2024年04月21日「喜びの秘訣」

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聖書の言葉

12兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。 13つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、 14主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。
15キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。 16一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、 17他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。 18だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。 19というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。フィリピの信徒への手紙 1章12節~19節

メッセージ

今朝、わたしたちに与えられましたのは、フィリピの信徒への手紙の1章12節以下の聖書の箇所です。この手紙は、パウロという伝道者がフィリピという町にありました教会に宛てて記したものです。このとき、パウロは牢獄に囚われておりました。エフェソの牢獄と思われますが、ここでの獄中生活はずいぶんと厳しいものであったのではないかと言われます。囚われていてもある程度自由が許された場合もあったようですが、ここではそうではない。13節には「わたしが監禁されているのは」と言っていますように、文字通り、柵の中に犯罪を犯した人たちと入れられていたようであります。パウロという人は伝道者として、キリストのことを旅をしながら町々に伝えていった人です。パウロがいたから世界中に福音が伝えられていったと言う人もいます。でもその人が、今は動くことはできません。牢獄につながれてしまっている、そういう中で彼はフィリピの教会の人たちのことを思って手紙を書いたのです。まず彼は挨拶を書いて、教会の人びとを愛し、祈っているのかを伝えました。続いて、今日の聖書の箇所で彼はこう語りだします。

「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」。

 彼は牢獄で苦しい目にあっている有り様を語り出したのではありません。不満や悲しみを語ったのでもありません。

 あながたにどうしても知って欲しいことがある、伝えたいことがある。それは、こうして牢獄に捕らえられたことが、福音の前進に役立っていることだ…。

 このパウロの言葉には喜びの響きがあります。実際、今日の箇所の18節には、「それを喜んでいます。これからも喜びます」と喜びを口にします。

 こう言っても良いでしょう。

 牢獄でパウロは、何かを発見した、見出した。その喜びを、愛する教会の仲間たちと一緒に分かち合いたいのです。

 しかし、今、伝道者パウロは、牢獄の中にいるのです。ここから外に出ることはできません。旅することもできません。

 フィリピの教会の人びとだけではなく、パウロのことを知っている人はみんな、これで何もできなくなったと思っていたでしょう。教会の中にはパウロのような人が捕らえられてしまって、これから自分たちはどうなるのだろうと心配する人もいたでしょう。しかし、その人たちに何も心配する必要はないと伝えるのです。

 パウロ自身、捕らえられたばかりのときには、不安を感じていたのではないかと思います。わたしたちは聖書に登場する人間はみんな特別な人だと思いがちですが実はそうではありません。パウロもまた生身の人間なのです。わたしたちと同じように、悩んだり苦しんだり、また失敗したりするし過ちを犯すこともまたあるのです。いじれにしても、パウロ自身、捕らえられたときに、これで福音の前進が阻まれたと思ったかもしれません。

停滞したどころか、後退したと思ったかもしれません。なぜ、どうしてこんなことがとうめいたかもしれません。しかし、そのことはいつまでも続かなかったのです。

 彼は気づかされたのです。

 自分が囚われても、なおそのことによって福音が前進していることに…。囚われたことは伝道の妨げにならないで、それがかえって前進になる、これは意外なことで常識外れのことに思われるかもしれません。

 けれども、わたしたちの生活にも似たことは起こるのではないでしょうか。苦難の中に恵みがある。喜べない苦しみの中に、実は…。なぜ、自分が、どうしてこんな目に遭わねばならないのかと思え痛みを抱えつづけることがあっても、やがてまったく思いがけず、実はそこに恵みがあったということを見出すことがあります。

 今日の御言葉には、「福音の前進」という言葉が用いられています。この言葉は、もともとの言葉では、開拓者が道を作って進むというときにも散られる言葉です。木や石を取り除いて、道なきところに道をつけていく、そんなときに使われる言葉です。

 昨年、教会の桜の木を伐採しました。70年を超える巨木で危険を避けるために何人かで切り倒しました。結構たいへんな作業でした。実は今年に入って、その切り株の部分を切りました。実は3日かかったのです。わたしはその内の1日分しか手伝いませんでしたが、冨永氏がその作業をしてくださいました。ものすごく、たいへんでした。

木というのは根元にいくほど頑丈にできています。2日目にはチェーンソーの刃が折れてしまいました。もうだめだと、もうそのままでいい、あきらめかけたのですが冨永さんはあきらめない。そして、三日目の朝、切れました。

 前進するということはこういうことなのだと思うのです。そこには苦労がどうしてもあるのです。簡単に行くなんてことはないのです。

 日本に福音が伝道されて150数年、キリシタンの時代を含めるともっとなになりますが、それは苦労の連続だったのではないでしょうか。この教会一つの歴史だってそうです。

 人間の罪、荒廃が問題になるのです。そういういうところに救いが切り開かれていくのですから、それはものすごく大変なことなので、苦労がどうしても起こってくるのです。

 パウロは気付いたのです。自分が捕らえられてそこで苦労を担って、そのことによって福音が切り開かれていくのだということを。こうしてわたしが捕らえられることで、福音が前進しているということを…見出させられた。

 その福音の前進の具体的な様子が、13節以下には語られています。

「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。

 ここでパウロは、牢獄の中と外のことを挙げています。獄の中には、看守もいて他の囚人たちもいたのですが、彼らがパウロを通して福音を聴いて信じることになったということでしょう。そして、獄の外では、諸教会の人たちがパウロが捕らえられたことによって、尻ごみしたりすることなく、ますます御言葉を伝えるようになったということです。

 けれども、ここで語られているのは、ただ単にそういう現象が起こった、だから福音が前進しているということではないのです。パウロが伝えたいことは、そういう現象ではないのです。

 それはこういうことであります。ここには、牢獄の中にいる人達が、「パウロがキリストのために牢屋に入れられていることを知った」とあります。

ここは、犯罪を犯したのではなく、キリストを信じるがゆえの理由で、牢獄にいることがわかったというように読めるかもしれません。でもそれが福音の前進になるでしょうか。ただ知っただけだったらそんなことは特別なことではないでしょう。実は、たいせつなことがここにあるのです。

「キリストのために」という言葉は「キリストの中で」、イン・クライストという言葉なのです。キリストの中でというのは、キリストの導きの中でということです。キリストが生きておられ、そのキリストの導きの中でということです。

 ここにパウロが見ていること、見出していることがあるのです。それは自分が今、牢獄の中にある、苦労し苦難の中にいるのは、キリストの導きによる、キリストのご支配の中のことである。キリストの支配の中で、このことが起こっている。そして、パウロは、そのことが周りの多くの人たちの知るところにもなったというのです。キリストがおられ、キリストがお働きになっておられるからです。だってそうでしょう。ただパウロが、キリストのために苦しんで牢獄にいるのを知っただけでは何もならないでしょう。それ見ても、それで信じるということにはならないでしょう。かえって迫害を受けて恐ろしい信仰だと思うだけではないでしょうか。そうじゃなかった。それはキリストが生きて働いておられたからです。だから、パウロの苦しみを見て、キリストの中で導きの中で信じたのです。

 そして、実は14節の「主に結ばれている兄弟たち」もやはり、イン・キュリオスなのですね。主の中で。主が生きて働いておられる、主の中にある、だから兄弟たちもパウロが捕らえられてもなお福音を伝えているのです。

 伝道というのは、最初から最後まで主イエスの業、お働きなのです。ひとりの人が神を信じるようになる、それは生ける神さまのお働きなのです。勇気を出してわたしたちが信じて生き続けて、ずっこけながらも信仰生活を続けているとすればそこにはキリストのお働きというものがあるのであります。わたしたちは皆、キリストのご支配の中を生きているのです。このとき、パウロはそのことを見出していたのです。「主は生きておられる」ということを…。それを分かち合いたいのです。

 このことはわたしたちにも意味を持ってきます。わたしたちもキリストの中に生きているからです。その恵みの支配の中に生きています。だからわたしたちの小さな生活も無意味にはならない。苦しみや病いもまた用いられる。意味があるわけです。福音の前進、教会の伝道、歴史というのも、なんかすごい伝道者が現れて進められていくというのではないのです。一人ひとりの信仰者がキリストを信じて祈りながら生きていく、パウロのようではなくても、やはり苦労したり、悩んだり、悲しんだり、苦しんだりする、そういうやって生きていく、そのことの中で伝えられていく。わたしたちにはどのように用いられるのかわからないのですね。パウロはそのことを喜びの中で伝えたいのです。

「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」。

 パウロは、牢獄の外の様子をもう少し丁寧に語ります。パウロが囚われている間に、ますます福音を伝える人たちがいた。この人たちはキリストのみ心を尋ね、キリストが生きておられることを知って、キリストの愛を覚えて、福音を伝えていた。けれども、違う人達もいた。この人たちがどういう人達なのかはよくわかりません。パウロの敵対者という人もいますが、敵対者というほどではなく教会員の中でパウロに批判的だった人たちかもしれないとも言われます。よくはわかりません。いずれにしても、パウロがいない間に自分たちの支持、勢力を広げようとして、そういうよくない動機、ねたみの思いから福音を伝えていると言います。

 こういうところから、パウロという人が決して、単なるお目で出たい人ではなく冷静に現実を見るまなざしを持っていたということを知らされます。

同時に彼は非常に寛大です。汚いもの、不純なものは絶対に許さないとはしないのです。人間がどんなに愚かで、汚れていても、キリストが述べ伝えられているなら、それでいい。

 「それが何であろう!」

 ものすごくタフな言葉です。霧を吹き消すような言葉です。このことも、彼が、キリストの恵みのご支配を見ていたことの現れであります。キリストの恵みの支配は、わたしたちの内にも外にも及んでいるのです。それは、非常に広いのです。こんなところにまでというところまで届くのです。

人が自分をどう思っているとか、そういうことがすぐ気になるわたしたちも、「それが何であろう!」ということはできるのではないでしょうか。

 キリストが伝えられていることを、わたしは喜んでいます。これからも喜びます。

 キリストの恵みのご支配がある、内にも外にも、それは今日も変わりません。それなら、わたしたちもまた何があっても、喜べるのです。今も、これからも喜べる。

 先日、ある本を読んでいましたら、『ドリーム・ハラスメント』ということばが紹介されていました。大学生や高校生が、「将来の夢は何ですか」とか「10年後の自分はどうなっているのか」というタイプの質問をされると気鬱になる、そのためにそれがハラスメントになるというのです。

 とても驚きました。『夢を語る』というのは、楽しいはずです。でもそうならない。むしろ、自分の未来について考えることに苦痛を感じてしまうのです。それほどに今にも未来にも絶望しているということでしょうか。

 なぜそんなことになるのか。それは自分しか見ていないからだではないでしょうか。自分の範囲を超えることができない。自分を見つめていたらそこには喜びは生まれない。未来の希望もそこには見えてこない。聖書は、そういう自分を超えるものを語っているのです。それがキリストの恵みのご支配ではないでしょうか。それを見ることがパウロの喜びの秘訣であり、そうするようにわたしたちを御言葉は招いているのです。