2024年06月02日「あなたも星のように輝く」

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聖書の言葉

12だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 14何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 15そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 16命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 17更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 18同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。フィリピの信徒への手紙 2章12節~18節

メッセージ

 きょうの聖書の箇所はこんな言葉で始まっています。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。これはパウロという伝道者が獄中から書き送った手紙の言葉であります。「わたしの愛する人たち」と、愛の呼びかけで語りはじめます。パウロは、ここである意味で危ない言葉、誤解されてかねない言葉を語ります。どうしてもこのように語りかけないではおれなかったのです。「あなたがたは、自分の救いを達成しなさい」。伝道者パウロが繰り返し語ったこと、それは人は皆、ただ神の恵みによってのみ救われるということでした。人は、自分の行い、自分の信仰深さ、そういうなんらかの人間の事柄によって救われるのではない。神の恵みによってだけ救われる。これがパウロの語っていたことです。神の恵みとは、御子イエス・キリストの救いの御業ということです。イエス・キリスト、この方は人となってこの地上に来てくださって、十字架にかかってくださり、復活してくださった。その救い、その神の救いの恵みによって救われる。それがパウロが語りつづけて来たことです。

  使徒言行録にはフィリピの町でパウロが伝道した牢獄に囚われたときにひとりの看守から「救われるためには何をなすべきでしょうか」と問われた時に、パウロが語った言葉が記されています。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」(16・31)。あなたは何もする必要はない。あなたの行いによってではなく、主イエスの恵みによって救われる。

 しかし、そのパウロがここで、「あなたがたは自分の救いを達成するように努めなさい」と言います。これは人間の努力、意志について語ります。一見すると矛盾するような言葉ではないでしょうか。これは何かの間違いではないでしょうか。そうではありません。確かにパウロはここでわたしたち人間の側が務めるべきこと、意志をもってすべきことを語っています。わたしたちの中にも、この言葉に躊躇、違和感を持つところがあるかもしれません。どういうことなのかと問いたくなるのではないでしょうか。はっきり申し上げます。ここでパウロは矛盾したことを言っているわけではありません。人はただ神の恵みによって救われる、そのことを放棄したりしているわけではありません。むしろ、ただ神の恵みによってのみ救われる、このことを重んじるがゆえに、こう語っているのです。それはこの箇所を丁寧に、注意深く読めばわかってきます。どういうことでしょうか。

 まず心にとめたいことは、ここでパウロが従順ということを語っているということです。「いつも従順であったように、いない今はいっそう従順でいて」と言います。この従順はパウロに対しての従順ではありません。神さま、神の救いの恵みに対しての従順であります。その神の救いの恵み、イエス・キリストの救いについて、この箇所の前で讃美歌を引用して、パウロが語っています(6‐11)。

ここに語られているのは、わたしたち罪人の救いのために神さまがイエスさまによってなさってくださったことです。それに対して、従順であることです。つまり、パウロはイエスさまがしってくださったこと、神の恵みがどんなに大きなことなのかをほめたたえています。それに続いて「だから…」と語っています。この神の恵みがいかにすばらしいものなのか、それに何かを付け加えたりする必要はないことを知っています。パウロは、この神の恵みについて知り抜いている人なのです。そして、それが神の恵みであるがゆえに。わたしたち人間の意志にまでも、強く食い込み、活かすものであることを知っています。思いを超えて働くのです。救いを達成するように願いを起こす。もっとわかりやすくいうなら、わたしたちを生き生きさせ、やる気にさせる、そういうところまで神の恵みは及ぶのです。パウロ自身、そのことを体感していらわけです。「宗教というのはアヘン」と言う人もいます。人間をだめにする、無気力にするといった思想家がいます。今もそのように考えてキリスト教など信じないという人がいます。しかし、きょうの御言葉はそういう思想に反対しています。神の恵みによって救われるなら、もう何もわたしたちはしなくてもいいのだから、寝て過ごそうということにはならないのです。全く逆です。神さまは、神さまの恵みはもっと深い、命の恵みであります。それは人を積極的にします。自由な意志をもって、ほんとうに自立した人間として活かすのです。

パウロはきょうの箇所でそのことを語っています。「達成する」という言葉は「掴み取る」とも訳すことができる言葉です。あなたは自分の救いを掴み取れ、と言うのです。しかし、その掴み取れというときにですね、自分の行いによってというのではないのです。あなたのために、イエスさまがなさってくださったことをしっかり信じよ、つかめということです。さらにそれは、ただ一度、信じて救われた時にというだけではないのです。まだ先があるのです。ゴールは先にあるわけです。それまで掴み、続けなさい、神の恵みにとどまり続けよ、従順であり続けよということです。

 だからパウロはこう続けます。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。わたしたちのそういう意志、やる気といいますか、そういう強い思いをも実は神の恵みとしてあたえられているのだと言うのです。要するにパウロはいつもと矛盾することを言っているわけではないのです。パウロは神の恵みというのはこれほどに大きい、深い、と言っているのです。ですから、「恐れおののいて」、自分の救いを達成するようにしなさいと言うのです。恐れおののくというのはびくびくするというのではありません。神さまの恵み深さに心打たれて、 ひれ伏す思いでということです。

 そのことはさらに続く言葉からよりはっきりします。「何事も不平や理屈を言わずに行いなさい」(14節)。多くの学者たちが指摘しているのは、ここでパウロは出エジプトのことを思い出して語っているということです。エジプトで奴隷であったイスラエルの民は、神さまによってエジプトから解放され、モーセを指導者として、神と共に歩む者とされました。それは全くの神の恵みによるものでした。紅海が真っ二つに分かたれて、イスラエルは、神さまの恵みによって救われて、神の民として神と共に歩むようになったのです。昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれて旅でした。そのようにして主が共におられて、確実に安息の地に辿り着くことができる旅でした。ただ信頼してゆけばよかった。しかし、そこで起こったことはなんだったか。民はすぐに不平を言い出した。彼らはモーセに言いました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだほうがましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」(出16・3)。彼らは神ささまの救いの恵みが与えられたのに、感謝せず、不平を言い出した。そして、エジプトにいたほうが良かったと言い出したのです。

 同じことが、今日のわたしたちにも起こらないように、聖書はだから言うのです。「ない事も不平や理屈を言わずに行いなさい」。大きな大きな神の恵みを信じて、あなたの道を歩み通せというのです。

 でもただそれだけのことを言うのではありません。それに続いてすぐにこう言います。パウロがもっと言いたいことが語られます。「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(15‐16)。

 パウロはフィリピの教会の人びとを愛していました。神さまの恵みが確かに与えられていることを見ていました。そのパウロが教会の人びとのことを思い描くときに抱いていたイメージがありました。それは、真っ暗な闇夜に、きらきら輝いている星々です。このときの教会は、まだ会堂もありません。家の教会です。信者の家庭を解放してもらってそこで礼拝していたのです。使徒言行録は、もともとフィリピの教会は、河原に集まって礼拝していたとかいています。そんな小さな群れ、力もない。そして立派さもない。教会には色んな問題もあった。でもパウロは、その教会を闇夜に輝く星星と見ていたのです。今の日本の教会もそうだと思います。私はパウロだったら、きっと同じように言うだろう、この教会を見ても同じように言ってくれるのではないかと思います。いや神さま、イエスさまはそういってくださる。

 あなたがたはこの真っ暗なこの世界の中で、輝いている星星…。いえ、それは違います、わたしたちはそんなことありません。全然輝いていない。ブラックホールのようです。そう言いたくなるかもしれません。でもそうじゃない。聖書は、わたしたち自身が立派で自分の光を輝かせているというのではありません。わたしたちは暗い、全くの罪人です。しかし、神の恵みを必要としています。ただ神の恵みが私を救う、そのことを信じています。だからこそ、きょうもこうしてここに集まって神のみ言葉に聴いています。だったら大丈夫、神さまの光、イエスさまの光がわたしたちを照らしています。わたしたちはそれを反射する。その光が、星星の光です。この世界は、まだ暗い、真っ暗、救いの朝を迎えていないから夜なのです。でもそういう闇の世界の中で神さまの恵みを信じてここにいる。そのとき、もう光を放っているのです。小さく弱い光であっても…。いえいえ、そんなことはありません。ここには「とがめられるところのない清い者」とか、「非のうちどころのない神の子」とあるではありませんか。私は非のうちどころだらけ、咎められるところだらけ…ではありませんか。実はパウロは将来、わたしたちの旅のゴールをもう見てこうっています。「キリストの日」、終わりの日、わたしたちの死の先ですね、そこを見て、神さまは、イエスさまによってこうだと言われているのです。イエスさまに結ばれて、救われてということです。それは電球と同じですね。電源とつないでランプがつきます。電源はイエスさまですよ。だからイエスさまに結ばれるとき、ピカピカ光始めるのです。

 こうして見ていくと、パウロは神さまの恵み、イエスさまの恵みを、本当に、大きなものとしていることがわかります。神の恵みに何か付け足さないといけないなどとは言いません。ただ神の恵み、それがあなたがたを救う。だから、この神さまの恵み、イエスさまの恵みをあなたがたもたいせつにして、そこにとどまり続けるようにというのです。

 そして最後に自分のことも語ります。

「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」ここでパウロは自分の死、殉教の死を語っていると言われます。それでも喜ぶというのです。神の与えられた信仰の旅を最後まで信じて全うしたい。だから、あなたがたも同じようにしなさい。どんなに辛いことがあっても、厳しいことがあっても、これこそがわたしたちを救う。ここに喜びがある。ここにとどまれ、終わりまで歩み続けよ、と呼びかけます。この聖書の箇所を読んでいるうちに思い出した言葉があります。「心のともしび」というカトリック教会の番組で昔、最初に音楽と共に朗読されていた言葉です。「暗いと不平を言うよりも、進んで灯りをつけましょう」。 まさに今日の箇所にぴったりの言葉のように思います。わたしたちが生きている世界は、本当に暗いですね。戦争があります。災害、自然破壊。人間そのものが荒廃し、社会が崩壊し続けています。どう生きていいのかわからなくなります。そんな中にあるわたしたちにかたりかけています。暗いと不平を言わず、神の恵みを信じて灯りをともして生きよ。神の恵みを輝やかして歩み続けなさい。あなたの道を終わりまで行きなさいと。