が夫とは異なる信仰を持つことへの風当たりは強かったでしょう。「教会に行って、こんなことを聞ききました。こんな救いがあるのです。あなたも一緒に教会に行って、イエスさまを信じましょう」なんて言えなかった。言うことは許されないことだった。どうしたらいいのかということになります。そこでペトロは語るのです。御言葉は、あなたを美しく装ってくれる、このみ言葉を生きなさい、み言葉を聞いて、あなたの夫に仕えて生きてごらん。そうすれば、きっと伝わるからと言うのです。

 これは昔の話なのでしょうか。私は今の日本の社会においても似た状況はあるのではないかと思います。言葉が通じない、そういうことを経験させられることは夫婦の関係でも、親子でも、友人たちや近隣の人々、街の人たちとの関係の中にもあるのではないでしょうか。「あなたは神を信じますか?」というのが昔、笑い話のように語られていましたが、闇雲に語りかけても意味をなさないのです。伝えたい人がいる、しかし、伝えられない、そういう悩みがあります。そんな時どうするのか、ペトロは、美しい人となって生きよ、仕えて生きなさい、無言の行いを生きよというのです。しかし、それはどういう生き方なのでしょうか。

 5、6節には、具体例があげられています。

「その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。 たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです」。

 サラはアブラハムの妻でした。アブラハムと共に、行く先を知らずに旅立ち、あるときは飢饉にあって、エジプトにまで逃れました。約束の地を指し示され、神を信じ、神の約束を信じて、その生涯を全うしました。年老いてイサクを生みましたが、アブラハムと共に地上の旅を全うし、最後はヘト人の地に葬られました。アブラハムを主人と呼んで、仕えて歩みました。聖書は、このサラについて、こう語ります。「神に望みを託した聖なる婦人」、そして、「善を行い、また何事も恐れなかった」。これが仕える人、美しい人の姿です。おどおどしたり、怯えたりしながら、卑屈になって仕えて生きたとのではありません。また逆にいきり立って生きたのでもないのです。実に毅然として生きています。自由な人としてただ神の望みをおいて生きた人なのです。

 4節には、「柔和でしとやかな気立て」という言葉が出てきます。この言葉は、「柔和で、しとやかな霊」という言葉です。以前の口語訳も新しい聖書協会訳も、気立てを「霊」と訳しています。神の霊、神ご自身である聖霊のことです。気立てというと、どうしても生まれ持った性格ということになりますがここではそうではありません。神の霊、聖霊が、働いて、その人をそのようにしていくのです。そして、主イエスの働きに用いられる。

 きょうの御言葉から言うと、聖書の語る本当の美しさ、神の御前で価値ある美しさは、人間が自分のちからで作るものではないのです。人から来るのではない、聖霊によって与えられるもの、聖霊と御言葉によるのです。

 無言の行いは、無言の説教、無言の伝道と言いました。それは言葉を語らないで証しをすることです。しかし、それは御言葉はどうでもいいということじゃない。反対です。聖霊に導かれ、聖書の言葉にあずかり続ける時に、それがわたしたちの中に宿るようになって、とどまるようになって、美しい人とするのです。そのことを信じて歩んでご覧というのです。それは完全、パーフェクトで欠けや破れのない生き方ということではありません。失敗があります。惨めな部分があります。それを認めて、主イエスの前に繰り返しぬかずいて生きるのです。主イエスは、わたしたちのために十字架にかかって死なれました。ののしられてもののしりかえされなかったとあるとおりです。その主の赦しに、その愛にあずかって生きるのです。神に望みを託して生きる。そのまま、夫の前で、人々の前で生きていく。そういうことであります。

 この聖書の箇所を読んでいましてどうしても思い起こされてきた一人の人のことがあります。それは小説家の三浦綾子さんのことです。キリスト者の文学者です。多くの病を抱えながら、キリストのことを証しされた小説家のひとりです。私はこのひとの本を読んだのがきっかけで教会に通い始めました。まだ若い日に、この人の講演会に行ったことがあります。どんな言葉を聞けるのかと言うこととともに、それ以上にこの人と会ってみたいと思ったのです。紹介されて、拍手と共に三浦さんがアイヌのチョッキを着て姿をあらわされました。用意された椅子に腰掛けられて話し始めた時のことは今でも記憶に残っています。私が本を読んで抱いていた印象の人とはずいぶん違った人でした。違和感がありました。繊細な優しい人と思っていたら、どうもそうではなかった。強い意志をもった自由な人でした。そこにいたのは、じろっと見られるとぎくりとするようなまなざし、強くて厳しい凛とした人でした。実はその時はなんだかがっかりしたのを覚えています。でもずっと記憶に残っています。失礼かもしれませんが、きれいな人ではなかった、でも美しい人だったと今、改めて思います。神に仕える生きる人、イエス・キリストによって形つくられる美しい人…。神に望みを託して生きた人…それは女性とか、男性とかそういうことに限定されません。今の日本の社会に生きるわたしたちに、今日のみ言葉は極めて大切な意味をもっています。この御霊と御言葉に導かれて、美しい人にされて、福音の恵みを生きて、この主イエスの救いをこの地に証しして生きていこうではありませんか。お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神さま。外側、外面ばかりに心奪われて生きることからわたしたちを自由にしてください。御霊と御言葉によって、わたしたちを美しい人につくりかてください。今朝もわたしたちにキリストの愛、赦しの恵みを新しくお与えください。そして、この場から出ていくところに待つわたしたちの家族や友人たち、この街の人たちに、あなたの救いの恵みが伝えられて生きますように。主のみ名によって祈ります。アーメン