2024年07月21日「主イエスの恵みに囲まれて」
問い合わせ
主イエスの恵みに囲まれて
- 日付
- 説教
- 橋谷英徳 牧師
- 聖書
フィリピの信徒への手紙 4章15節~23節
音声ファイル
聖書の言葉
15フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。 16また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。 17贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。 18わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。 19わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。 20わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
21キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。 22すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。 23主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。フィリピの信徒への手紙 4章15節~23節
メッセージ
しばらくの間、日曜日ごとにフィリピの信徒への手紙から御言葉に聞き続けてきましたが、きょうはその終わりのことばです。まず15節から20節で前の箇所から続いて贈り物へのお礼を述べられています。続いて21節からは「よろしく」という親しい挨拶と共に、「主イエスの恵みがあなたがたの霊と共にありますように」という祝福が述べられています。手紙の終わりにこのような挨拶と祝福が語られるのはただ儀礼的なことではありません。パウロは教会に集う人びとのことを覚えて、思いを込めて言葉を語っているのです。パウロの手紙は、礼拝のなかで朗読されたようです。この手紙のことばも朗読されたのです。「主イエスの恵みがあなたがたの霊と共にあるように」。この言葉が最後の言葉でした。この手紙の言葉を聞いた教会の人びとは、本当に主イエスの恵みを思い起こし、この主イエスの恵みに生きよう、そう願ったでありましょう。実は、この手紙のはじめ1章2節には、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように」と語られていました。やはり「主イエス・キリストの恵み」についてはじめにも語られていたのです。また、はじめ1節にも、最後にも、「キリスト・イエスに結ばれている」という言葉が出てきます。今日の説教の題を、「主イエスの恵みに囲まれて」としました。この手紙が、「イエスさまの恵み」に囲まれているからです。
パウロという人が伝えたいのは、主イエス・キリスト、この方のことであり、この方の恵みであることがこういうところからもわかります。パウロ自身このイエスさまの恵みに集中して生き、また教会の人びともまたこの恵みに生きるように、キリストに結ばれて生きるように願って語っているのです。
しかし、この終わりの部分は、ある意味では当然の終わり方ではありません。この終わりの部分に来て、この箇所が礼拝で朗読されたときに、おそらく教会の人たちは少なからず違和感を抱いたり、驚いたりしたのではないかと思われるのです。それは普通では教会では通常では使われない言葉、商売上でのやりとりに使われていた、会計用語が用いられていたからです。
最初の15節では貸借勘定という言葉が使われています。「物のやり取りでわたしの働きに参加した教会」という言葉は、岩波訳では、「どの教会も物を与え、与えられるという貸借勘定を私と共有してはくれなかった」と訳されています。16節の「贈り物」は、支払いという言葉、「あなたがたの益となる豊かな実」は、「お金を貸して利子を得る」という意味です。口語訳の聖書では、「わたしが求めているのは、あなたがたの勘定を増やしていく果実です」と訳されています。18節には、「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています」とありますが、ここでもやはり商売の言葉で「全額受領しました」という言葉になっています。
このような商売の言葉を使うのは信仰のことを語るのにはふさわしくないとも言えるかもしれません。しかし、パウロはこのような商売の言葉を確かにあえて使っているわけです。しかもこのような言葉が結びの大切なところで出てくるのです。それは、金銭というのをパウロが大切なこととして語っているということであります。
今日でも、一般的に言うと、教会でお金の話というのは、どことなく敬遠されることです。私自身、説教者として、説教で、金銭の問題を取り上げにくいとやはり思ってしまいます。ある意味でこれは理解できることです。
1週間の間、わたしたちは金銭のことであくせくして生きているわけです。家計のやりくり、貸借勘定、もうけるとか損するとか、そういう生活があるわけです。せめて日曜日の礼拝のときぐらいはそういうことはどこか置いておきたい、どことなく願うわけです。そういうお金の勘定の話は信仰とは別のことにしておきたい、そう思うわけです。そこまでではなくとも、ものすごく大事なことだとは思わないということがあるのではないでしょうか。献金ですね。それが必要なことだということはわかるにしても、それほど大事なことpだとは思っていないところがあるのではないでしょうか。けれども、聖書は、パウロは、どうも違うのですね。ここまでキリストの恵みについて、救いについて語ってきたのですが、その結びのところ、キリスト者の教会の生活の大事なところで、お金の話、ささげる話をするのです。それは、このキリストの恵みというものが、ここにまで至る、およぶのだということです。またこの種のことが、信仰と結びついている、切り離されないことだということであります。これはイエスさまも同じでしてやはり富、お金の話を語られています。「金持ち」が登場しますし、富の話が出てきます。また、実際、わたしたちの教会でもそうですが、礼拝の中で献金というものが最後にあるわけです。献金は礼拝の中にあるわけです。このことがお金のことは、信仰のこととつながっている、信仰の本質に関わるということを伝えてくれていることなのです。
このとき、パウロは獄中にありました。フィリピ教会はたいへんな状況にあったパウロを支えるために、エパフロディトに託して、支援物資と献金をおくったわけです。この手紙でパウロは、受け取ってそのことを主にあって喜んでいることを伝えているわけです。それはこの手紙を書いた一つの理由でもあります。でも、ただ受け取ったことを伝えているだけではなく、やはり、ここで牧師、伝道者として伝えるべきことがあると考えているわけです。
パウロはここで、最後に至って、語り始めます。あなたがたは物やお金を、牢獄にある私に送ってくれた。本当にありがたい、感謝し感激している、ありがとう!というのではありません。
「あなたがたは物やお金を献げましたね。そうすることによって、あなたがたの利子は増えましたよ。あなたたちは得しました。あなたがたは勘定を増やしました。あなたがたのささげたものは、届きました。はい、これが領収書です」。
ちょっと極端かもしれませんが、こういうことを書いているのです。
パウロは、こういう商売のことば、普段人びとが日常生活で使っている言葉であえて語るわけです。パウロが、指し示しているのは、天であります。このフィリピの信徒への手紙では天のことが語られています。「あなたがたの国籍は天にある」「あなたがたの本国は天にあると」(フィリピ3・20)。その天とあなたがたの地上の生活は結びついている。あなたがたがささげたもの、それは天に届いている。天で受け入れられている。利息が天に蓄えられた。領収書が発行されていますよ。そういうことを言いたいわけです。
前回も申しましたが、この聖書の箇所は、「感謝なき感謝」と呼ばれるのです。感謝しているでしょうけれども、パウロは直接、フィリピの教会にお礼は言わないのです。パウロは、天と、天にいます神さまに、教会の人びとを結びつけたいのです。教会の人たちに目を向けてほしい、天にいます神さまに、天に。
パウロは、自分との関係だけでとらえないのです。このことにおいても、いやこの金銭のやりとりにおいてこそ、神さまとの関係、イエスさまとの関わりのなかでこのことを捕らえて、また同じように、教会の人たちにもそのことを求めているわけです。
これはわたしたちにとっても大事なことです。献金にも使い道があるわけです。教会の維持とか、牧師を支えるとか、災害にあった教会を支援するとか…。もちろんそういうことがあるわけですが、でも根本にあるのは神さま、イエスさまなのです。
今日の箇所を読んでいて、イエスさまの教えの言葉が思い出されてきます。「19あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 20富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 21あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6章)。
パウロがここで望んでいるのも、このことです。パウロとフィリピの教会というのは非常に親しい、つながりの深かった。でもそれが、人間的なつながりにとどまらず、それを超えるものとなることをひたすら願っているわけです。
そのことをもっともよく表しているのは18節の言葉です。「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」。
私は、確かに受け取った。けれども、それは神に届いている。しかし、それは神へのささげものであり、あなたがたがささげたものは神に喜ばれているというのです。香りというのは御香の煙ですね。香を炊くと煙は上に登っていって消えて見えなくなる。そういうことであります。
どうしてもここで語らなければならないことがあります。今日、たとえば新興宗教の中にやはり献金の問題というものがあります。
例えば、あなたが今、病気をしているのは、あなたの先祖のたたりだ、だから供養のために〜出しなさい、そうすれば救われるとか、これだけ献金したら良いことがあるとか、そういう話があるわけです。お金をたくさん払って、幸福を得る、救いを得る、そういうことがあるわけです。キリスト教会でも似たようなことが歴史の中で起こりました。宗教改革の時代にも、罪から救われるためにはお金を払って、免罪符を買うように伝えられました。
パウロが言っていること、聖書が語っていること、それは決して、そういうことではないことは明らかです。
ここでささげたもの、お金が天にあって受け入れられるというのは、それで病気をしないし、災いにあうことなどないということではありません。
また、お金をささげてあるいはモノを送って、それで救いを勝ち得るということではありません。パウロが、この手紙で繰り返し語り続けてきたことは何かということを思い起こせばそのことは明らかではないでしょうか。それは、キリストの恵みであります。わたしたち人間が救われるのは、全くの恵みによるということです。主イエス・キリストの恵みです。
この手紙の真ん中でパウロは当時の教会で歌われていた賛美歌を引用してこう語っていました。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。
「十字架の死」という言葉だけは賛美歌の言葉ではなくパウロが加えたものなのです。この十字架の死こそ、中心なのです。イエスさまがわたしたちの罪のために十字架で死んでくださった、そのことによって、わたしたちは罪を赦され、救われるのです。言い換えるならば、それがパウロがはじめと最後で、念を押すようにして語る、主イエス・キリストの恵みということです。わたしたちはただこの恵みによって救われるのです。
ではささげもの、献金はどういうことなのでしょうか。何を意味するのでしょうか。それは、この恵みへの感謝なのです。感謝のささげものなのです。
わたしたちは礼拝の度に、聖霊の導きによって、このことを思い起こし感謝するのです。そしてこの恵みへの感謝はただ心でというだけではなく、わたしたちの全生活をもってあらわされていくのです。
恵みによって救われる。キリストの恵みを強調することは人間を甘やかし、だめにするのではないかと言われることがあります。でも、断じてそうではありません。逆にこのキリストの恵みがわかったら、わたしたちの生活が生き方がかわるのです。ご飯の食べ方までかわると言った人がいます。お金の使い方までにこの恵みは届くのです。お金、富というものはわたしたちにとって一番、痛いところです。まさに、ふところが痛むというように、非常に大事な部分です。そこにまでキリストの恵み、その支配が及ぶのです。わたしたちがそういうところで解放されていくということであります。
商売の言葉をあえて使いながらパウロは、この世の損得勘定の中にではなく、天の恵み、キリストの恵みに生きよというのです。損得というのは、単にお金のことだけではないでしょう。わたしたちの生活すべてです。うまくいかなかったり、いったりする、わたしたちの生活です。病気をしたり、苦難にあったり、人間関係で傷ついたり、そういうことがあるわたしたちの生活、そこで神の恵みに、天にある恵みに生きよということです。
「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」
親しい、ある年配の恩師にあたる牧師がこの御言葉について、説教の中で、こういうことを言っておられました。「この言葉を自分の人生の最後の言葉にしたいと思っている」と。「ただ神にのみ栄光を」。私もそうありたいと思います。皆さんもそうではないでしょうか。結局、ここではないでしょうか。主イエス・キリストの救いの恵みがあります。この恵みがあなたがたにありますように。