2020年08月23日「なんという空しさ」

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なんという空しさ

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
コヘレトの言葉 1章1節~11節

音声ファイル

聖書の言葉

エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。
コヘレトは言う。なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。
日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る。
風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。
何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。
昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも
その後の世にはだれも心に留めはしまい。コヘレトの言葉 1章1節~11節

メッセージ

激しい雷雨の主の日となりました。今までもありましたが、このようなことは久しぶりです。 本日から、夕べの礼拝では、旧約聖書のコヘレトの言葉から御言葉に聞いてゆくことになります。雷の鳴る日に、今日のコヘレトの言葉を聞いたなあとおぼえていただければ幸いです。

 最初に一節の言葉に注目しましょう。1節には、「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とあります。これはこの書の表題、今でいうと本の表紙のような役割を果たしている言葉と言えます。

 「コヘレト」というのは、「集会を司る者」という意味です。集会で神さまの知恵の言葉を語る者、伝道者、説教者と言えます。集会とは、神の民の集まりです。今で言うと神学校のようなものだったかもしれません。コヘレトは、ただ一人で孤高の中に生きたのではなく、集まりの中に生きた人です。彼は世を儚んで山に籠って生きた仙人のような人ではなかったのです。そうではなくむしろ、神の民の共同体で、兄弟姉妹と共に生き指導的な役割を果たした人でありました。

同時に彼は、神の真理を探求することをやめなかった求道者でもありました。「真理はあなたがたを自由にする」とあるように、コヘレトはそれゆえに、その時代の中にあって自由を与えられて生きた人でした。

コヘレトがその探求によって見出したことがこの書には記されています。彼が記しましたことは、聖書に広がりを与えています。

コヘレトの言葉は、「ダビデの子」、つまりソロモンの言葉とされていますが、今日では、ソロモンの名前によって、バビロン捕囚の後、紀元前3世紀から2世紀に記されたと考えられています。こ

の時代は、国家的な危機の時代、苦難、試練の時でした。言い換えますと、人が今までの生き方とは異なる新しい生き方を見出してゆかねばならないときでありました。その時代に、人の生きるべき道を神さまに問い、求めてコヘレトは言葉を語ったのです。それは今の私たちにも意味を持ちます。今の時を生きる私たちがコヘレトの言葉に聞き学ぶことは意味があるのです。

本文が2節からはじまります。

「コヘレトは言う。

 なんという空しさ

 なんという空しさ、すべては空しい」

この語りだしの言葉はとても広く知られております。この言葉に惹かれて聖書を読み始める人も多いのです。しかし、一体どういうことでしょうか。

「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」。

聖書の言葉がこんな言葉からはじまるとは、いったい、どういうことでしょうか。実は、コヘレトの言葉は、このような言葉が記されているがゆえに、歴史の中で、その正当性が絶えず疑われてきました。

そもそも信仰とは、すべてが空しいと言って生きていたところからの解放ではないのでしょうか。神に出会い、その救いにあずかったとき、空しいとは言わなくなるのではないでしょうか。しかし、コヘレトはそうは言いません。静かに呻くように語りかけます。

「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」。

しかし、この言葉から私たちは、神さまの言葉を聞くこと、霊的な養いを受けることができるのです。

この言葉は、コヘレトの言葉において非常に重要です。

結びである12章8節では、「なんと空しいことか、とコヘレトはいう。すべは空しい」。「空しい」ではじまり、「空しい」で終わっています。サンドイッチのように括られているのです。

そして、この「空しい」という言葉は、途中にも何回も登場します。「ヘベル」と発音される言葉ですが、この言葉は、この書物全体の中で、なんと38回も用いられています。つまり、コヘレトが言いたいことがこの言葉に込められているのです。

しかし、誤解しないようにしたいのです。

それはコヘレトが語る空しさとは、私たちが普通に用いる空しさということとは違うということです。コヘレトは虚無主義者ではないのです。私たちの人生、生きていることには何の意味もない、すべては虚無だと言っているのではないのです。

「空しい」ヘベルいう言葉は、日本語に翻訳することがとても難しいのです。

この言葉には、「儚い」「無意味」という意味が確かにあります。しかし、それだけではなく、「束の間」「一瞬」という、時間的な短さをも意味しているのです。

小友聡という牧師、神学者の方がおられます。この方はコヘレトの言葉をずっと研究してこられた方です。この方がこのコヘレトの言葉で空しさという言葉は「ほんの束の間」という言葉で理解することができるというのです。

「すべてはほんの束の間のことだ」とコヘレトは言っているというのです。

つまり、コヘレトは、人間の人生を静かに見つめています。生きることに絶望しているのではありません。死を見つめつつ、命の短さを嘆いているのです。

私たち人間の命は、100歳まで長く生きても、若くして死んでも、ほんの束の間、一瞬のことである。そして、コヘレトはだからその命はどうだっていい。どうなったっていいと言っているのではなく、ほんの束の間、一瞬なのだから、だからこそ、そこでどう生きるべきかを問うています。

創世記4章にはアダムの子としてカインとアベルという人類最初の双子の兄弟が登場します。しかし、カインはアベルをねたんで殺してしまいます。最初の殺人です。殺されたアベルの人生は、短く一瞬でした。そのアベルの人生が、「ヘベル」です!。アベルはヘベルです。けれども、ヘベルは、アベルだけでのことではありません。人間である私たちみんなそうなのです。問題は、その短い、一瞬の時をどう生きるかです。いかに生きるか、それを真剣に問うているのがコヘレトなのです。

人間の弱さ、もろさ、儚いことを見つめつつ、それでも神がおられ、神によって生かされることを彼は願っているのです。ですから、コヘレトのテーマは、生きるということです。小友先生は、「それでも生きる」とコヘレトの言葉について記した書物に題をつけておられます。

つらいことがあっても、どんなことがあっても、死というものがあっても、どんなことがあっても、それでも生きよ、与えられた人生を生きよ、日々を生きよ、そう語っているのが、コヘレトだというのです。

それは今の私たちにとって、ここに集っている人たちだけではなく、この今の時代に生きるすべての人達に意味をもっていることなのではないでしょうか。

しかしながら、同時にコヘレトには、限界がありました。彼は死を超える命、復活の命をまだ知らなかったのです。

1章9~10節「太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった」。1章14節「わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」。

 この世には、新しいものは何もない。なにも起こらない。コヘレトは、円環的、循環的な歴史観をもっていたと言われます。輪廻転生に近いともいわれます。でも私はどうもそういう風には言えないと思っています。

この世には新しいものは何もない。つまり、コヘレトはこの地上には、人間には救いはないということを見つめているのです。

宗教改革者のルターはこう言います。

「たしかに人間を見る限りは、日の下に何も新しい事はない、

 だが新しい事がいつも、神の側から起こってくる」。

 コヘレトは、人間がどんなことをしても、何をしても人間を救うことはできないということを明らかにしたのです。救いはただ神から来る!と

 

「なんという空しさ

 なんという空しさ、すべては空しい」

 すべては束の間。

 これが私たち人間の世界です。

 でもだからこそ、そこに、「空しい」「束の間の命」のもとにキリストが天から神のもとから、この地上に来てくださったのです。

 経済も政治も、どんな偉い人も、自分自身もまた救いは与えられないのです。

ペトロはこんなことばで説教をしました。

「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章10~12節)

 コヘレトもまたこのキリストの救いを伝えています。