2024年06月09日「主イエスのまなざしを私にも」
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主イエスのまなざしを私にも
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- 橋谷英徳 牧師
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フィリピの信徒への手紙 2章19節~30節
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聖書の言葉
19さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。 20テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。 21他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。 22テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。 23そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。 24わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。
25ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、 26しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。 27実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。 28そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。 29だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。 30わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。
フィリピの信徒への手紙 2章19節~30節
メッセージ
フィリピの信徒への手紙は、牢獄に囚われていましたパウロが、フィリピの教会の人びとに宛てて書き記した手紙です。この手紙の言葉を日曜日ごとにはじめから私たちは読み続けて、2章19節に至りました。
きょうのこの聖書の箇所に書かれていますことは、非常に具体的なことです。パウロは、自分の傍にいたテモテとエパフロディトという二人の人の名前をあげて、彼らをフィリピの教会に遣わすことを伝えています。パウロはそのことに伴って自分の思いを伝えていまます。手紙らしい、非常に具体的な用件が記されている箇所です。ここまでの箇所とはずいぶん違っています。教え、教理の言葉、神学的な非常に深い真理を指し示す言葉がここまで語られてきました。でも、そういうことばはきょうの箇所には見いだすことはできません。だとすれば、当時のフィリピの教会の人びとにとってはたいせつなことであっても、今日のわたしたちにとってあまり意味のない付録のようなところになるのでしょうか。決してそうではありません。まったく逆に、こういう生活の匂いがするような箇所、こういうところでこそ、私たちが聞くことができること、見出すことができることがあるように思います。キリストを信じて生きたパウロが、どう生きたのか、その生き様、具体的な、ものの見方です。
ある人は、天上のこと、地上のことがあって、ここでは地上のことが語られていると言います。その地上のことは、天上のことと深く関わっているわけです。パウロはそれを切り離さずに生きていた、そのことを見出させられるのです。この地上の歩み、生活をどうすれば良いのかをここで共に、問いながらきょうのみ言葉に聞きたいのです。
まずパウロは、テモテについて語っています。テモテは、小アジアのリストラの出身で、父親はギリシャ人、母親はユダヤ人でした。そのような家庭で育って、幼い頃から聖書に親しんで来た彼はやがてキリスト者となりました。まだ若かったのですが、その地域のキリスト者の中で評判の良い人でした。そのような彼を、伝道旅行のときに、パウロが見出し、伝道の旅に同労者として、連れていくのです。そしてフィリピの教会が誕生したときにも、テモテはパウロと共にいたのです。そして、パウロと共に伝道の旅を続け、今、獄中にパウロが囚われたときにも、傍にいたのです。おそらく、テモテはパウロのあれこれの世話までしていたでしょう。パウロにはなくてはならない人です。そのテモテを、あなたがたのもとに遣わすというのです。
19節にはこうあります「さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています 」。
23節にも「そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています」とあります。
「自分のこと」とはパウロが受けていた裁判のことです。パウロが、テモテをフィリピの教会に遣わすのは、教会のことが心配だったからです。迫害もありましたし、教会の中にも人間関係の問題もあったようです。そういう教会のことを心にかけていたわけです。テモテが行くことを通して、教会の人たちは、テモテからパウロの様子を聞いて安心することができますし、パウロもまたやがてテモテが戻ってくるとフィリピの教会の人たちが苦難の中でも信仰に立ち続けていることを知って力づけられるからです。
そして、パウロは、このテモテについてこう語っています。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」(20節)。そして、そのようなテモテと対比して「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」(21節)と続けます。このことはつまり、テモテは、他の人たちと違って、イエス・キリストのことを追い求めているということです。テモテは、教会の人びとを愛している人でした。その一人ひとりを親身になって思っている人でした。そして、自分のことではなく、キリストのことを追い求める人でした。ここにパウロの言いたいことがあるのです。パウロは、教会を親身になって心にかけること、自分のことではなくキリストのことを追い求めることを。これは異なる2つのことではなく、つながっていることなのです。
最初に読んだときパウロは周りの他の人たちを批判しているのかと思ったのです。でもどうもそうではないのです。でもよく考えるとショックなことですが、人間は根本的に自分中心なのです。みんな自分のことしか頭にないのです。しかし、テモテには違うことが起こっていたのです。キリストを追い求めていた、だからこそ教会の人たちのことを心が思うということが…。私たちは生まれながらどうしても人を本当に愛せないのです。いつも気づけば、自分のことしか求めていないのです。人のことを親身になって思っているように見えても、実は、自分の利益、自分のことばかりなのではないでしょうか。でも、そんな私たちが、イエス・キリストを追い求めるというときにですね、そこから変わってくるのです。パウロ自身がそうだったのです。イエス・キリスト、この方を知った、そのとき、彼は本当に人のことを心にかけ親身になっていったのです。イエス・キリストによらなければ、私たちはどうにもならないのです。言い換えると、私たち人間の努力とかそういうことじゃあ、本物にならないのですね。偽物にしかならない。だから、きょうも私たちはこうして礼拝しています。それはキリストを追い求めることなのです。そのとき、信仰者の生き様、生きる姿が変わってくるのです。またパウロは「テモテが確かな人物であることは…」とも言っています。確かな人物というのは、試みを経た、火で練り清められたという意味の言葉です。テモテとパウロは年がはなれていました。父と子であり、教え教えられるもの、先生と弟子です。しかし、パウロは、テモテを共にキリストに仕える者(僕)、そのことにおいて同じ立場だと言っています。テモテはわたしに仕えているとは言っていません。神学校の校長が神学生時代にしょっちゅうこんなことを言われていました。「卒業して牧師になったら、あなたたち同労者になる」と。そして実際、卒業した途端に校長は、私のことも「橋谷牧師、橋谷先生」と呼ばれるようになりました。言ってみれば、先生と弟子、親分・子分の関係にはならないわけです。同労者、同じ目線と言いますか、そういう関係になって接してくださり続けています。先生と生徒、先輩・後輩とか、固定的なものじゃなくなると言ったら良いでしょうか。あまり他には例のない関わりというのが教会の交わりにはあります。それは信徒と牧師、皆さんそれぞれの関係とも関わっています。立場とか、年齢とかそういうものを超えてキリストに共に仕えていくのですね。これはとても大きな恵みです。いずれにしても、パウロは、イエス・キリスト、この方を通して、すべてのことを見ているとがわかります。別の言い方をすると、イエス・キリスト、この方のまなざし、そのまなざしですべてを見るということですね。そのときすべてが変わって見えてくるわけです。
次に25節からは、今度はエパフロディトと言う人が登場します。このひとについても全く同じことが言えるわけです。余談になるかもしれませんが、エパフロディトという名前は、アフローディアというギリシャの女神から取られた名前だそうです。ギリシャ人の異教徒だった人がキリストを信じる者になったことがわかるわけです。そのとき、名前を変えていないのですね。異教の神さまの名前だからだめだとかそういう具合にはなっていないのですね。それはともかく、この人はフィリピの教会から獄中のパウロの身の回りの世話をするために派遣されてきていた人だったようです。教会で祈られてパウロのもとにいった。けれども、そこで病気になってしまったのです。しかも大変、重い病気を患った。一時はいのちにもかかわる状態だったようです。けれども、幸い、病気は回復に向かった。27節でこう言います。「実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました」。
つまり、パウロの世話をするはずだったエパフロディトは、逆に世話をされることになった。助けるはずのものが助けられることになってしまったのです。エパフロディトはそのことを気に病んでいた。 「しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです」とあります。ひどく落ち込んでいたわけです。パウロはそのエパフロディトをフィリピの教会に戻そうとしていたわけです。25節には「ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています」とありますが、 28節には「大急ぎで彼を送ります」とあります。「送る」と言う言葉は、実は「遣わす」と言う言葉なのです。テモテに使われていた言葉と同じ言葉です。そして、このエパフロディトのことをこう呼びます。「彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました」。
29節では「主に結ばれた者」と呼び、さらに最後に30節ではこう言います。「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」。そして、戻ってきたエパフロディトを教会の人たちに受け入れてほしい、否、心から歓迎してほしいと心から願っているわけです。エパフロディトの身になって、牧会的な配慮をして、こういう言葉を語っている、そう言えるかもしれません。けれども、それだけのことではないと思います。まして、なんかうまいことを言って気にしないでいいよというようなことを言っているのではないのです。これがパウロの見方なのです。つまり、本当にこう見えているのです。人間的な見方であれば、失敗だった。だめだったということになります。でも、パウロは、そう見ていないのです。エパフロディト、このひとは、「主に結ばれた者」、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。「彼のような人を敬いなさい」。
ここでもやはりパウロはイエス・キリストなのです。この方を信じることの中で生きて、そこで人を見ている。キリストのまなざしで一切のことを見て、そうやって生きている。
最初にきょうの箇所は地上のことで深い真理を示すような直接的な言葉は語られていないと言いました。確かにそうです。しかし、ここには生活の中でパウロと言う人の生き様があらわれてきているわけです。それがやはり、イエス・キリストという方から来ているのですね。実は、前に語られてきたこととつながっているのです(2章5〜11)。イエスさまが私たちにしてくださった、その救いの御業、そのことを生きている。それがキリスト者の生き方だということがここに示されています。
だとすれば、私たちはキリストのことを本当に追い求めて、御言葉に聞き続け、祈るほかないのではないでしょうか。礼拝をささげ、日々、祈るほかないのです。そのとき、すべてが変わってきます。「キリストのまなざしを私にもください」と。
※いつもながらではありますが、語った説教とこの原稿とではだいぶん異なります、よろしければ録音をお聞きください。