2024年06月16日「人生のゴールはどこにあるの?」

問い合わせ

日本キリスト改革派 関キリスト教会のホームページへ戻る

音声ファイル

聖書の言葉

1では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
2あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。 3彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。 4とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 5わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 6熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 7しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 8そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 9キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
フィリピの信徒への手紙 3章1節~11節

メッセージ

 伝道者パウロが獄中からフィリピの教会の人たちに宛てて記しました手紙の言葉を読んで礼拝をささげています。今日の箇所はこんな言葉ではじまっています。「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」。「主にあって、喜びなさい」とは「主の恵みのご支配の中で喜べ」、「主に結ばれて、喜べ」という意味の言葉です。一体、何度、この手紙の中で同じことが語られてきたでしょう。この言葉は飾りの言葉ではありません。喜びということこそ、今日の聖書の箇所の主旋律です。「主にあって喜べ」、このことこそ決定的なことです。

 

 続いて、「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」。「注意しなさい」、「気をつけなさい」「警戒しなさい」、日本語では異なる言葉に訳されていますが、原文では全く同じ言葉が使われています。「気をつけなさい」「気をつけなさい」「気をつけなさい」と三度、語られます。

「見よ」とも訳せるブレペインという言葉です、この言葉が先頭にあって強調されています。崖のある道で、ほら、危ない!落ちるな、よく足元を見よ、というような言葉です。

 パウロが、獄中にあった間に、教会にパウロの伝えたこととは異なる、ユダヤ主義的なキリスト者、ユダヤ的キリスト者と呼ばれる人たちが入ってきて影響を教会に与え始めていたのです。外からユダヤ教の人たちが入ってきたと言うのではなく、教会の内部にそういう人たちが来て、教会でパウロが伝えていたこととは異なることを伝えていたと思われます。

 彼らの教えは簡単に言うならば、「イエス・キリストを信じて洗礼を受けるだけでは足りない。割礼を受け、旧約聖書の律法を守ることをしなければならない」というものでした。要するに信仰だけではダメだ、神の恵みだけではダメだ、それプラス、人間の業も必要というものでした。パウロはいつになく激しく、ここでその人たちを非難しています。「あの犬ども」、「よこしまな働き手」、「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」…「主にあって喜べ」と語ったあとの言葉には激しさがあります。

 なぜ、こんなにも激しいのか、それはこの教えが、福音の根幹に関わることに関わっ異たためです。

 彼らの教えは、ある意味ではよくわかるものでした。キリストの恵みだけではダメ、人間のわざも必要、これは人間にとってわかりやすい、ああそうか、その通りだと思ってしまいかねない。しかし、そこに落とし穴があった。パウロはだから、気をつけよ、この教えに従ったら、あなたたちの喜びが失われてしまうと言うのです。ここでの問題は、一言でいうならば、人間の「誇り」です。人はいつも誰でも何かを誇っていたいのです。

 ここでこのように語っていますパウロも、ひとりのユダヤ人として誇ることができるものをたくさん持っていました。それが5節から数えています。合計六つです。最初の三つは、自分の努力なしに受け継いだものです。彼は生まれて8日目に割礼を受けたユダヤ人でした。さらに、ユダヤでは名門とされたベニヤミンの一族の出です。イスラエルの初代の王がこの部族から出ました。また彼はタルソという外国で生まれ育ったにも関わらず、厳格なユダヤ人の伝統の環境の中に生まれすだったヘブライ人の中のヘブライ人でした。続いて語るのは自分の努力によって勝ち得たことを挙げています。彼はファリサイ派に属しました。非常に厳しく律法に従って生活した。ここには書かれていませんが、ガマリエルというユダヤ教の世界では一流の先生の弟子として教育を受けました。また、彼は非常に熱心でした。どれほど熱心だったか、それはキリスト教会を迫害するほどだった。確かに教会を迫害したことは、彼にとって痛みでありましたが、その時は熱心であったからそうしたというのです。かつてはそのこともまた彼にとって誇りであったということです。そして、最後にパウロはこう言い切ります。「律法の義に継いては非のうちどころのない者でした」と。

 どうして、こんなことを語るのか。それは、ユダヤ主義的キリスト者たち、よこしまな働き手たちが、自分を誇っていたからです。自分が割礼を受けていること、そして律法を守って正しく生きていることを誇っていたからです。「誇る」ということ、それは別の言葉で言い換えると「頼みとする」「信頼すること」です。問題は、何によって生きるか、何により頼んでで生きるかということです。パウロは、このような誇りにより頼んで生きることを、「肉に頼む」と言い換えています。フィリピの教会の人たちも、そのような教えを聞いて、人間の誇りにより頼み始めていたのかもしれません。だからこそ、パウロは、さらにこう語ります。7節、8節です。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」。すごい言葉なのです。「塵あくた」という言葉は、以前の口語訳聖書では「糞土」と訳されていました。上品な言葉に訳されていますが、直訳すると、「クソだ」という言葉です。今まで価値があると信じていたものが、糞のようなものになったというのです。なぜか、それは、キリストを知ったからというのです。パウロは、「キリストについて知った」とは言わない。「キリストを知った」。キリストと出会った、キリストに救われた。それは自分に誇るべきものがあったからではない。全くの恵みによって、キリストによって救われた、キリストの光に照らされた、というのです。その時、もはや今までより頼んできた人間的な誇りはいっさい無に等しいものになった。これは頼みになる、光だと思っていたものが、全然、そうではないものであることがわかった。要するに価値観が変わったということですね。

 

 こういう喩えがいいのかどうかやや疑わしいのですけれども、悩んだ末、お話しすることにしますね。私たちが、美濃太田の教会で30数年前に牧師の働きを始めました時に、故郷の家族が来てくれたことがあります。その時に、関の鰻屋さんに行ったのですね。そして、みんなでうなぎを食べました。食べたとき、妹だったと思うのですが、「美味しい」といってものすごく喜ぶわけです。「今まで食べた中で一番、美味しい。もうスーパのうなぎは食べれんなあ」と…。今でもよく覚えています。私たちは誰でもすごく美味しいものを食べますと、今まで普通に食べていたものが色褪せてしまうわけです。変化してしまうわけです。パウロがここで言っていることもそれと似ています。いや、もっと凄まじいわけです。キリストの光に照らされ、その救いの恵みの素晴らしさを知りますと、今まで、これこそ大事だと思っていたものが全然、違うものとなってくるわけです。それまで、生まれながらの自分の出自とか家柄とか、自分で勝ち得た努力、学歴とか職歴とか経歴とかですね、そういう頼みがなんというものではないということが見えてくるわけです。価値観が全く変えられるわけです。

 「キリストを知ることのあまりの素晴らしさ」と言っています。これは、すごい言葉、強烈な言葉なのですね。パウロは回心した時に、ダマスコというところで、天からの光に照らされたとほかの箇所に書かれています。おそらくその時のことを思い起こしているのではないかと思います。この光は、キリストの恵みの光なのでね。この光こそ、キリストを知ることの素晴らしさと言ってもいいでしょう。この天からの恵みの光に照らされた時に、いろんなことが明らかになった。見えなかったことが見えるようになった。自分が生まれながら持っていたもの、自分が勝ち得たもの、そういうものが実はより頼むに全く値しないものだということを悟らされたわけです。それらのものが糞だということがわかったというのです。

 けれどもですね、人間は弱くて、そういうもの肉のものというのは、見て確かめることができるものでそういうところに立とうとするのですね。これは何かを誇るということにだけ表されるのではありません。自分にはそうしたものがない。だからだめだということ形でも現れてくるのですね。キリストを知っているはずのキリスト者であっても自分の経歴、学歴、出自、自分の勝ち得た目に見えるさまざまなもの寄り頼んで生きようとすることがありうるわけです。あるいはそれがないことで劣等感に苛まれてしまう。いずれにしても、そこには地上のことしかなく、救いはない。また喜びというものはないわけです。 しかし、パウロは、そこだ、そこにあなたがたは立ってはならない。だから気をつけよ、よく見なさい。あなたたちが見るべきは、キリストだ!というのです。

 「キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」。

 義とは、認められ肯定されることを意味します。人は誰でも義とされ、肯定されてはじめて生きることができる存在です。だから、私たちは、認められるために、いろんなことをして生きているわけです。パウロも、かつては、この義のために、涙ぐましいばかりの努力をしてきたのです。律法を守って「自分の義」を求めてきました。しかし、今、キリストを知った。キリストの恵みは、人間の功績によらず、ただ信じて感謝して受ければいいのです。すなわち、「信仰に基づいて神から与えられる義」なのです。今や私はここにしっかり立つ。あなたがたもここに立て。キリストの恵みに…。

 そして、今日の箇所の最後でこう言います。

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。

 ここで「達する」というのは到着するという言葉です。パウロは人生を旅に喩えて語ります。人生は、苦しみに満ち、死に至る旅路であるが、復活という究極の目的地があるのです。「なんとかして復活に達したい」。ここで復活のことが語られるのはいささか唐突であるように思われるかもしれません。でも今日の箇所で語られてきたことと復活のことは、離れがたく結びついているのではないでしょうか。パウロがかつて頼みにし、また私たち人間が頼みとしがちなもの、それが生まれながら与えられたものであったとしても、自分で努力して得たものであったとしても、それは地上のことに過ぎません。人間のものというのは、墓場まではいけるかもしれません。でも墓場どまり。しかし、神の恵み、復活の恵みは墓を突破するのです。「わたしの主キリストを知るあまりのすばらしさ」。「あまりのすばらしさ」というのは、4章7節の「〜を超える」と同じ言葉で、超越したもの、決定的なものを表します。ある神学者は、「圧倒的勝利」と言い換えています。つまりキリストが、罪と死に圧倒的に勝利されるお方だあということです。その方を知ることはあまりに素晴らしい。

 

先日、説教の学びの場で、説教とは何かということが話題になりました。一人の牧師さんがふと「説教は、超越的なことを語ることです」と静かに言われました。そのことが心に残りました。つまり、地上のこと、人間があれをしろとかこれをしろとか、成功とか失敗とか、そんな話をすることではない。超越的なこと、永遠のことを語ること。聖書というものがそういうものなのです。「なんとかして死者の中からの復活に達したい」。これが究極の目的です。だとしたら、その時、人間的なもの、肉に頼むことはできません。ただキリスト以外にありません。

 「なんとかして」というのはパウロの口癖であったようです。(3章2節、ロマ1章10)。「なんとかして何人かでも救いたい」(1コリ9・22)。このなんとかしてには、神の思い、キリストの思いがあるのではないでしょうか。

キリストもなんとかしてわたしたちを救うために十字架にかかってくださった、そして復活してくださった。なんとかして、死者からの復活のゴールにまで導かれたいのです。だからこそ、私たちもこの地上ではなく、ここに人生のゴールを定めて生きていくのであります。キリストのすばらしい恵みに立ち続けて。