2024年05月05日「ひたすら福音を生きよう」

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聖書の言葉

27ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、 28どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。 29つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。 30あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。フィリピの信徒への手紙 1章27節~30節

メッセージ

今日の聖書の箇所はこんな言葉で始まっています。

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」。

 「ひたすら」というのは、とても強い表現です。このことに集中して、ただひたすらという意味の言葉です。キリストに救われて生きる、あなたがたはほかのどこでもない、ただただ、ここに生きればいい、生きよと御言葉は語っています。

 この言葉は、今日の聖書の箇所だけではなく、2章18節までの全体の見出しのような言葉です。ここから、2章18節までに語られていることが、ひとことの短い言葉で言い表されているのです。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」。救われて生きる者の生き方は、多くのことではなく、シンプルに、結局、このことだと、短い言葉で表現できるのです。ともするとどう生きていったらいいのかよくわからない、わたしたちにとって、このような言葉は、とても大切な言葉になります。 先日、我が家の子どもからあるテレビ番組を見るように勧められました。「不適切にもほどがある」というドラマでした。2話くらいしか見ていませんが、昭和の時代に生きた主人公が今の時代にタイムスリップするというような番組です。40年ほど前と今の社会とが面白おかしく、対比されていました。言葉の使い方や、生活習慣が驚くほど変わったのです。お父さんは、「こんな時代に生きとったんやな、ちょっと理解できた気がする…」と言われました。いずれにしても、非常に変化の激しい時代の中にあります。目まぐるしく、色んなことが変わってきた、これからも変わっていくでしょう。

 しかし、改めて思うのは、聖書はそんな中で、変わらない人間の生き方というものを伝えているということです。「ひたすら、福音にふさわしい生活を送りなさい」。伝道者パウロは、救われた者の生き方を語っています。これは、約2千年前に語られた言葉ですが、今も色あせません。変わらないのです。ではその変わることのない、神さまから与えられた人間の生活とはどのような生活とはどのようなものなのでしょうか。「福音にふさわしい生活」とはどんな生活、生き方なのでしょうか。

 「生活を送る」と訳されていますのは、ポリィトゥオマイという言葉で「市民として生活する」というめったに使われない特別な言葉です。パウロは、あえてこの言葉を使ったと思われます。それはフィリピの人びとにはこの言葉がよくわかったからです。フィリピは、ローマの植民都市でした。フィリピはギリシャにありましたが、この街の人たちはローマの市民として、ローマ式の生き方をしたのです。そのことをあえて使ってパウロは語っています。「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と。これはつまり、こういうことです。「あなたたたち、フィリピの人たちは、ギリシャにありながら、ギリシャ流に生きるのではなくて、ローマの市民として、ローマを本国として生きている。同じように、あなたたちは、キリストの福音の市民、神の国の市民として生活しなさい」と。やがて読みますが、フィリピの信徒への手紙3章20節にはこんな御言葉があります。「わたしたちの本国は天にあります」。言い換えるとキリストに救われたとき、この地上にありながら天国の市民、神の国の市民になるのです。このことが、福音にふさわしい生活ということで言い表されているのです。

 パウロは、正しい人として生きなさいと立派な生活をしなさい言っているのではないことも大切なことです。「福音」いや「キリストの福音」と言うのです。キリストの福音とは、キリストの救いの喜びの知らせです。イエス様の十字架によって、罪を赦されて生きる、キリストの愛と恵み、平和にあずかって生きることです。竹森満佐一という説教者は、「ここでパウロはわたしたちがよく語るように神を第一として生きる、神を中心として生きるようにとは言っていない」と語ります。そうではなくて福音を生きよ、福音にあずかって生きよと言っている。神を第1として生きるなんてことは、わたしたち人間にはできないことだから、パウロはそういうことは言わない。神さまの律法を守って生きることは人間にはできない。そんな人間を救うために来られたのが、イエス・キリスト。このキリストに救われ、このイエス・キリストを信じ、このただこのキリストを慕い、キリストに従って生きるのです。ですから、今日の箇所の前にも、本当に短いわずかこの1章に、キリスト、キリストとこれでもかこれでもかというように、キリストという字が書かれていました。20節には「キリストが公然とあがめられるように」、キリストが大きくされるようにと言われていましたが、キリストが大きくされる。わたしではなく、キリストが大きくされる。それが、福音にふさわしい生活です。それが天国の市民としての生活です。なぜなら、罪あるわたしたちの望みは、ただキリストの福音にあるからです。キリストによらなければどうにもならない、それを知っているのがわたしたちです。

 

 ではその天国の市民としての生活は、地上に生きて、さながら天国に生きるように、いつも平安で、喜びと感謝に満ちた生活なのでしょうか。いいえ、違います。パウロはそうは言っていません。

もう一度、今日の箇所を最初から読んでみましょう。

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう」。

 何が聞けるのでしょうか。

「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと」。

 確かに、キリストの福音に与るならば、内なる平和、平安をいただくことができます。しかし、それは、順風満帆であって、静かで穏やかな生活が送れるようになるということを意味しません。そこにはどうしても「戦い」が生じてくるのです。パウロは、その戦いを「福音の信仰のための戦い」と言います。福音の信仰によって天国を本国として生きるようになったものには、その福音のための信仰の戦いがあるのです。よく考えなら、それはあたり前のことです。わたしたちは、天に籍があっても地上にあるのです。この地上の世界は、まだその全てがキリストを主としているわけではないのです。だから、そこに戦いが生じてくるのです。内にも外にも戦いがあります。わたしたちは、心の内側に、いつも戦いがあるのではないでしょうか。福音に反する、自分の欲望、自分の思い、自分の願いというものがあるのを知っています。また、外にもまた、戦いはあります。パウロは、特に「反対者」について述べています。この反対者とは誰か、ここには何も直接には語られていないのでわかりません。けれども、聖書を読むと、いつも反対者に教会が囲まれていたことはわかるのではないでしょうか。ある人は、ここに反対者が誰なのか、書かれていない、はっきりと名指しされていないことが大切ではないかと言っています。それはいつの時代、どこにでも、誰にでも存在します。また神とキリストに敵対する力、諸霊というものがこの地上には働いていることも見つめられているのかもしれません。

 フィリピの信徒への手紙3章18節には、「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に対して敵対しているものが多いのです。彼らの行き着く先は滅びです」とあります。ここを読むと反対者とはどういう存在なのかがわかってきます。反対者は、敵ですが直接、教会のというわけではなく、根本的には、キリストの十字架に対しての、キリストに対しる反対者です。キリストの救いを認めないのです。十字架を否定するのです。それは目に見える迫害者というだけではないと言えましょう。人間が価なしただ十字架によって救われるなんて、こんなバカな話はない。こんな都合のいい話はない。こんなことなどあるはずがない。人間は自分で、自分の努力によって救われるのだと信じている、それがここでの反対者です。十字架は要らないのです。十字架のキリストを大きくしないで、結局、自分を大きくすることに生きようとするのです。あるいは、キリストの立派さや素晴らしさはある程度は認めても、ただキリストの十字架によって救われる、そういうことはどうしても信じないのです。パウロの時代には、いつもユダヤ教キリスト者という人たちがいて、ある程度、キリストのことは認めながらも、それにプラスして、やはり旧約聖書の律法を守らなければ救われないという人たちがいたのです。形は違っても、このキリストの福音、十字架のキリストということで、内に外に戦いが生じることは、わたしたちにもよくわかるように思います。

 

 ではパウロはその戦いをどう戦えと言う

のでしょうか。そのことを伝えているのがまず第1には「一つの霊によって、しっかり立ち、心を合わせて」と言う言葉です。「一つの霊」とは、聖霊なる神様のことです。聖霊は一つです。だから、しっかり立って、わたしたちは一つになることができます。パウロが見つめているのは教会のことです。教会は、あらゆる意味で人間の力によって、ひちつになることはできません。聖霊によるほかないのです。聖霊が一つであるが故に、わたしたちが一つにされるのです。聖霊は、福音の信仰にわたしたちをしっかりと立たせます。具体的に言うと、わたしたちが福音の信仰に生きるためには、教会が必要だということです。教会といっても建物のことではありません。神の民、天国の市民として、呼び集められて共に礼拝することです。御霊の導きに預かり福音の言葉に聞き続ける、それが戦うと言うことです。それは一人じゃどうにもならないと言うことです。キリスト教の信仰は、群れの信仰なのです。根本的に孤独なものではないのです。交わりが与えられるのです。ですから、聖書は最初から最後まで、群れ、神の民、教会と言うことを語っています。出エジプトの時にも神の民でしょう。約翰の黙示録が語る、終わりの日の救いの完成の時にも神の民なのです。日曜日の礼拝に集うことにも戦いがありますし、それだけではなくこの礼拝も戦いだと言うことになります。

 また、この戦いはどんな戦いか、どう戦うのかと言うことについて、パウロは、もう一つ、大切なことを「脅されてたじろぐことはない」とか語っています。たじろぐと言うのは、狼狽させられる、ぐらつくと言うことです。しっかり立てなくなるのです。パウロは敵、反対者をやっつけなさいとは言いません。この戦いで大切なことは、やっつけることではなく、狼狽したり、うろたえたりしないことだと言うのです。それがすでに勝利になる。勝ちになるのです。

 キリストの十字架、十字架の救い、やっぱりここが揺らがされると言うことはわかるのではないでしょうか。ここに戦いが起こってくる。みんな自分を見てしまいます。欠けがあり、破れがある。 また失敗しますし、罪を犯します。

 悪魔、悪霊というのは、いつも十字架に反対します。キリストが十字架で、救ってくださるというけれども、この世の中はこんな風じゃないか、無茶苦茶ではないか。またお前も、全然、ダメじゃないか、そういう風に十字架を否定します。

そこで戦うのです。そこで礼拝に集い福音を聞く、だから教会の説教で一番、大切なことはここなのです。福音を語り聞くことです。ほかのあれこれのことではないのです。だから、説教者というのはこのことに集中しなくちゃいけない。また聞く人たちにとっても一番、大切なことは、福音をきくことです。実はそのためにわたしたちの教会では御言葉を聞く会というのは今、はじめています。特に、今の時代、この十字架の救い、福音なしにみんな生きれないのです。そして、ぐらつかないでここに立ち続けることがそういう中で起こされていく。「このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです」。わたしたちが共に礼拝し、福音の信仰にうろたえずに立ちづつけるだけで、それが救いをはっきり示すことになるのです。こういう戦いの仕方は、すごいです。こういう戦いがあるのです。つまり、実は、わたしたちが、何描こう特別なことをしなくても、ここにとどまるだけで神の戦いを戦っていることになるのですね。自分はダメな人間だけれども、だからこそ、キリストが救ってくださった、十字架にかかってくださったんだということに立つ、その時、神さまが勝利しておられるのです。

 けれども、間違ってはならないことがあります。勝っても、それで苦しみがなくなるというわけではないのです。だからパウロはこう語ります。

「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。

 苦しみは残るのです。この地上にある限り、消えて無くならない。あり続ける。しかし、その苦しみもまた、恵みの賜物として、神から、与えられたものだというのです。驚くべき言葉です。信仰の生活には、喜びがあります。しかし、その喜びの中には、苦しみもまた含まれているのです。その苦しみは、キリストのための苦しみなのだというのです。 

 このフィリピの信徒への手紙は、喜びの手紙と呼ばれます。それは喜びという言葉が何度も、この手紙の中には出てくるからです。けれども、この喜びの手紙の中に、このようにして苦しみという言葉が出てくることは大切なことではないでしょうか。聖書においては、喜びの反対が、苦しみではないのです。喜びの中に包まれるようにして苦しみが存在するのです。苦しみがあったら喜びがないというのではないのです。苦しみの中でも、喜びがあるのです。これが福音にふさわしい生活です。