2020年08月23日「疑わないで信じて祈ろう」
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疑わないで信じて祈ろう
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- 橋谷英徳 牧師
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マタイによる福音書 21章18節~22節
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聖書の言葉
朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」マタイによる福音書 21章18節~22節
メッセージ
主の日の朝を迎えて、共に御言葉に聞くことに導かれました。まず初めに、主の祝福と恵みを祈ります。
うだるような暑さの続く一週間を過ごしました。激しい疲れを覚えながら日々の歩みをなさったのではないでしょうか。けれども、ほんの少しですけれども、朝晩には秋の気配も感じるようになっていることも感じています。今年の夏も終わろうとしています。今年も、教会の裏庭にはいちじくの木に実が実り始めています。この教会には、ぶどうの木も植えられていますがいちじくもあります。いちじくの木は、この礼拝堂の中からも見ることができます。
今日の聖書の箇所にも、いちじくの木が登場します。しかし、今日の聖書の箇所では、いちじくの木は実を実らせておりません。そのために、主イエスがこのいちじくの木を呪われ、この木はたちまちにして枯れてしまったというのです。実を実らせられたのではなく枯らされた。私たちがたじろいでしまうようなことがここで語られております。
マタイによる福音書は、二一章から受難週の一週間のことを語っています。主イエスが苦しみをお受けになって十字架にかけられ、復活されるに至る一週間の歩みがここから語られていきます。一節から一一節には主イエスがエルサレムにろばに乗って入城なさったことが語られ、続いて一二節からは主イエスは神殿に向かわれ、宮きよめの出来事をなさいました。主イエスはエルサレムを出られ、その晩は近くのベタニアの村にお泊まりになられたようです。それが受難週の1日目のことでした。
そして、翌朝、早く、再び都に戻られた。エルサレムに向かう途中の道でのことです。主イエスは突然、空腹を覚えられ、道端のいちじくの木に近寄って実を探されますが、葉のほか何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、その木はたちまちにして枯れてしまったというのです。
私たちをたじろがせ、困惑させるようなことです。いちじくの木を枯らすなんて、主イエスらしくないと思われるかもしれません。そもそも、この時は、過越の祭りの季節で、春の季節です。いちじくが実るのは夏の終わりですから、実っていないのは当たり前です。それなのに、実が実っていないと言われて、枯らされるのは理不尽だとも言えます。ずいぶん昔から、多くの人たちが、この聖書の箇所に当惑してきました。そして、当惑しつつも、なお問うてきました。このようなことが聖書に記されているのにはきっと意味がある、その意味は何だろうかと。私たちも今日、このことの意味をここで尋ねたいのです。このことを通して、一体、何が私たちに語られているのか、そのことを聞き取りたいのです。
そこでまず、注目したいのは、主イエスが空腹を覚えられ、その実を探されたということです。「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた」。主イエスが飢えを覚えられたというのです。ここでの主イエスの飢えはただ文字通り、お腹が空いたということを意味しません。霊的な飢えであります。主イエスはエルサレムにやってこられたところです。いちじくの木は、神の民イスラエルの象徴です。その実を探されたのですがそこには実が実っていなかったのです。実は、ここに、私たちが忘れてはならないことがあるように思います。実際、この前日に、主イエスが神殿に行かれると、そこで主イエスが見出されたのは、人間中心の信仰のあり方でしかなかったのです。そこで実りを見出すことがおできにならなかったのです。いやもう少し広い視点で読みますと主イエスはここまで御言葉を語り続け、救い主としてのお働きを続けて来られたのです。そしていよいよ、エルサレムに来られて、終盤の時、総決算の時が来ようとしていたのです。そこで実りを探された。しかし、実りが見つけることがおできにならなかったのです。霊的な実りが見出されるべきところで、何も見出すことができなかった。葉は確かにあった、青々と茂っていた、見た目には…。けれども、実はなかったのであります。
旧約聖書のエレミヤ書八章八節にはこんなみ言葉が語られています。
「わたしは彼らを集めようとしたがと、主は言われる。
ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは彼らから失われていた」。この前の五節には、「どうして、この民エルサレムは背く者となり、いつまで背いているのか。偽りに固執(こしゅう)して、立ち帰ることを拒む」。神様はエレミヤの時代に、民に悔い改めて立ち帰ることを求められたのですが、立ち帰らなかったのです。神様はぶどうの実、いちじくの実を探された。しかし、それを見出すことができなかったのです。主イエスも同じです。悔い改めの実を探されたのですがそれがなかった。
主イエスが「空腹を覚えられた」ということ。このことを私たちは忘れてしまっています。私たちは自分の飢え、空腹には敏感でしょう。一食でも抜けば、お腹が空いた〜とうめきます。でも主が空腹を覚えられるということについてはほとんど考えようとしないのです。主は空腹を覚えられる方であります。そして、私たちのうちに実を探されるのです。私たちが主のもとに立ち帰って生きること、悔い改めの実
を求めておられるのです。今のこの時もそれは変わりません。そのように、私たちは、その人生の中で主から問われているのです。今日も問われています。そしてその時に、主イエスに対しては私たちはごまかしが効かないのです。真実の「実」を実らせているかが、問われます。葉ばかり繁らせていてもダメなのですね。その意味で、神様からの恵みを受けるということには厳しさがある。責任があるということを思います。また同時に、そこで、ああダメだなあと思うのではないでしょうか。ここまでの信仰の歩みの中で、何の実も実らせることができなかったと思うのではないでしょうか。
この時の主イエスの弟子たちはどうだったのでしょうか。
「今から後、いつまでも、お前には実がならないように」、そのように語られて、いちじくが枯れていく様を目の当たりにして、弟子たちは、驚いたとあります。そして、弟子たちは、どうして、こんなにもすぐに枯れていったのかとすぐに主イエスに問いました。弟子たちは、
もしかすると、この主の飢えがよくわからなかったのかもしれません。ですから、ただただ、いちじくの木が枯れたことにこの現象そのものに驚くばかりでどうしてたちまち枯れてしまったのかと問うたのです。
その時、主イエスはお答えになられました。この答えは、考えてみればものすごく不思議な答えではないでしょうか。主イエスは、ここでそのまま弟子たちの問いにはお答えになってはおられません。
「いちじくは、神の民イスラエルで、彼らは立ち帰ることなく悔い改めの実を実らせなかったから滅びる、そういうことだ」と説明されたのではありません。そうではなく、ここで、主イエスはこう言われました。 「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは、何でも与えられる」。
主イエスは、神への信仰について、またお祈りについて語られます。
ここでの主イエスの言葉は、私たちにとってはわかりにくいところがあります。けれども、一つ、確かなことがあります。それはここでの主イエスのお言葉は、弟子たちへの励ましの言葉です。弟子たちは、自分たちが実を実らせているかと問われると、私たちは大丈夫です。実を実らせていますと胸を張って言えたかというとそうではありません。実を実らせることができていませんでした。でもその弟子たちに対して、
主は、「お前たちも、実を実らせなければ、このいちじくの木のようになる。だから気をつけなさい」そう言われたのではありません。あなたたちにはできない。あなたたちも枯れるほかないと言われたのではなかったのです。「あなたたちはできる」そう言われた。「あなたがたも信仰を持って疑わないのなら、この私が今、行ったようなわざをすることができる。否、もっともっと大きな業を行うことだってできる。あなたがたは山をも動かせるんだ」。疑わないで、信じて、祈ってごらんなさい。あなたたちも実を実らせる者となる。
主イエスがここで私たちに求めておられること、それは私たちが審きを恐れてビクビクしながら恐れて生きることではありません。信仰を持って疑わないで生きていくことです。あるいは信じて、祈る者として生きていくことです。
今日の御言葉で、主イエスも、明るい望みを持って、弟子たちに私たちに語っておられるのです。なぜでしょうか。弟子たちも私たちも、その実を実らせることなどできず、たちまちにして呪われて枯らされてもしょうがないものなのです。でもそんな私たちに対して、主は望みを失っておられません。なぜでしょうか。
それは主イエスが、これからなさることと関わっていることです。主イエスは今、どこにおられますか。エルサレムにおられます。何のためにエルサレムに来られたのでしょうか。苦しみを受けて、十字架にかけられて殺され、三日目に復活されるためでした。
マタイによる福音書二一章は、主イエスの十字架において何が起こるのかということを語っています。今日の箇所の前には、「祈りの家」について語られていました。主イエスが十字架にかかられ、死なれることによって祈りの家が建てられるのです。神様との関係が回復されるのです。今日の箇所でも主イエスの十字架の死によって、神さまとの関係が回復されて、疑わないで信じて、祈ることができるようになる。そこに悔い改めの実が実らされていくようになる。疑わないで信じて祈れば、その通りになる。「信じて祈るならば、求めるものは何でも与えられる」。主は最後にこう言われました。これは私たちが欲しいものは何でも祈って手に入れることができるということでしょうか。ご利益宗教のインチキな教えと同じことでしょうか。そうではないことは明らかです。
マタイによる福音書が語っている、私たちが求めるべきものは主の祈りに語られていました。そしてこの主の祈りの中心は罪の赦しです。この赦しが与えられるということです。そして赦しが与えられることによって神のもとに立ち帰り、悔い改めの実りが与えられていくのです。それは必ずくださるものなのです。求めて祈る時、それは惜しむことなく与えられます。
罪の赦しが与えられる、十字架によって私たちの罪が赦される。そのことは疑ってはいけません。信じて祈ればいいのです。
若い日に、神学生の時に、こんなことがありました。ミッションスクールの聖書研究会をしていました。月に高校の先生二人と学生さんたちが五人、ほど出席をされていました。短いメッセージをして語り合うのです。ある時、ひとりの生徒さんが、自分は罪人であることを思う。生きていること自身が罪だと思う。悩んでいるということを打ち明けて語られました。わたしが、どう答えたらいいのかわからないまま、まごまごしていますと、お一人の先生がこう言われました。「そうなんだ。でも神様は私たちの罪を赦してくださる。そのことはね。疑ってはいけない」。
忘れられない瞬間でした。その時、喜びが広がりました。ここでもなじです。
今日もそのように、私たちは招かれています。疑わないで、信じて、このことを祈りなさい。私たちが祈るこの祈りは聞き届けられるのです。山も動くのです。あなたの罪は赦されました。そう言ってくださいます。
その時、私たちの生き方は変わってきます。悲しみは喜びに、嘆きは踊りに変えられます。もはや枯れることはない。枯らされることはないのです。枯れるべきもの、呪われ、枯らされ他のは主イエスご自身であったのです。こんな私たちを生かすために主は十字架にお係になったのです。感謝を持ってこの週も歩みましょう。
お祈りをいたします。